遠雷――――羅紗
あれが生まれてからというもの、彼の口からは「なぜ」という言葉が頻繁に紡がれるように
なった。
なぜ、とは以前にもよく聞いた言葉ではある。それは彼と自分との間のみに成立する
疑問であり、第三者が介在することはなかった。だからこそ彼の疑問を耳障りに思ったこともなく、
笑みすらもって答えることが出来たのだ。
しかし、
「なんでそんなに、あいつを邪険にするんだ」
その疑問を聞くのは、もう何度目のことか。彼とて紡ぎ飽いた言葉だろうにと、眉を顰めた王を
彼は何かしら勘違いしたらしく鋭く睨みつけてくる。濁りのない碧眼は、いつか見た人間界の
雲一つない空の色だ。月と陽が入れ替わることのないこちらの世界に永くあっても、彼の双眸は
黒みを帯びることを知らない。
少し、魅入っていたようだ。早く答えろと、彼が険しい表情でせっついてくる。これまで何度も
繰り返してきたやり取りを、彼はまだ飽かずに続けるつもりらしい。
大儀なことだ。口にはせず、内心で一人ごちる。
「知りたいか?」
答えをはぐらかされ続けていると思っているのだろう彼は、驚いたように目を見開く。訊いて
きたのはそちらであるのに。王は薄く笑み、彼の銀色の髪に指を差し込んだ。
年は相応に食っているだろう彼だが、王からすれば子どものようなところが多々ある、かわいい
存在だ。飽く程に寿命の長いこちらの世界の住人にとっては、彼などは確かに子どもと言って
良い若さではあれども。
「知りたいよ。だから何回も訊いてるんじゃねぇか」
知りたいからこそ訊いている。それはそうだろうと、王は他人事のように納得した。彼といえば、
旺盛な好奇心に背中を押され何かにつけて首を突っ込みたがる悪癖があるのだが、この件に関しては
好奇心云々の問題ではないということを、王は王なりに理解しているつもりでいる。その上で、
明確な答えを彼に与えたことはないのだ。
指に馴染む髪の感触を味わいながら、ゆらゆら揺れる燭台の明かりに照らされた彼のおもてを
見つめる。今宵は月が蒼褪めていた。王はそれを、良い色だとは思わない。
「私はあれを、邪険にしてなどないよ」
意図して笑みを浮かべた。それは彼にしか見せることのない微笑だ。目を瞬かせた彼は、王が
続けて紡いだ言葉に愕然とする。
「憎悪。あれに対し私が抱くものは、この一言に尽きる」
彼以外の何ごとにも興味の一端すら覚えぬ王が、あれに憎悪という確かな感情を抱いているという、
その事実に彼は辿り着けなかったようだ。
「なん、で、憎んで……」
茫然と、彼はそれだけ呟いた。信じたくないのだろうと、王はあたりをつけた。薄々(これも
現実から目を背けた表現である)気付いていたのに違いないが、違うに決まっていると楽観して
いたのだ。確かに彼には理解の出来ぬ類の感情であろうし、ただでさえ彼はあれのことを大事に
している。
彼がそうだからと言って、王にまでそれを求めることの矛盾を、彼はまるで判っていないのだ。
「……お前が私の子を孕んだと知ったとき、私が何をしたか。いや、しようとしたか。忘れた
わけではないだろう」
彼の端整な顔立ちが強張る。王は彼に堕胎を強いようとした。彼が眠っている間に彼の腹を
裂こうとした。子を産ませる気など微塵もなかった――殺しておかねばならなかったのだ。
しかし彼はそれを拒絶した。その段階で既に、あれの保護者は彼一人であったのだ。
「あれを、望まれて生まれたものと思うな。私はお前に、子など産ませるつもりはなかった」
何が生まれるのか、判りきっていたからこそ。
己の分身を愛する者がこの世に存在するか否か。少なくとも王は、嫌悪し憎悪する。その根底には
全く逆の感情が眠っていることも、正確に自覚し理解もしているが。しかし、理解と納得とは
違う。王はあれを、憎まねばならないのだ。
己の醜い慾望を象徴し、常に突き付けるあの分身を。
まさしく分身らしく彼への慾を募らせているくせに、その慾をひた隠しにするあれを。
「下らぬ話はここまでだ。もう、黙っていろ」
伸ばされた手を、ダンテは拒まなかった。寝台で他の男の話はするなと、いつか言われたことを
思い出す。あのときも、男はいやに不機嫌だった。
他の男、などと。我が子の話をするのに場所など問題にらならぬ筈だろうに。しかし男の言葉を
鵜呑みにするならば、男はあれを子と思っていないのだから、意見の食い違いは確実なものだ。
子を子として認めぬばかりか、憎むなどもってのほかだとダンテは思う。せっかく生まれた子を、
どうして大事にしてやらないのか、ダンテにはまるで判らない。分身だから、何だと言うのか。
ダンテがあれを、ネロを慈しむのは、バージルの分身であるからこそだというのに。
(なんでだよ)
内心の訴えはバージルには届かない。たとえ声に出しても同じこと。それは今までも身に染みて
判っていることだった。バージルは、王になるべくしてなった男なのだ。他者の言葉を容易に
享受していては、独裁者などになれるわけがない。
出合った当初からして、男はひどく傲慢で、横暴だった。そのときは互いに敵同士で、ダンテは
男とそれに繋がる種族を狩ることを生業としていた。男はダンテの生まれた世界で言う、悪魔で
ある。こちら側を、ダンテらは魔界と呼んでいた。その魔界の住人を、ダンテは狩り続けていた
のだ。
こちらで言う人界には、悪魔は時折にしか現れぬものだった。月に一度、遭遇すれば上々という
頻度だ。それが月に二度、三度と明らかに増えていった、その半年後に男は現われた。
男とは何度も殺し合った。剣を打ち合わせ、互いの血を浴び、しかしそのときどんな言葉を
交わしていたか、ダンテは覚えていない。重要ではなかったのだろうと、勝手に思って深く考えぬ
ダンテである。
何度目の殺し合いだったか、男は血を流したダンテの後頭部を鷲掴みにし、突然唇を重ねた。
それから、ダンテがこちらの世界へ移るまでの期間は半月もない。
その頃にも、なぜという言葉を繰り返し使った。男はそのときもやはりダンテの納得出来る答えを
くれはせず、しかし。
(嘘を言われたことは、)
なかった。
それだけは断言出来る。バージルはダンテに対し嘘を吐いたことはない。信じがたい話はいくつも
聞かされたが、それはダンテが男のことを信じていなかったからだ。それはそうだろう。突然
現われた男をたったふた月ばかりで信じるなど、なかなか出来ることではない。
今では、ダンテはバージルの言葉を疑うことはなくなった。“半身”たる自覚云々は、この際
関係ないが。
ならば、あれのことを憎んでいるという話も、ダンテは信じねばならぬということだ。バージルを
疑うという選択肢を放棄して久しい彼には、信じるしかないと言っても良い。
信じたくない。その思いは強く、ダンテの心の底に小さな小さな穴を穿った。
頭を何度撫でてもらっただろう。寝かしつける為に、毎晩のように背中をぽんぽんとあやすように
されたことも、きちんと覚えている。忘れるものかと、思う。彼の指も、掌も、体温も。すべて、
忘れてやるものか。
ネロの思考の中心には、常に彼が存在する。彼はまさしくネロのすべてであり、同時に唯一でも
ある。彼がいるからこそネロは生きようと思うのだし、彼がいなければそもそも生まれること
すらなかったのだ。無論、生まれる為に必要であったもう一つの要因も忘れてはならない。
いつか自分はあいつに殺されるのだろうと、ネロは漠然としながらも感じていた。それが確信へ
変わったのは、先の単騎遠征時においてだ。
遠征という大義名文をかぶせてネロを殺すつもりでいたのに違いなく、城に帰陣したネロを
あいつは全く喜ばなかった。落胆さえしていたと、ネロは思う。それはネロの勝手な思い込みでは
ない。無視することに徹し、心の中でざまをみろと罵った。
俺は生きる。死んでなどやるものか。生き続けて、あいつを憎み続けてやる。そして何より、
彼を想い続ける為に、ネロは生を望む。死など真っ平だ。
幸いにも、彼はネロの生を望んでくれている。それだけで、ネロにとっては充分すぎる程の生きる
糧となる。彼は、そんなことにはまるで気付いていないけれども。
「痛むか?」
そう言われたことを、ぼんやりと覚えている。それにどう返したかは全く記憶にないが。
意識が朦朧としていて良かったと、後になってネロは思った。もし意識が明朗であったなら、と
思うと空寒いような気すらする。
城に着く頃には治っているだろうと思った傷は、塞がりこそしたもののまだ消えるまでは
到らなかったらしい。残ったのはもちろん大きな傷のみで、小さなものはほとんど痕もなかった
ようだが。肩と、胸と、腕と。ろくに手当てもせずにいた所為で、傷口の周囲には脂の固まった
ような黄色いものが付着していた。彼はそれを、一つ一つ丁寧に指でこそぎ取った。それで、
痛むかという問いが出たのだろう。
まったく、本当に意識が定まっていなくて良かった。風呂場にふたり、当然ながら裸身で、
そんな状況で理性を保っていられる程、ネロは老熟していないし不能でもない。確実に、彼を。
風呂に入れられている間に、二人でどんな会話を交わしたのか、ネロはぼんやりとしか覚えて
いない。(彼の言葉は朧気に、しかし自分の言葉はきれいさっぱりだ。都合良く、とでも
言うのだろうか。)
彼の、困ったような微笑だけは、やけにはっきりと覚えているというのに。
どうせなら、もっと触れておけば良かった。ふざけるように思い、しかしすぐに自嘲した。
下手な接触は慾をよけいに煽り立てるだけだ。それはいけない。いけないのだ、それだけは。
風呂に入れられて、それから彼に抱き付いて眠った。そう出来ただけで満足だと思わねば――自分が
いっそう、みじめになるだけだ。
――なぁ、……
ふと思い出しかかった彼の声に、耳を澄ませるか否かネロは迷った。何故なら彼は、あいつの
ことを語ろうとしているからに他ならない。彼の口からあいつの話など、聞きたくもないと
いうのにどうして思い出してしまったのか。ネロの意思とは別に、記憶は彼の言葉を引き出して
いく。
――あいつのことは、俺もちゃんとは理解してないのかもしれねぇ。でも確かに言えるのは、
今のあいつは前に比べりゃ全然良くなったってことだ。
前は救いようがなかったと、彼はネロの傷口を洗いながら言った。どう、とは詳しくは思い
出せない。ネロはただ、じっと彼の肩口を見つめていたように思う。
――あいつは……ちゃんとお前のことを考えてるよ。だから、な?
頬に手を添えられ、強引と思わせぬ仕種で視線を合わされた。彼の表情は、今にも泣きそうな
それだった。
――泣くんじゃねぇよ。
あんたこそ、と。思ったか言わなかったかは判らない。自分が泣いていたのかすら記憶にないの
だから。ただ、彼の言葉を強く否定したに違いないとは、思う。
あいつがネロのことで何をか考えているとすれば、それはネロをどう抹殺するかということに
決まっている。その点、ネロは彼のように浅はかな期待を抱くことはない。
あいつは自分を憎んでいる。彼には判らなくとも、憎悪を向けられた自分はよく判っているのだ。
だからネロも、あいつを憎む。憎む以外の感情を抱けるわけもない。
(あんな、奴)
死ねば良い。死んでしまえ。いや、この手で殺して――だめだ、あいつが死んだら。
“半身”もまた、死ぬ。死んでしまう。
(何も出来ないのか、俺は。殺されるしか、ないってのかよ)
馬鹿げている。まったく納得がいかない。納得出来ようわけがない。
寝台上、白い掛け布に包まれて、ネロは母の胸に頭を擦りつけ、息を殺して泣いた。
彼のやわらかな寝息が、さわさわとネロの髪を撫ぜる。それを慰めと取るか、滑稽と取るか。
ネロの涙が、彼の寝着をしっとりと濡らした。
殺伐とした父子です。間に挟まれダンテ。不憫。誰かが。