遠雷――――冤罪
月が西へ傾き、燭台の灯がどろりと揺れる。煌煌とした明かりはしかし常にそこに灯っている
わけではなく、下僕が油を継ぎ足すことすらなされていない。それらはあたかも意志ある
いきものであるかのように、己で勝手に灯を湛えるのである。回廊にずらりと並んだ燭台どもは
時折、灯ったり消えたりを一定の感覚で繰り返していることもあり、その光景はまるで何かの
音楽でも奏でているふうにも見えるのだ。
もっともそれら燭台も、主の行く先の灯を消すようなことはないのだから、やはり意志があると
考えて良いかもしれぬ。
岩山と見紛う巨大な城には、総て合わせればおよそ数百が寝起きをしている。それらは皆、
この城の主を絶対と仰ぎ従う、文字通り忠実な下僕だ。城主はすなわちこの世界の王として
君臨する者であり、今現在、王を除く力を有した者は存在しない。王は正しく世界の支配者
なのだ。
その王は、一年を通じてほとんどを城の中で生活している。秩序などあってないに近い世界である
が、ここ二十年程は大きな争乱は起こっておらず、それは王の統治の賜物と呼べる。倒錯した王が
世界を統べていた頃の記録は、それこそ悲惨の一言に尽きる程、どの文献を開いても争い以外の
ものを見出だすことが出来ない。そんな時代と比べれば、今が楽園のようにも思えてくる。まぁ、
これは過言だが。
世が荒れようとどうなろうと、王はどちらでも構わぬと思っているのが本当のところだった。
ならば何故平穏を築いて来たかと言えば、それを望む者が傍らにいたからという、ただそれだけの
理由だ。しかし王にとっては、それ以上の理由など必要ではない。彼がそれを望むならば、与えて
やるのはやぶさかではない。
月が南の果てを這う刻限まで、彼はたいてい眠っていることが多い。人間の世界で言うところの
太陽というものはこちらには存在せず、時刻等の暦は総て月を基準に計算される。彼は元、
太陽の在る世界の住人だった。だから今も、あちらの世界で夜と呼ぶ時刻になると、当たり前の
ように眠気が襲ってくるのだという。
王は、こちらで生まれ育った者の大半がそうであるように、睡眠というものをほとんど必要とは
しない。夜になれば彼とともに寝台へ上がるが、朝まで二刻程も眠れば良いほうで、残りの時間は
彼の眠りをただ見守るのだ。
安らかに眠る彼の姿はまるで子どものようで、そのとき王は自分の唇に笑みがあるのを自覚して
いる。
執務室の重厚な扉が、何の前触れもなく突然開いた。いや、全く唐突だったわけではない。王の
耳にはその足音が届いており、驚くことはなかった。
現在、十の刻限。足音からも、彼でないことは判っている。
王はしかし、突然の訪問者に何の用かと詰問することはない。本当に用がなければ、自分の
ところへ顔を出すことなど絶対にしないからだ。そしてその用件といえば、肩に乗せた黒い塊を
見れば一目瞭然。無駄を嫌う王は、自分自身にも容赦をしない。
それ、の肩に陣取ったものが、ぶわりと翼を広げて空へ浮かんだ。数度羽ばたき、王のそばへと
舞い寄ってくる。ある種運び屋となったそれへ、ありがとさん、などと律義に言っているのを、
王はきれいに無視をする。この光景は、もはや見慣れているからだ。
用が済めば、それはさっさと執務室を後にする。扉が閉まるまで全く一言もない。これもいつもの
ことで、王も自ら口を開くことはしない。交わす言葉など、互いに持ち合わせてはいないのだ。
何ごともなかったかのように、王は執務の傍ら黒い塊――――片目が紅い大鴉の言葉に耳を傾ける。
鴉にしても、今し方の光景は見慣れてしまっており、どうこう言う口などはなから閉じている。
王の“半身”である彼にひどく傾倒したこの鴉には、おそらく言いたいことは山程あるに違いない
が。(口が過ぎるところも彼とよく似ている。)
王には我が子を愛おしむという感覚がない。我が子とは、今、この大鴉を連れて来た青年の
ことだ。
何かを愛するという感覚を、持ち合わせた者はこの世界には極めて少ない。王もまた例外では
なかった。変化があったのは彼に出合ってからで、彼以外にその感情を向けることを王は
知らない。それがたとえ、実子であっても。
大鴉は物言いたげな双眸をどこぞ関係のない方向へやりながら、方々を飛び回り得た情報を
王の耳へ入れる。これともう一羽の大鴉は王の耳であり目である。王が城から動かずして情報を
得るのに、翼を持つ先兵の存在は欠かせないものだ。もっとも、先の王はこれらの先兵を
持たなかった。大鴉をこのように使役する前身は、現在の王、つまり自分である。
大鴉の話が一段落つき、王は鴉に労りを告げ他の言葉を遮った。頭の良い鴉は時折、役目を超えた
言葉を王に告げようとする。その点、もう一羽のほうはすぎる程に寡黙で、余計なことは一切
言わぬし目で訴えることもしない。こちらは王に似たのだと、誰の目にも明らかだった。ただし
正反対の性格をした大鴉のどちらもが、彼には初めからひどく懐いていた。何故かと問うたことは
ないが、あまり気に入らぬのは確かなことだ。
羽休めの留木から、大鴉は不服そうな目をしつつも飛び上がった。すいと滑空するように扉へ
近付き、把手を両足で掴むと器用に体重を掛けてそれを捻り、同時に翼を繰ることで扉を押し
開けた。あの青年の肩を借りる意味を問いたくなる瞬間だが、面倒なので口にしたことはない。
大鴉には大鴉なりの考えがあるのだろう。そうしているうちに、扉の隙間から大鴉が室外に出、
間もなく扉がぱたりと閉まる。その器用さを他に活かせぬものかと、以前彼がぼやいていたのを
ふと思い出した。
彼は、生まれた子に出来得る限りのことをしてやりたいと、周囲の制止を聞かずにそのとおりの
行動を貫いた。王の制止にすら耳を貸さなかったのだ、強情と言うべきか意固地と言うべきか、
こうと決めれば容易く曲げる性格ではなく、子が言葉を不自由なく操るようになるまで、
ほとんどの時間を子に費やした。
コイツを大事にするのは当たり前だ。
彼は子を胸に抱き愛しげにあやしながら、何度も同じ言葉を繰り返した。アンタの子なんだから、
と。しかし王はいっこうに理解出来なかった。子を愛しいと感じたことは一度もなく、むしろ
忌まわしさばかりが募っていった。
彼が我が子を孕んだと知ったとき、王はそれを殺そうとすらしたのだ。それは嫌だと彼が言って
聞かなかったから、仕様がなく産ませてやっただけのこと、愛情など、沸こう筈がない。
彼は、そんな王を時折ひどく寂しげな目で見つめることがある。せっかくの命なのに、という
ため息混じりの呟きを聞いたこともあった。王の分も自分が、とでも言うように、彼は一心に
子へ愛情を注いでいたように王には見えた。
王にとり、それはいかにも忌まわしい光景であった。
揺れる燭台の灯をなぞるように、回廊を歩く。城内は広大で、回廊は迷路のように入り組んでいる。
外部からの侵入者を迷わせる為に造られているからだが、王はここで迷ったことなど一度も
なかった。王として君臨する以前もまた然りだ。
彼は城へ来た当初、王がいなければどこかで必ず迷っていた。動き回るからだと、部屋から出ぬ
よう王が戒めてもそれは繰り返された。一度は文字通り部屋に閉じ込めたこともあった程だが、
好奇心の塊のような彼は、いつも悩みの種だったように思う。彼は彼で、小言はうんざりだと
辟易していたので、お互い様というやつだろう。
扉の両脇に控えた下僕が、恭しくかしずき扉を開ける。慣れたふうに扉をくぐり、足を踏み入れた
そこは王の寝室だ。王とその“半身”より他に、この部屋への立ち入りは赦されていない。
次の間へ入ると、予想に違わず彼が窓辺に座っていた。椅子を使えといつも言うのだが、彼は
何故か絨毯に直に座り込む。今も、やはりと言うべきか、そうだ。
ぼんやりしていたらしいが、王の気配に気付くと顔をこちらに向け、ほっとしたように口許を
ゆるめた。
以前はどう言い聞かせてもじっとしていることのなかった彼であるが、最近はこうして
座り込んでいるか、起こすものがなければいつまでも眠っていることが多い。好きだからと言って
剣を振り回すこともあるが、その後はしばらく部屋から出ない日が続くのだ。歳かな、と困った
ふうもなく笑って見せるけれども、そればかりではないことを王は知っている。そしてそれは、
もはやどうしようもないことであることも。
「何を見ていた?」
上下に長い窓の、下辺は床と同じ位置にある。彼が絨毯に尻をつけても窓から外が見えるよう、
王が手直しをさせたのだ。
彼は肩を竦め、笑って見せた。
「相変わらず何もねぇなって、さ」
「それを、よくも飽きずに眺めていられるものだな」
彼は「だって、」と唇を尖らせた。
「やることねぇし……」
そうしていると、随分若く見えるのだとは彼は自覚していない。ふっと笑みを浮かべ、彼に手を
差し出した。なに、と言いながら、彼がたいした疑問も抱かずに王の手を取る。瞬間、王は彼の
手を引き、さしたる力も込めずに立ち上がらせた。体躯は王と彼とはほぼ同程度だが、しかし王は
軽々彼を引き寄せ、腕の中へ閉じ込めてしまった。驚いたのは、当然ながら彼のほうである。
「ちょ……なんだよ?」
言葉程に、声音に棘はない。彼はあらゆる意味で王に馴れて久しい。
「嫌か?」
わざと、そう問うた。彼は目を瞬かせ(そんな仕種が幼さを感じさせる)、逡巡もなく首を左右に
した。
「嫌じゃねぇよ、べつに」
こんなことを衒いもなく言うようになるまで、彼は随分長い時間を要した。恥ずかしいのだろうとは
聞かずとも察せられたものの、やはり素直になれと思うときは多々あった。
「嫌なわけねぇけど……いきなりはまだ慣れねぇって言うか、」
視界に映る彼の耳は僅かに紅い。やはりまだ羞恥はあるようだ。もっともこればかりは、時を
経たからと言ってなくなるものではあるまいが。
耳許で、彼が王の名を呼ばわった。彼しか紡ぐことのない己の名は、いつ聞いても耳に心地好く
響く。
「何だ」
彼は額を王の肩に乗せ、うん、とどこか眠そうに呟いた。実際、眠いのかもしれない。
「今日はもう、こっちに?」
執務室には戻らないのかと、問うているのだ。同時に、ここにいて欲しい、と。言外の願いも
聞こえた気がした。
「あぁ、ここにいる」
どこへも行かん。そう答えてやれば、彼は安堵したらしく「そっか」と息だけで呟いて。王の背に
腕を回し、ぎゅっと抱き付いてくる。呼吸が深いのは、こちらの匂いを吸い込んでいるから
なのだろうと、容易に予想がついた。王も、同じ行動をよくするからだ。
この“半身”は、子が我が手を離れてからというもの、とみにこうした行動が増えたように思う。
甘えたがるとでも言おうか、とにかく抱き締めてやるとほっとするらしかった。
王もまた、彼を抱く(性的な意味合いはなくとも)ことを好んでいるので、すり寄ってくれば
その髪を撫ぜ、腕に閉じ込め匂いを満喫する。いつも触れていたいと思う気持ちは、以前も今も
変わっていない。むしろ今のほうが強いかもしれなかった。王は常に、彼に飢えている。
耳に響く、己の名。今や彼だけの為にあると言っても良いだろうそれは、他の誰が呼ばわっても
知らぬ名にしか聞こえぬに違いない。
王は反動をつけず彼を横向きに腕に抱え上げ、しかしどこへ運ぶわけでもなくその場に腰を
下ろした。彼はまた、目を丸くしていることだろう。こちらの首にかじりついたままなので、
どんな表情をしているのか、王には判らない。
胡座を掻いた膝に乗る、小柄とは間違っても言えぬ彼の、臍の少し下をぞろりと撫ぜた。
かつてここに宿っていたものを、彼はよく愛おしげに撫でていた。王にとり、それはけっして
微笑ましい光景などではなかった。当時はただ憎々しく思っていただけだったが、月日が経った
今は少しばかり違う。
(或いは、)
くすぐったい、などと笑いながらおとなしくなすがままになっている彼の、腹を撫でながら王は
呟く。
「私も、おまえの」
皆まで口にせず、言葉を途切れさせるのは今が初めではない。彼ももう、続く先の言葉をねだる
ことはしなくなった。ただ、うん、と。頷く彼の、以前よりも明らかにあたたかみのなくなった
躰を抱き締めて、その首筋に唇を押しあて。
王は静かに瞼を閉じた。
或いは、
己も彼の腹から生まれ出たいきものならば。
それはどんなにか、幸福なことであっただろう。
今回はネロ坊やがほとんどいません。
ここでも気だるいバジダンを推して参りたがってすみません。