遠雷エンライ――――第弐幕フタツメ









小さな火種が大火を招くことは、往々にしてある。どんなささやかな火の粉にも、けっして油断をしてはならない。
それはもしかすれば、己を焼き尽くす炎となって襲いかかるかもしれぬのだから。





外界の喧騒を、王は早い段階で認識していた。
自ら城の外へ出るまでもなく、王には耳目となる尖兵がふたつある。 一方はこちら、魔界と呼ばれる世界を飛び回り、もう一方は人界の空を巡り、 それぞれに得た情報のすべてを王に伝達する仕組みとなっている。 それらの存在を巧みに動かすことで、自らは城に腰を据えたまま、 どちらの世界の情勢も正しく知ることができるのであった。

こちらの世界は争いが日常となっている。といっても、それは小さな諍いの域を出ない。 争乱を起こせば王によって瞬く間に征圧されることを、闇の住人たちはよく知っていた。
王は文字通り絶対的な支配者である。力がすべてであるこの世界において、 王を凌ぐ実力を持つものは今のところ存在しない。 王を護る兵たちもまた選りすぐりの精鋭揃いとなれば、乱など起こそうという気にもならぬのだろう。
それが今、奇妙な騒ぎを起こしている。
王の二体の尖兵のうち、こちらの空を専らのに駆るのはフギンという名の大鴉である。 その大鴉が、蒼い左目を眇めるようにして妙だと語った。

「……漠然としすぎているな」

はっきりとした火種を見たわけではないが、妙にざわめいている。そう話す大鴉へ、王は言った。
確かな理由がない限り、王が軽々しく玉座を離れることはできない。ただでさえ、王は政務に忙しい。 法などあってないような世界においても、雑務と呼ばれる仕事は多々あるものだ。

「暫し様子を見る。引き続き警戒しておけ」

慎重にことを構える。これは王として必要なことだ。しかし慎重にすぎてもならない。 王にはものごとの時機をよく捉え、機敏に判断することが求められる。
そのために、王はこの大鴉を暇なく働かせるのであった。 おいそれと玉座を離れることのできない己の代わりにするには、翼あるものはいかにも適している。

大鴉は低頭するように嘴を下げ、両翼を広げた。止まり木を軽く蹴って、ふわりと滑空して扉へ向かおうとする。 そこでふと、扉が鳴った。扉を出た両脇には、ふたり、常に衛兵が立っている。 そのうちのひとりが、王へ何ものかの訪いを知らせたのだ。
艶やかな濡れ羽色の翼でゆるりと空を薙いで旋回し、大鴉はもとの止まり木へ舞い戻った。

「通せ」

氷のような冷徹な声音で、王は告げた。その仮面のような横顔を、 大鴉が色違いの双眸でじっと見つめているが、王はそちらを見返すことはしなかった。





この世界は力によって成り立っている。
力なき者は淘汰され、より力ある者だけが生き残る文字通りの弱肉強食の世界にあって、 現王は長らくその地位を保っていた。
前王を弑しその玉座を奪うほどの実力を持ちながら、 あえて危険性の高い“半身”を人界から迎えた王の内心を推し量ることのできるものはいない。 その翼でもって世界を見聞する大鴉でさえも、王の心を覗き見ることは叶わないのだ。

この世は力がものをいう。最強の王は、けれどもその強さゆえに孤独であった。





なんのために生まれたのか。なんのための力なのか。男はひとり、考え続けていた。





物音がひとつ。がたん、と響いたそれにバージルは眉をひそめた。 音はバージルの居室から聞こえたものであるが、その発生源が何であるか、バージルにはわかっていた。 だからこそ、渋面を浮かべたのに違いなかった。

(またか……、)

扉を護る下僕は、物音が気になりこそすれ室内への立ち入りは赦されていないため、 どこか浮ついた様子でバージルを迎えた。バージルはそれらを無言で追い払い、 自らの手で扉を開けた。門番のように下僕を立たせている目的は、警護のためではない。 この部屋への自分以外の出入りを制限するためだ。
そもそも王の居室に立ち入ることは下僕は当然のことながら、王に近しい臣下のものにも赦していない。 広大な城内にあって、そこは一種の禁区となっている。出入りが赦されるのはただ、王の“半身“のみだ。 ならばわざわ下僕を立たせる必要はないように思われるが、そうもいかぬのが現実であった。

造作の凝った扉を後ろ手に閉め、バージルはもう一度肩をすくめた。

「……また、抜け出そうとしていたな?」

バージルの“半身”は絨毯へ直接座り込んでこちらを見上げている。 その、どことなくばつの悪そうな表情に、バージルは己の推察が的を得ていることを確信した。 バージルとしては、外れてくれていたほうがよかったのだけれども。

「今日は早かったな」

不貞腐れたように唇を尖らせ、彼が言う。目論見が露見したことを悔しがっているのか、 それとも何かしら拗ねているのか。バージルにはわからないが、彼の脱走を未然に防ぐことができて満足ではある。

彼はもうずっと、体調が優れない。治るものではないと、 薬師が不本意そうに渋面を浮かべたのは、もうずいぶん前のことだ。
原因を知っているバージルにとっては、薬師のように渋面だけで済ますことのできる問題ではない。 その原因であるものを排除しようと、これまで何度も試したが無為に終わった。 彼がそれの排除を頑なに拒絶しているからでもある。
それが存在するせいで、彼は文字通り命を削っているというのにだ。

「……何かあったのか?」

彼が気遣わしく問うてきた。他者の心情には疎いというのに、ささいな変化にはなぜか鋭いときているから厄介だ。

「何か、とは何だ?」

空々しくも問いに対して問いで応じたバージルに、彼が眉根を寄せた。

「わからねぇから聞いてんだろ」

もっともなことだ。かといって、包み隠さず語って聞かせるようなバージルではない。

「煩わしい単調作業に飽いただけだ。おまえが気にすることではない」

バージルは彼に対して嘘をつくことをしない。だから今の言葉にも偽りはなかった。 ただ、すべてを話してはいないというだけで。
彼はどこか腑に落ちない表情をしながらも、ならいい、と己を納得させたようだ。 バージルが彼に対して嘘をつかないことと同様に、彼はバージルを疑うことを知らなかった。
そう、今までは。

「で、今日はもうこっちなのか?」

一日の大半を政務に費やすバージルであるため、居室で過ごす時間はとても短い。 反対に彼は一日のほとんどをこの部屋で過ごしているが、さらに言えばその半分以上が睡眠時間であるため、 バージルが見る彼の顔は必然的に寝顔が多い。 それも悪くはないのだけれども、どちらかといえば声を聞きたいし、彼の笑顔をバージルは気に入ってもいる。

たまには居室で彼とふたり、ゆったり過ごしたいとは、常々思っていることだ。 けれどもそうはいかないのが現実である。だからせめて、時折でも、早いうちに居室へ戻るようにしている。 そうすると、彼がどことはなしに嬉しそうにしてくれる。それはバージルにとっても嬉しいことなのであった。

「あぁ、そうだ」

「そうか……なら、よかった」

脱走の目論見が破られたことは、もはや頭にないのだろうか。 ほっとしたように笑みをこぼす彼を見やり、バージルはふと表情を消した。 ――意識的にそうしたのでなかった。まったくの無意識であったからこそ、 こちらを見上げる彼が訝しげに首をかしげたのに違いない。
なんだ、とバージルは彼へ問う。彼は何か言い淀み、やっぱり、と眉間に皺を寄せて言った。

「何かあったんじゃねぇのか……?」

「……他愛ないことだ」

バージルは冷ややかに言い捨てた。氷よりなお冷たい口調はいつものことで、 彼はもはや聞き慣れてしまっているのだろう。気圧されたふうもなく、それでも、と言葉を募らせた。

「話してほしいんだよ、俺としちゃ、な。アンタにはこういうの、わからないかもしれねぇが」

あぁ、わからない。わからないよ、ダンテ。
私はおまえと同じひとではないのだから。

彼がちょっと寂しそうに目を伏せた。 長い睫毛が震えているように見えたが、泣いているわけではない。 一心一体の身であっても、バージルと彼の間には互いに理解できぬものが確かに存在する。 それは言うなれば溝であり、けっして埋めることのできぬ淵だ。 彼は時折それの存在を目の当たりにし、絶望するのだろう。

「ダンテ、」

呼ばわり、バージルは彼へ手を差し出した。 彼が顔を上げると、くすみのない蒼い双眸に翳のある男がひとり、映り込んでいる。
バージルの手に、彼が自らの手を載せた。その手を握り、反動をつけず彼をぐいと引っ張り起こす。 軽い。近ごろ、とみに痩せたように思う。力に満ち溢れていたあの頃とは、まるで別人だ。
老いによるそれとは違う衰えを、彼自身はどうということもないように振舞って見せることがある。 それが、バージルにすればいっそう腹立たしくてならないのだった。

だからやめろと言ったのだ。良いほうへ転ぶわけがないと。

あのとき。
バージルの助言を無視して己の意志を貫いた彼は、なぜか神々しく輝いて見えた。 母になるということは、ある種の意味で、神に近づくということなのかもしれない。

「バージル?」

抵抗もなく腕の中に収まった彼が、訝しげに首をかしげた。 何でも話してほしいと言った、その言葉を暗に匂わせているのかもしれない。 けれどもやはり、バージルは口を閉ざし何を語ることもしようとしないのだけれども。

それは小さな、わずかな火種。

「……何があっても、おまえに害が及ぶことはない」

独白のようなつぶやきは、彼の耳にはどう聞こえたのか。

「相変わらず……争いごとが絶えないのはどっちも同じだな」

ひとの棲むあちらと、闇の棲むこちらと。どちらの世界も知っている彼は、憂えるように囁いた。

「……仕方あるまい」

それでもこちらの世界で起こる争いは、バージルが王として君臨する以前と比べれば格段に減ったのだ。 小さな諍いやいがみ合いなどは、言ってしまえば秩序の一部のようなものであり、 全くの平和などいっそ不自然と言ってしまってもいい。 たとえ種族が違っても、慾というものがある限り、大なり小なり争いがなくなることはないのだから。
ほんの小さな、些細な火種。それが大火に成長することも少なくはない。

(降りかかる火の粉は払えばいい。だが、もし……)

珍しく将来に憂いを覚えたバージルは、はたと自覚をして自嘲めいた笑みを浮かべた。 彼の杞憂がうつったのだろう。

バージルは彼の肩口に顔を埋めた。永らくこちらの世界に棲んでいながら、 彼のにおいはあちらの世界を思い出させるから不思議でならない。
太陽という名の、眩いそれに普く照らされた世界を、バージルは確かに美しいと思った。 彼はその、太陽のにおいがする。
こちらの世界には馴染むことはないのだという、言外の警告のように感じられることもある。 さもあらん、とバージル自身も同じように思うくらいだ。 けれども。それでも、バージルは彼を手放すことなどできるわけもない。
彼は自分の“半身”だ。彼がともにあって初めて、己を一個の存在として確立することができるのだから。

“半身”を失えば力を失くし、それはすなわち死と同義である。 そのことを、バージルはよく知っているけれども、かといって恐れは感じない。 バージルが恐れているのは力の喪失などではなく、彼の死そのものである。





喪うことのできないものを抱いた者は、とても、とても弱い。

護るべきもの、それは即ち己の弱点となる。

そうと気付いたときには、もはや手遅れなのだ。





片眼鏡が篝火の緋をきらりと弾く。
長い後ろ髪をうなじで一つにまとめた男が、大きな体躯をぎゅうと縮めるようにして立っている。 頬には笑み。目をきょろきょろと泳がせるようにして、眼前の黒い影たちを見渡した。
あまりに不敵なその態度と仕種を、影たちが快く思うはずもない。 声ならぬ声が男を学者風情と侮蔑し、罵倒する。 男はしかし、それらに対し激昂することはなかった。 己が学者であることは間違いのない事実であるし、何より眼前の影どもはその学者風情の掌の上にあるのだ。 滑稽と思いこそすれ、憤怒を覚える意味も理由も男にはない。

落ち着きたまえ、と男は影どもを睥睨した。

「これはき、君たちのためでもあるのだよ。 人間の血肉では、腹を満たしてみ、みたいとは、君たちのし、宿願といえるだろう?」

それは当然だが、と声なき声がぼそりとつぶやく。影らは皆、常に飢えとともにある。 それは彼らにとっての糧が絶対的に不足しているからに違いなかった。 飢えたからといって死に至ることはないのだけれども、糧はあるに越したことはなく、当然ながら多ければ多いほどいい。
男には影どもの考えることが手に取るようにわかった。 根本的に、彼らはとても単純だ。闇に棲むものたちは、下等であればあるほど本能に従順である。 そのため彼らが望むものを想像することは非常に容易い。

「だが、あちらへは易々とは行けぬ。どうするつもりだ」

どこからともなく、冷ややかな声が届いた。声の主は見えないが、男にとっては大した問題ではない。

「わざわざ、け、結界を越えるひ、必要などないのだよ。わか、わからないかね?」

ざわざわと空気がどよめく。どういうことだ、と何ものかが問うのへ、男はやれやれと言いたげに肩を竦めて見せた。

「そそ、そんなこともわからないとは、あき、呆れてものが言えないね」

侮蔑のこもった言いざまに、なんだと、と不穏な声があがるが、男は気にしたふうもない。

「あ、荒事は遠慮するよ。私はが、学者だ。きき、君たちがそう言ったというのに、わす、忘れたのかね?」

良いかね、諸君。男はわざとらしく周囲を見渡した。

「君たちが充分な、かか、糧を得るには、ま、まず、王を廃位させねばな、ならないのだよ」

なんだと。恐ろしいことを。そんなことは不可能だ。
さまざまな声音がざわざわとあがる。その大半は王への畏怖であり、男の恐れ知らずな発言への恐怖であった。

「ま、待ちたまえ」

男は泰然と笑う。

「策なら、ある。公算も、だ。それに、きき、君たちにはあちこちであ、暴れてくれればいいだけなのだよ。 小さな諍いはい、いつものことだ。王がち、直接お出ましになることはあり、あり得ない。……簡単だろう?」

火種は小さいほうが勝手がいい。満足げに笑う男に対し、影どもは終始不審を拭えなかったようだが、 少なくとも王と直接対決しなくともいいのであれば、にわかに信じがたい話だが乗ってみるのもやぶさかではない。 それで万が一にも、糧を心行くまで得られるのであれば。

いいだろう。その話、乗った。

影どもは口々に囁き、ひとつ、またひとつ、ゆるゆるとその場から立ち去っていった。 あとに残ったのは片眼鏡の男がひとり。頬にはいやな笑みを乗せ、影らの背中をひとつ残らず見送った。 そうして声をあげて嗤う。

「や、やれやれ……本当にたん、単純な連中でた、助かるよ」

くつくつ、くつくつ。肩を震わせる男の背中から、羽虫のそれに似た翅が白衣を裂いて現れた。 それに合わせ、男の躰そのものが一回りほど大きく膨れていく。 指は節の目立つ枯れ枝のように、顔は目ばかりが異様に大きくなり。 姿形こそひとのそれに似ているが、けっしてひととは呼べぬ生きものに転じている。
ふ、と男の足が地面から離れた。背の翅が忙しなく動き、男の巨躯を持ち上げたのだ。

「我が本願がは、果たされるのももうすぐだ。ふふ、うふふふふ……」

男の笑い声が、月を背負った宵の空に不気味に響いた。



















戻。



ふうふは良いですな。というわけで息子、割愛。申し訳ない。
久々に書いたので設定とか差異があるかもしれませんが、
どうぞ大目に見てやってください。とりあえず土下座します。

※2/28…タイトル微調整。