遠雷――――神話
まっすぐに。ただひたすらに、真直ぐに。
たとえこの想いの行き着く先が、真っ暗な闇に呑まれる運命だしても。
目覚めても、辺りは眠る以前と同じく暗い。太陽というものが存在しないこの世界のこと、寝ても
覚めても灯火が必要であることに疑問はない。そもそも太陽という言葉自体、知っているものは
ほとんどないのだ。存在しないものの名を知るものがないのは、当然といえばそうだった。
ネロが太陽という言葉を知ったのは、それが存在する世界の住人であったものに育てられたから
だ。と言って、しかるべき教育を受けたわけではないが、それは今は置いておく。言及した
ところで仕様がないことであるのは、もはや今更のことなのだから。
その人物とは、ネロが生まれたときから常にそばにいる存在である。いや、生まれる前から、
だろうか。ネロがネロとしてこの闇の世界に生を受けた、その腹の主なのだ。つまりは母という
ことになる。性別はネロと同じ男であるが。
中性も多く存在する中にあっても、男性が子を産むことはさして珍しい事象ではない。だから
ネロも、母親が男であることに疑問を抱いたことはないし、周囲から奇異の目を向けられたことも
なかった。こちらの常識なのだ。性別を問わず、子を成すということは。
その母がこの、月しか存在せぬ世界にやって来た理由を、ネロは詳しくは知らない。当たり前だが
それはネロが生まれるよりも以前の話で、普段はひどくお喋りな母(と彼をしてそう呼んだことは
一度もないが)も、ことその話題に到ると急に言葉少なになってしまい、下手な誤魔化しようを
されるのが毎度のことだった。
わざわざ話して聞かせるようなことじゃねぇ、と。苦笑いを浮かべる彼の顔はいつも赤い。
逸らされた視線、その先には何が映っているのか、考えるのも嫌だった。
ネロはただ、彼のことを知りたいだけだというのに。しかし追究すれば自然、あの男のことにも
話が及ぶだろうことは易々と想像出来る。だから、いつも不承不承引き下がるのだ。彼のことは
何でも知りたいと強く思うが、あの男(遺伝子上、父親となっている)のことは聞きたくも
ない。
あの男が彼を見初めなければ、ネロはこの世に存在することすらなかったと、頭では理解しては
いても、だ。
母親である彼に親愛よりも深い感情を寄せているネロにとり、彼を我がものとしたあの男は
忌々しいの一言ではまだ足りない。
彼が、雄として見ているのもあの男だけだと知っているからこそ、
心境はより複雑だった。
かといって、想いを打ち明けられるわけは、ない。
毎日毎日、ただ悶々とするしかない自身を、ネロは自嘲しながらも、彼への感情をないものにする
ことは絶対に出来なかった。
ネロ、と。
名を呼んでくれるだけで心から嬉しいと思っていることを、彼は知らない。知れば、きっと彼は
もう名を呼んでくれないだろうから。
この、彼が呉れたという、大切な大切な、名を。
「……ロ……おい、ネロ……?」
耳慣れた心地好い声が耳殻を撫でる。ネロははっとして、散らばっていた意識を掻き集めた。
彼が訝しげな表情でこちらを覗き込んでいる。面と向かっていながら、相手がぼんやりとして
いれば不審に思うのは当たり前だ。ネロは自身の不覚を内心で舌打ちしながら、慌てて詫びねば
ならなかった。
「悪い、ちょっと、考えごとしてた」
彼は面白がるように、口端をひょいと持ち上げる。悪戯好きの子どものような顔だと、ネロは
思ったが口には出さない。
「似合わねぇことしたら、熱でも出しかねねぇぜ?」
計ってやろうか、などと言って、伸ばしてくる手をネロは邪険にならない程度に振り払った。
「揶揄うなよ。俺だって考えごとくらいするっての……」
ぶつぶつ文句を言えば、彼は器用に片眉を吊り上げて「へぇ?」なんて。性格が悪いというか、
悪のりが過ぎるというか。
「ま、何考えてたかは知らねぇが、あんま考えすぎんなよ?」
何ごとにもあっさりしていて、あまりものごとに執着しないたちの彼がぺらりと言って、皿に
一口ばかり残っていたピザ(あちらの世界の食べ物で、彼の好物だ)を摘んで口に運び、油っぽい
指先を舐める。ちらりと覗く赤い舌に、ネロは視線が集中するのを自制出来なかった。あの肉感を
味わうことが出来るのは、この城の主のみ。判っている。判っているのだ、嫌というくらい。
しかし、慾というものはいかにも厄介で、理性など簡単に振り切って暴走しそうになる。これを
抑え込むのが、また一苦労なのだ。
「何も考えてなさそうなあんたとは違うんだよ」
憎まれ口を叩いて外方を向いた(これにはかなりの精神力を要した)ネロに、何も知らぬ彼は
軽やかに笑う。
「何言ってんだ、俺だって考えることは考えてるんだぜ?」
ちゃんとな、と。にやにやした嫌な笑みですら、ネロを惹きつけてやまないものだから、本当に
たちが悪い。彼はあまりに感情が豊かでありすぎて、目を離すことすら難しい。
「ちゃんとって、どんなだよ」
疑わしげに問えば、彼はぺろりと唇を舐め(癖の強いチーズの切れ端がくっついていた)、
そうだな、と視線を右斜め上にやる。しまったと思ったが、遅い。きっと彼は、城の主たる王の
ことだと答えるのに違いない。彼は王の“半身”なのだから、そうである筈だ。失念していた
自身を内心で罵り、耳を塞ぎたい気持ちに陥った。
彼の口から王の名が紡がれることを、ネロはひどく嫌っている。それはそうだ。誰も、恋い慕う
相手の唇が、自分とは別な人間の名を紡ぐことを好みはしない。しかもネロには、それを止める
権利すらないのだから、厭う以前の問題であった。
彼は余所へ呉れていた視線をテーブルの端に落とし、微笑した。優しい表情だ。王のことに想いを
馳せているのだろうか。だとしたら、やはりネロは王を憎むしかない。しかし、彼の唇が紡いだ
言葉は、ネロの予想を大きく裏切っていた。
「……お前のこととか、な」
目を丸くする。ネロとしてはごく自然な反応だったが、彼は少々気に食わなかったらしい。
「何だよ、その顔は」
眉を顰めるさますら、好きだと思う。末期だ、既に。自覚はあったが。
だって、などと、意味のない言葉しか出て来ない。
だって、あんたはあの男の“半身”で。だから、だから……
ネロの動揺など、彼はまるで気付かないのか。ぽかんとしたまま(情けない恰好だが)のネロに
ちろりと流し目を呉れ、当たり前だろ、と照れたように笑う。
「親は子どものことを一番に考えるもんなんだよ。そんだけ大事ってことだ。感謝しろよな?」
こっちじゃ、そんな親は俺くらいなもんなんだから。
そう言って白に近い銀髪を掻く彼に、ネロは膨らんでいたものがみるみる萎んでいくのを感じた。
なんだ、それは。そう思う反面、やはりそうか、と冷静に思う自分もいる。
彼にとって自分は、子ども以上の存在にはなり得ぬのだ。
(今更、だけどな)
そう、今更のことだ。そしてネロはそのことを、誰よりもよく判っている。ただ時折、忘れそうに
なるだけだ。彼が、自分を産んでくれたこの母が、あまりにも愛しくありすぎて。
ネロは彼に気付かれぬようぐっと奥歯を噛み締め、出来る限り生意気に見えるよう笑みを
繕った。
「はっ、そりゃ、どうもありがとうって言わなきゃな?」
本音を吐き出すことの出来ないネロには、こうして憎まれ口を叩くしか道はない。自身のことには
とんと無頓着に出来ている彼は、ネロの内に巣くうものにはまるで気付かず、いつもと変わらぬ
笑みを口端に乗せる。
「まったく、素直じゃねぇな」
そう言いながら、嬉しそうにしないで欲しいとネロは思う。起こり得ない期待を、してしまうでは
ないか。
彼がネロの想いに振り向くことなど、絶対に有り得ぬことだというくらい、よく知っていると
いうのに。それでも想わずにはおれぬから、救われない。いっそ想いの丈をぶつけて
しまえば――――たった一度きりでも良い、彼の肉を味わってみたい。
けれども、俺は。
「ネロ、お前さっさと飯喰っちまえよ」
何も知らず、のほほんと。子ども扱いをしてくる彼を。この立場を。
「……判ってるよ、ダンテ」
失いたくないと、思う、から。
臆病すぎて(情けなくて)、涙が出そうだ。
子どもの頃は、ただ純粋に自分は特別なのだと思っていた。母であるダンテは、それこそ周囲が
呆れる程にネロを甘やかしてくれた。ろくな躾もされず、しかしネロが奔放に育たなかった
理由か、ただただ母を慕うが故だったに違いない。周りのものは奇跡という言いようをするが、
ネロはそうは思わなかった。
ダンテに好かれたい。嫌われたくない。その一心が、ネロに奔放になることを赦さなかった
のだ。
今にして思えば、危ういことだと我ながら思う。ダンテへの感情のことではない。さしたる躾も
されず、ほぼ野放しの状態で育てられたことだ。ネロがダンテに憧れ、彼だけを見て育つという
ことがなければ、果たしてどうなっていたのか。これを考えて薄ら寒く感じるのはネロ一人で
あるが。
ネロの、今となっては純粋とは言えぬ感情に、気付いているものはネロ自身とあともう一人を
おいてない。ダンテでないことは言うまでもない。昼間の食事風景からして、ダンテは見事な
までにネロの想いには気付いておらぬ。残る一人は、王だ。
王(あれを父とは思っていない)が自分の感情の種類を正確に読み取っていることを、ネロは
知っていた。その以前からも、ダンテが我がものであることを見せつけるような素振りの絶え
なかったあの男のことだ。気付かれているとはっきり認識したのは、その行動がいっそう
あからさまになったからだった。
ダンテは、ネロの前での王との接触を厭うふうがある。羞恥が勝るのだろうとは、当事者ではない
(これが癪だが)ネロですら判ることだった。よせ、とダンテが言えば言う程、王の行動は強引に
なる。逆らわれることが気に食わないのだ、王は。とくにダンテが己に逆らうことを、ひどく
嫌っているふうがある。それもそうだろうと、理解などしたくもないというのに、判る。愛する
ものにはどんなときでも触れていたいもの、それを嫌だと拒まれて、不快に思わぬわけがない。
愛する――――ネロも、ダンテにいつも触れていたいと思っている。手に、頬に触れるだけでは
足りない。もっと、もっと深く――――
重症どころではないことなど、今更だった。自覚をしているネロは、もういっそ開き直ってすら
いる。ダンテを愛しく思うことは、ネロにとってはもはや当たり前のことなのだ。
そういう意味では、ネロは自分と王とがよく似ているということを、認識せぬわけには
いなかった。
はぁ、とため息がもれる。報われぬと知っていながらも、抱くことをやめられぬ想いという
ものは、その持ち主であるネロにとっても重く感じるものだ。
子どもの頃のように、ただ純粋に慕うだけならばこうは思わずに済んだであろうが、それも今更だ。
時間を逆巻くことは王にすら出来ない。この世の創世者であっても、おそらくは。
自室の窓から見える光景は、いつもと変わらぬ廃れた荒野ばかり。遥か太古の時代にはどこも緑に
覆われていたというが、疑わしいものだとネロは思う。今現在に緑がないのでは、過去をいくら
掘り返しても意味がない。時間は元には戻らぬのだから。
ふと、どこかから鳥の羽ばたく音が聞こえて、ネロは窓を外側に押し開けた。荒野から吹き上げる
風は埃っぽく、あまりネロの好むところではない為、窓を開けることはめったになかった。しかし
今し方の羽ばたきの音を、ネロはよく(という程でもないが)知っているので。
「よっ……と」
黒いものが、窓の桟に乗り上げ息を吐いた。翼を折り畳んでも大きいと言える黒い塊が、桟を
蹴ってネロの肩に飛び移る。――――文字通りに。
左右の翼をいっぱいに広げた姿は、ネロが両腕を広げたそれよりもなお大きい。しかしネロは
驚くでもなく肩に乗った黒いものを横目で見やり、ため息など吐いた。実際、見慣れているので
驚くわけもないのである。
「ご苦労さん。……で、また連れてけって?」
ネロが言えば、黒いものはにんまりと笑う変わりに、姿に見合った大きな嘴でネロの髪を数本
咥えて引っ張った。髪が抜けるからやめろと、いくら言っても聞かないこの黒いものの正体は、
一羽の大鴉である。
毎度、と言って良いくらいネロの部屋の窓からやって来るのだが、これでも王の直属だ。大いなる
翼を駆使して世界を飛び回り、ありとあらゆる情報を王へ持ち帰る役目を負う。つまりはネロの
ところへ姿を見せる必要はまったくないわけだが、そこのところを問えば、この鴉はしれっとして
言う(言葉を操れることについては、当たり前すぎてネロは疑問にすら思わない)のだ。
「だってよ、邪魔したら旦那、死ぬ程怖ぇんだから仕方ねぇだろ」
何を邪魔すると、なのか。ネロは問うたことがない。まさに愚問である。そんなことは。
ネロは肩を竦めて扉へ向かった。そちらは廊下へ続く扉で、この鴉を王のところへ届ける為だ。
なんで俺が、と毎度お馴染みになってしまった文句をぶつぶつ言っていると、鴉は嘴をかちかち
言わせてかかと笑う。
「坊やがいてくれて、こっちは助かってるよ」
などと。生まれたときからネロのことを知っているこの鴉は、まだネロを坊やと言って憚らない。
そう呼ぶのは、癖が半分、ある人物の真似が半分であることをネロは知っている。その人物とは、
他でもないダンテのことだ。
王の鴉は二羽、いる。名はそれぞれフギンとムニンと言い、今ネロの肩に陣取っているのは
ムニンのほうだ。どちらも全く同じ体躯の大鴉だが、見分け方は到って簡単で、フギンは左目が蒼、
ムニンは右目が紅という判りやすい色彩のオッドアイが目印だ。そして無口なフギンとは違い、
ムニンはよく喋る。これはきっと、ムニンが王よりもダンテに懐いているからだろうとネロは
思っている。だから、というべきかどうか。ムニンはネロにも割合懐いている。気安いのだと、
いつかだったか言われたことがある。
それを喜んで良いのかどうかは、実に微妙なところであるが。
ネロを相手に意味のないお喋りを好きに繰り広げるムニンを肩に乗せ、慣れたものですら
長すぎると思わずにはおれぬ回廊を、真直ぐに歩く。この回廊の行き着く先に彼が待っていて
くれたなら――――有り得ないことをぼんやりと考えてはため息を吐くさまを、ムニンが何やら
思案するような紅い眼で見つめていることに、ネロはまるで気付かなかった。
バージルがいません。まぁ良いか、とてきとうに思っておきたい。
鴉の元ネタは某神話です。目の色は自己設定ですが。