彩乱
ぐったりと弛緩した躰を、男は逞しい腕で懐深く抱きこんだ。この三日間で、腕の中の肢体は
明らかに痩せた。ろくにものを食べていないのだから、当たり前と言えば当たり前か。そういう
男とても、絶食に近い状態なのであるから彼のことばかりを言える立場ではないが、こちらは
腕の太さも胸板の厚さも変わりがない。
彼は、いくら抱いてやっても満足が出来ないようだった。眠れと言っても、まだ嫌だとぐずって
言うことを聞かず、仕方なく意識が四散する程激しく犯し、気絶させてやるしかなかった。
男のほうは、満足も不満も感じてはいない。行為としては先日の凌辱と変わりがなかったが、
今回彼は一度も拒まなかった。むしろ自分から、ねだってすらいた。だから男は彼が気を失う
まで付き合わねばならなかったのだが、彼の心境にどういった変化があったのかは判らない。
ただ、彼の求めるままに彼の身を揺さぶった。
不満ではない筈だと、彼を攻め立てていた我が身を振り返ってそう思う。
無心に、彼を貪った。そうしたいと願っていたのだと、闇の満ちた路地で彼を犯したときに
ぼんやりと思った。
路地で立ち尽くしていた彼が、何を思って男に応じたのかは判らない。いや、判っているのだ
けれども、納得したくないだけかもしれぬ。誤魔化す為に、彼をひたすらに食らい続けた。彼も
またそれを望んでいたのだから、男には行為をやめる理由などありはしなかった。
すぅ、と深い寝息が耳に届く。表情は安らかだ。このままずっと眠り続けていられるならば、
彼にとってそれに優る幸福はないのだろう。双子の片割れに捨てられたこの哀れな子どもは、
夢の世界でなら涙を流さずに済むのだろう。
人間の持つ感情など下らぬものだと男は思っているし、考えを改める気などさらさらないが、
彼の咽び泣くさまを再び見たいとは思わなかった。だからといって、男には人間を慰めるなどと
いう芸当は持ち合わせていないのだ。気が狂ったように笑い、そして泣きじゃくる彼を、ただ
見つめていることしか出来なかった己が、男は歯痒くてならなかった。
己が人間ならば、何か声を掛けてやれたのかもしれない。そんなことを考えてしまうのは、
己の気も触れているからに違いなかった。
腕の中の彼は、身動ぎ一つしない。聞こえるものは寝息ばかり。が、それは男にとって耳に
心地好いものであった。
奇妙な感覚だ。不可解で、しかしけっして不快ではない。
彼の髪を慣れぬ手つきで撫ぜてみる。柔らかい。髪というものはこんなにも柔らかなものだったか
と、自分の髪に触れてみるが、ぱさついていて柔らかさなどとは縁遠い。彼の髪だからだという
結論に到るのに、さして時間はかからなかった。
彼は、柔らかい。
髪もそうだが、膚も、その下にある肉も、血も、何もかもが柔らかい。ただ一つ、空を嵌め込んだ
双眸だけが、鋭くこちらを見つめるのだ。その落差が良いのだと、男は思う。飽きを感じさせぬ
ところが、彼にはある。このあどけない寝顔もまた、良い。
思って、男ははっとした。何故こんな、馬鹿馬鹿しいことをつらつらと考えねばならぬの
だろうか。
軽く頭を左右に振って、深々と息を吐き出した。彼は眠ったまま。男の動揺になど気付くふうも
ない。
彼の髪を撫ぜていた手を所在無げに垂れ下げ、男はじっと彼の寝息に耳を澄ませた。
彼が腕の中にいるというこの状況は、きっと長く続くものではないのだと、男は知っている。
だから今は、じっと耳を澄ましていようと思うのだ。
(やはり、狂っているな)
自分も、彼も。そして彼の片割れもまた、狂っているのだ。
砂時計の砂が、音もなくさりさりとこぼれ落ちていくように。
街から遠くない廃工場は、人間を糧とする異形の棲処としてこれ程適した場所はない。実際、
男がこの廃工場に目をつけたときには、別の異形が我が物顔で居座っていた。階級で言えば中の
上程度か。男を、その異形は愚かにも追い返そうとした。人間の外見をしている男を、本当に
人間だと思ったらしい。相手の本質を見抜けず、つまりはその程度の実力しか持たぬということで
あり、男にとり雑魚以外の何ものでもなかった。
今現在、廃工場には男以外の異形の姿はない。
城というには寒々としすぎているが、人間も異形も一切近寄っては来ないという点では、確かに
快適な棲処と言える。
朝陽が廃工場の内部まで照らすことはない。窓の少ない造りで、陽を嫌う異形が棲みつくには
やはりうってつけの場所だ。男は別段、陽を避ける必要もないのだが、真直ぐに見つめたいとは
思わない。闇の底で生まれたものにとって、太陽とはどうあっても相容れぬのだ。
昼になろうというのに仄暗い廃工場の一角、冷たいコンクリートの床に毛布を敷いた上に男は
胡座を掻いている。悪魔である男は暑さや寒さなどはあまり感じぬのだが、傍らに横たわるものは
そうもいかぬ。男はおよそ抱いたことのない気遣いというものを働かせ、彼の躰を毛布で包んで
やった。
かつてこの廃工場にいた人間が使っていたものか、掻き集めた(と言う程探し回ったわけでも
ないが)毛布は五枚程になった。今のところ、彼は寒さを訴えていない。一枚は床に伸べている
ものの、他の四枚総て、彼を包むために使った。
彼は丸一日、眠り続けている。昏々と、ただ静かに寝息を繰り返すばかりだ。時折寝返りを打つ
ようにもぞもぞとすることはあっても、目覚めるまでにはいかない。そして男から離れようとも
しなかった。彼の手はしっかりと男の服を握り締めて離さない。ほどこうとするとどうにも
ぐずってならず、彼の頭を膝に乗せてやると脚に額を擦りつけてきたものだ。
まるで子どもだ。男は人間の子など飼ったことはないが、彼を見ているとこういうものなの
だろうと思う。
寂しがりの、けれどもそれを他者に諭されまいと強がる子ども。彼の寂寥を取り除くには、
自分ではきっと役者不足なのだろう。かといって、彼を満たしてやることの出来る“誰か”に、
彼を引き渡すことはしたいとは思わない。
この感情が何という名であるのか、男は知らない。馴染みのない感情を、男は彼によって短い
期間にいくつも植え付けられていた。
ぴくりと、彼の指が跳ねた。息を吸うのと同時に、彼がはっとしたように頭を上げる。そして
見開いた瞳が男を見つけ――――しばし、見つめ合う。
「……ぁ……」
小さな小さな吐息をもらし、彼は重力に引きずられるようにぽすんと頭を男の腿に埋めた。彼が
もらした吐息が、安堵であったのか落胆であったのか、男には判らない。ただ彼のうなじを、
ついと指先でなぞった。彼はぴくんと肩を震わせる。気狂いのように彼を何度も抱いて判った
ことだが、彼はひどく敏感な躰をしている。貫いているときなどはそれがいっそう際立つようで、
どこもかしこも過ぎる程に感度が良い。これに嵌まらぬ男はいないだろうと、純粋に驚いたもの
だった。
とはいえ、うなじを撫ぜたことに、性的な意味合いは別段ない。透き通るような白い膚が、
まるで磁器人形のようだと思ったのだ。
するするとうなじをなぞっていると、彼が首を傾げるようにしてこちらを見上げてきた。
「……しねぇの?」
性的な行為を何もせぬことを、責めるような目だ。
「まだ足りぬのか?」
揶揄するように言ってやれば、彼はちょっと顔を赤く染めて唇を噛んだ。熟れた頬を舐めれば、
きっと甘いのに違いない。
彼は何か縋るものを求めるようにこちらを見つめてくる。何をか、などと、男は問うたりは
しない。
「……足りねぇ」
唇を尖らせて、彼が言った。しよう、と。ねだってくる。
躰はまだつらいだろうに、そんなことは知らぬとばかりに一心にねだる彼を、男はどう宥めた
ものかと考えあぐねる。どう言ったところで、彼が納得せぬのは判っていることなのだ。彼は、
壊れることを望んでいる。心も、躰も、壊れてしまいたいと切望している。
「…………」
男はまた、彼の白いうなじを撫ぜた。焦れた彼が服を引っ張り、はやく、と甘えるように急かす。
およそ、有り得ぬ光景だと男は第三者の立場にいるかのように思った。
壊れることを望む彼――――望みを叶えてやれば、彼は満足がいくのだろうか。気絶するまで
犯してやらずとも、安らかな眠りを自らで得られるようになるのだろうか。もしそうなら、
叶えてやる意義はある。
だが、
「なぁって、」
急かす声に、男はため息を一つ落として彼の躰をぐいと引っ張り上げ、膝に抱えた。彼を包んで
いた毛布がずり落ち、白磁の肢体があらわになる。そうして彼のうなじに、唇で触れた。抗わぬ
彼の柔らかな膚に、牙をぶつりと突き立てる。
「ぁッ……」
密やかに吐息をもらす彼の血は、甘い。彼の躰もそうだが、この血こそが麻薬のようだと男は
思う。魔界にも、人間界で言う麻薬と似た薬が存在する。濃度は人間の扱うものの数倍以上は
あり、劇薬ないし劇毒と呼べる代物だ。男はそんなものに手を付けたことはないが、中毒になった
異形は見たことがある。――――今の自分のような有様だった。
いくつも彼の膚に穴を開け、そこから溢れ出る血を啜った。体力が衰えている彼にとって、
血を抜かれることはひどくこたえるだろう。しかし、彼は拒まない。むしろ男の頭を抱き寄せ、
促すように肩口に顔を埋めてくるのだ。耳に届く彼の吐息は熱っぽく、男を甘く誘って
やまない。
壊してくれ。彼の声なき声が聞こえてくる。
欠片も残さず、粉々にして――――
男は自分と彼の間に手を割り込ませ、彼のものを掌に包み込んだ。それだけで、彼がぞくりと
躰を震わせる。
「ッん……」
悦んでいるのだと、ありありと知れた。彼は自分との行為を悦んでいる。
(いや、――――違う)
否定し、男は双眸を眇めた。彼が求めているのは自らを壊してくれる誰かであって、男で
なければならぬ理由は何一つないのだ。
彼の中に棲むものはただ一人。それ以外の誰かなど、彼にとっては皆同じなのに違い
なかった。
忌々しい。そう強く思っている自身を、男は訝らずにはおれない。
陰茎を握り込んだまま、何をするでもなく動きを止めた男の肩を、彼が咎めるように
揺すった。
「なぁ、はやくって」
自ら腰を揺らめかせすらする彼を、今すぐに貫き犯すことは容易い。蹂躙は、誰にでも出来る。
ただ犯すだけなのだから、簡単なことだ。けれど、それでどうなるというのだろう。
(虚しくはないのか)
己に対してか、それとも彼に対しての言葉なのか、男には判らない。
ただ、胸の辺りが、ひどく寒い。
彼ならば、暖めてくれるのだろうか。漠然と、そんなことを思う。
男は一度瞼をしっかりと閉じ、見開いた。彼のものから手を離し、ほっそりとした腰を深く
抱き寄せる。訝り眉を顰めた彼が、不意にぎくりと全身を強張らせた。気付いたのだ。彼の
背後――――扉の向こうから、冷気に似た気配が近付いて来ることに。
「ぁ……あぁ……」
彼の表情は、恐怖に彩られている。恐慌、と表現すべきだろうか。自身ががたがたと震えている
ことに、彼は気付いていないに違いない。
「嗅ぎ付けたか……」
男には驚きの色はない。予想していたことだった。彼の半身が、本当に彼を捨てるわけがないと、
男は確信を抱いていたのだから。
男の呟きも耳に届かなかったらしい彼の、哀れな程に震える躰をきつく抱き締めた。うなじに
鼻面を押しつけ、すぅ、と彼のにおいを吸い込む。
「戯れは終いだ」
囁くと同時に金属の擦れる音がし、扉がいくつかの切れ端となってけたたましく床に落ちた。
彼の片割れが斬り裂いたのだ。
薄暗い廃工場の一室で、男は蒼を纏ったものと三度――――実質
的には四度目だが――――対峙する。
光を宿した背に、まるで雛を守るように彼を庇うさまは、蒼を纏うものの目にはどう映っている
のか。男は薄く笑い、拳を握り締めた。
物凄く個人的なことですが…
ベオダンはやはり、ベオ→ダンが好き。