遠雷エンライ――――信奉シンポウ









ひどい剣幕で何故かと詰め寄った彼を、王は静寂を湛えた湖面のような冷静さでもって迎え、 撥ね除けた。邪険にしたのでは、間違ってもない。王は己の“半身”をそのように扱ったことは ないし、しようと思ったこともなかった。王が彼の言を退けたのは、もはや何者も現状を覆す ことは出来ないからだ。
王の命は下された。それを取り下げることは誰にも出来ない。
それを判っていてながら、彼はあえて王に詰め寄ったのだ。しかしすげなく王に撥ね付けられ、 彼はいかにも傷付いたようだった。傷心を湛えた双眸が、ひどく印象的であった。





ネロが自我というものを自覚したのは、生まれて何年が経った頃のことだったろう。

王と母との間に生まれたネロの容姿は、母である彼のそれによく似ていた。顔立ちが、という 意味ではない。姿形。二足で歩くことは珍しくもないが、王やその周囲の者にはあえて人型を 取っているものが多く、そういった意味でネロは己の“正体”というものを持っていない。 ただ右の肘から先だけが、鎧の装甲でも着けているかのようにいかつい造作であるだけだ。
ネロにとって、己が人間ではないと証明出来る箇所はこれしかない。他は総て(この身に流れる 血は別として)、母たる彼と何一つ変わらない。それが、良いことであるか否かはいまだもって ネロには判らないでいるが。
何にせよ、ネロはこの姿で不自由を感じたことはないのだから、己の容姿をうだうだ言うことは しない。あまり言えば、母が困ったような泣き出しそうな表情をするだろうことが判っている から。そんな顔は見たくはなかった。

人間といういきものを、ネロは彼以外に見たことがない。ネロの躰には、半分人間の血が流れて いるし、能力的なものも人間のそれに近しいらしい。らしい、とは、ネロにはその自覚があまり なく、母や王の子飼いの鴉にそう言われたことがあるだけだからだ。
人間が住むのは、その名のとおり人間界だ。それはこちらでの呼び名で、人間のほとんどは こちら側の存在も知らぬのだとか。こちらは、魔界という。その呼称は、人間界での知る人ぞ 知る名詞なのだと母は言っていた。魔界。ネロは初め、その呼び名がぴんと来なかった。 十までは城の外を知らずに育ったのだから、当たり前かもしれない。城の外に広がる広大な 荒野も、そこに棲むものどもの存在も、ネロは全く知らなかったのだ。

今となっては、十までの自分がいかに仕合わせであったかが判って、ネロは思い返すたびに 自嘲をもらす。何も知らぬこと程幸福なことはない。彼が、母がネロの為だと言い、ネロを 城の外へ連れ出しサバイバル(と言うらしい)を強行していなければ、今ごろ自分は野垂れ死に でもしていたかもしれない。木の少ない、渇ききった土地でいかに暖を取るか、飲み水の確保は いかにするか、食糧の調達は――――これら総てを、ネロは母より教わった。
ネロがその際知ったことは、まだほんの一部でしかないと母は言ったけれども、だからこそ、 世界の広さをネロは知ることが出来た。この世界が、人間の言う魔界に相応しい世界であることを 痛感したのは、それから数年後、つまり今現在のことだ。

王(父親にあたる)が度々、どこぞへ兵を派遣していることは知っていた。しかし王が世界を 掌握するようになってから、大きな騒乱はなくなったという話を聞いていたネロは、いつも 不思議でならなかった。何故なのか、母(ネロの親は彼だけだ)に問うたこともある。彼は ネロの頭を撫で、仕方ないんだと、笑った。
大きな騒乱こそなくなったけれど、己の力を誇示すべく暴れ回るものや、徒党を組んで何ごとか 企むもの、総てを粛清するなど不可能なのだと彼は言った。それが社会と言うものだとも。 幼いネロには難しくてよく判らなかった。彼が優しく頭を撫でてくれたことが嬉しくて、判った ふうをして話を聞いた。そんなふうに母を独り占め出来る時間は、その頃から既に少なくなって いたのだから。
穏やかな社会に適合出来ない、いわゆるあぶれ者がいなくなることはない。秩序は彼らをあえて 弾き出す。そうして社会は社会として成り立つのだ。秩序の内側にあるもののみでは、ある意味で 社会は立ち行かない。

成程と、ネロは思う。

大きな騒乱もないというのに、城に兵が常駐している理由が判った。彼らもまた秩序の一部で あり、この世界の一部なのだ。

自分はいったいどうなのだろうか。ふと、そんなことを思う。

王には好かれていない。それは確かだ。ネロとて王に好意の欠片も抱いていないのだから、 お互い様である。反対に、母はネロを大事にしてくれている。ネロにとってはそちらのほうが 重要であり、それだけが総てだ。存在理由など、その一つで充分すぎる。
社会に必要とされているかどうかなど、言ってしまえば些末な事象でしかない。が、己の存在が いかにあやふやなものであるか、ネロにはよく判っている。母がいなくなることは有り得ないと 思っているが、母との接触を一切絶たれてしまったとき、自分がどうなってしまうのか、ネロには 見当もつかなかった。
今が、その状況に近い。

ネロは今、まさに独りきりだった。





「なんであいつ独りで行かせたんだ」

恨みをこめた声と双眸に、王はある種の愉悦を覚えながら淡々と返す。

「あれにはまだ、経験が足りぬ」

「そんなことは判ってる! 俺が言いたいのは……」

「誰かを付ければ、甘えが生まれる。それでは意味がない。単独でことを収めさせねばならぬ」

あれの為だ。耳に吹き込むように言ってやれば、ダンテはぐっと言葉に詰まり、それでも 納得いかぬとばかりに「でも、」と言い募った。納得を、したくないのかもしれない。これは 確かに優しい“母”であるから。

「いきなり独りでなんて、無茶だ」

今ごろ、あれがどうしているのか、思いを馳せているのだろう。物憂げに床の絨毯に視線を 落としたダンテの表情は、子を案じる母のそれに違いなかった。もっとも王は母の顔はおろか、 父の存在すら知らぬときているから(この世界ではそれが当たり前だ)、あくまで想像の域を 出ないが。

「お前はあれを信じておらぬというわけか」

嘲るでもなく、やはり単調に告げた言葉に、ダンテがはっとしたように顔を上げる。そんなん じゃないと、首を左右にした。

「そんなわけ、ない。けど、」

ダンテは唇を噛み、王の二の腕を縋るように掴んだ。

「心配するのは当たり前だろ……?」

親なんだから。ダンテはくしゃりと顔を歪め、今にも泣き出しそうに唇を噛み締めた。これが 親の情というものだろうか。だとしたなら、何とも、どうにも、忌まわしいものだ。

「私は、」

鋼鉄のような声音に、彼がびくりと竦む。よほどの物ごとにはびくともしない精神を持ち合わせた 彼だけれども、王に対してもそうであるかといえば、その限りではない。

「あれを案じることなどせぬ。信じてもおらぬ。もしこの遠征で死ねようならば、それまでの こと」

期待など端からしていないのだ。ダンテが愕然としたふうにこちらを凝視するのへ、王は冷淡な 笑みでもって応えてやった。

あれに与えた任務は単騎での遠征。東部の果てに存在する集落を脅かしているという、魔獣の 掃討だ。魔獣の強さは大鴉どもよりの情報によれば、中の上に当たる程度。いつものように兵を 派兵するとなれば、一個小隊も要らぬだろう。せいぜい十数か。それに対してあれ一人でことに 当たらせようというのだから、確かに危険ではある。
あれが、王の子であることを差し引いても。
世襲の慣習を持たぬこの世界では、当然ながら我が子を特別視する習性もない。子は産み捨てが 習いと言ってもよく、王もまたそのように育った。子を慈しみ、大切にするなど、考えの端にも ないのである。もっとも王の場合、そればかりが理由ではないが。

茫然とするダンテの、白に近い銀糸をひと房、指に巻き付ける。つんと引けばつるりとほどけ、 また巻き付ける。手触りの良さは相変わらずだ。

「私に何をか期待しても無駄だ、ダンテ。私とあれとは相容れぬ。それだけのこと」

後頭部を掴み、引き寄せて額に口付ける。ダンテは喘ぐように王の名を紡いだ。

「バ……ジル……」

王にとり、世界とは彼の存在のみで成り立っていると言って良い。彼がおらねば世界には何の 意味もなくなる。それだけの理由で、今のバージルは王として君臨しているのだ。

子など、いっそ。





指定された東部の果ての集落に辿り着くまで、約十日を費やした。足は自身のそれに頼るしかなく (翼ある兵を借りることは出来なかった)、初めての遠征というだけあり、始めに距離を歩き すぎた。己の脚力を充分理解せぬままに無茶をした為に、集落に着いたときには大腿と膝が ひどく痛んでいた。

集落の長を勤める者には、城から来たとだけ告げ、件の魔獣の棲処を尋ねた。長は派遣された兵が うら若いネロだけだと知るや、王は自分達を見捨てたと喚き泣き崩れた。期待されたかった わけではないが、敵にあたる前からこんな反応をされては、さすがに気分が悪い。ネロは むせび泣く長からどうにか魔獣の棲処を聞き出し、休む間もなく集落を発った。長居をして、 長のように嘆かれるばかりならともかく、怒りを買っては面倒なことになる。
ネロは食糧もろくに整えぬまま、急ぎ足で魔獣の棲処へ向かった。

荒野には、折しも雨が降ろうとしていた。ごくごく短期間、東部のこの一帯には雨期が訪れる。 そのわずかな雨水を頼りに、集落が形成されたのだ。彼らにとっての慈雨は、ネロにとり厄介 以外の何もにもなり得なかったが。



母と二人きりのサバイバルは、楽しいことばかりではなかった。
何も知らぬネロが、一羽の鳥を捕まえるだけにかけた時間と労力は、今思えば馬鹿馬鹿しい程 莫大なものだった。火の着け方一つにしろ、ネロが苦労せぬことなどなかった。だが、それらの 総てをして、つらかったとはネロは思わなかった。
苦労はしたが、必要なことだときちんと判っていたし、何よりネロには母がいた。母は常に傍らに あった。眠るときは母に抱き締められ、その感触はまるで己が母の胎内に帰ったかのようで、 ひどく安心したことを今でも鮮明に憶えている。このまま朝が来なければ良いと、夜毎、目を 瞑るたびに思った。

彼は正しくネロの拠り所である。そのことを、ネロはよく自覚している。





血みどろになった服も髪も、土砂降りの雨が洗い流した。外套に染み込んだ血と肉片も、ほぼ きれいに落ちたようだ。状況が状況だったとはいえ、こんな姿を彼に見せるなど出来るわけが ない。城に戻る頃には、血糊は乾き赤茶色に変わっているだろうけれども。それよりも、 ぼろぼろに裂けた外套の裾や、明らかに獣の爪に引き裂かれた袖や腹部、背中のほうが問題かも しれない。躰そのものに負った怪我は、城に着くまでに治ってしまうだろうが。

ネロは憔悴しきった顔で空を見上げた。どんよりとした空からは、相も変わらず雨が降り続いて いる。紅い女王と銘打った長剣を握る手、指先からはもはや感覚が失せており、剣を手放さずに いられる理由は、ただ指が真っ直ぐに伸びないからというだけのこと。
魔獣はネロの背後にあり、その亡骸を雨にさらしている。その横腹は大きく裂け、醜い内臓が 一部、抉り出され雨にさらされているが、雨のお蔭で臓物の独特な臭気はほとんどしない。 したとしても、ネロは気にならなかっただろう。鼻は全くと言っても良い程に利いていない。

昨日、空腹と疲労に見舞われながら、からくも魔獣との戦闘に勝利(という程きれいなものでは なかったが)を収めたとき、ネロはもはや集落に戻ることなど出来ぬ程に疲労困憊しきっていた。 動いていたときはまだしも、雨にあたり続けた所為で体温は低下の一途を辿るばかり。
せっかく任務を達成したというのに、ここで斃れては元も子もない。朦朧とし始めた意識を 保たせたのは、彼のもとへ帰りたいという純粋な思いだった。同時に、王は自分を死なせる つもりで、単騎遠征など命じたのではないかという、確信に似た疑惑が脳裏を過ぎったからだ。
ここで死んで、あの男を喜ばせるなど冗談ではない。

ネロは生に縋りついた。





王の子が城への帰陣を果たしたのは、遠征の命が発せられたひと月後のことだった。





疲れ果てたネロを一番に迎えたのは母ではなく、王の下僕たちであったけれど、ネロはそれを 落胆したりしなかった。彼はネロの部屋で、息子の帰りを待ちわびていたのだ。それをネロに 耳打ちしたのは、王に仕える先兵たる大鴉、その一羽であった。

王への報告を済ませ、ネロはすぐに自室へ戻った。王がどんな表情でネロの報告を聞いていたのか、 ネロは知らない。傲慢な男はネロには背を向けていたからだ。ざまを見ろと、思う。俺は生きて いる。あんたの思い通りにはならない。なってやるものか。
彼に会う前に風呂に入りたかったが、そんな見栄は廊下を足早に歩いているうちに消えていた。 早く、彼の顔を見たい。それは今まで感じたこともない程、強烈な欲求だった。

自室のドアを開けたところまでは、ネロの記憶にある。しかしその先――――彼の安堵した表情を 見た瞬間から、自分がどのような行動を取ったのかネロはほとんど覚えていない。
気付けば、自分のベッドで眠っていた。暖かく、そして優しくも強くもある母の腕に抱き締め られて。心地好い眠りに、身を委ねていた。


(嗚呼、)


ひと月ぶりの穏やかな眠りと、彼の体温に。胸に燻るものが大きくなるのが、手に取るように 判る。
母の、ダンテのあたたかさに。
快い、鼓動に。


(あんたの胎の中にかえりたい)


そこはきっと、仕合わせであるに違いないから。



















戻。



いただいたネタを、ありがたく使わせていただきました。
こんな感じになりましたが、いかがなものでしょう…?