黙示
変わらない日常。平々凡々とした日々。しかし詰まらないとは思わない。何故ならば、ひとりでは
ないから。
何のことはない平凡な日常が、自分にとってもっとも大事なものだったと気付くのは、愚かしくも
それを失ったときだ。後悔し、痛感する。仕合わせとは、ただ流れ去る平穏な日常こそを言うのだ
と、嫌という程思い知らされる。
人間といういきものは、総じて鈍く仕上がっているものだ。己にとって何がもっとも大事で
あるか、失うまで気付かないのだから。
今の自分のように。
静まり返った事務所に鎮座する、気に入りの黒檀のデスクと揃いの椅子に腰掛けて、いつもの
ように脚をデスクに乗せる。ほとんど鳴ることのない骨董品めいた電話機が、今日も沈黙を
守っている。
総てがいつもと変わらない。平凡な一日が過ぎて行く。しかし、決定的に違うことが、一つだけ
あった。
父の形見である愛剣の柄を、右へ左へと捻る。手遊びのようなそれを、ひたすらに繰り返して
いた。意識は総て、手許に注いでいる。全くの無心と言って良い。そうしておらねばならぬ
理由が、ダンテにはあった。
今、時刻は夕暮れに向かっている頃合だ。スラム街は総じて陽が当たりにくいのだが、今が朝か
夜かくらいは外の明るさを見れば判る。
夕暮れに差し掛かろうとする、今。彼はひとり、剣を相手に何を思うでもなく手遊びを続けて
いる。
そう、ひとり、だ。
他には誰の気配もない。彼はまさしくひとりだった。それがおかしいかと言えば、彼はどうだろう
かと首を捻る。ひとりであることがおかしいとは思わない。彼はいつかはひとりになるだろうと
思っていたし、予想の範疇内では確かにあった。そういう意味合いでは、この状態はけっして
おかしいこととは言えないのだ。
けれども。
無心に剣を弄る彼を、知人たちが見れば目を瞠るか不審に思うかするだろう。彼は本来お喋りで、
暗い雰囲気からかけ離れた性格の持ち主なのだから。その彼が、何故。
問題は、彼がひとりきりだということだ。彼自身は理解も納得もしていることでは、ある。
しかし原因はそれしかなかった。
彼が心を無にしている――――そうせねばならない――――理由は、考えたくないからだ。今、
己がひとりきりであるということを。昨日まで、いや今朝方まで傍らにあった存在が、どこにも
いないという現実を。考えて、結論を導き出すことを彼は拒絶しているのだ。
それをしてしまえば、己がおそらくは壊れてしまうであろうことを、彼は知っているから。
だから、何も考えない。ただ、いつも自分とともにある剣に、触れる。
愛剣には僅かながら意志が宿っているようだった。時折、髑髏を模した柄の飾りがぎちりと音を
たてて口を開けることがある。しかし言葉を紡いだことはなく、明瞭な意志はないのだろうことが
察せられた。
生きてはいるが言葉を操ることの出来ない剣は、今のダンテにとって救いと言っても過言では
なかった。余計な口はきかず、じっとそばにいてくれる。そんな存在が、ダンテにはひたすらに
有り難かった。
ため息すら、彼の唇を撫でることはない。沈黙だけが事務所を満たし、埋め尽くしている。
その中心にいる彼は、もはや息をしていないのかもしれなかった。
ただ、剣を弄る。それでどうなるわけでもないのだと、誰よりもよく知っているの
だけれども。
息が出来ない。
苦しくて、
たぶん、かなしくて。
どうしようも、なくて。
あぁ、息が、できない。
頬が熱い。それに、誰かが自分を呼んでいる。何度も、何度も。飽きないのかと思ってしまう程、
繰り返し名を呼ばわられて、ダンテは仕方なく瞼を押し上げた。いつの間に眠ってしまったのか、
思い出せない。
目を開けると、視界いっぱいに兄の秀麗なおもてがあった。いつものしかめっ面だが、どこか
焦燥が見られる気がする。何故だろう。ダンテが首を傾げる前に、兄が珍しくほっと息を
吐いた。
「起きたか」
声音にも、明らかな安堵がある。どうしてなのか、ダンテには判らなかった。これも何故なのかは
判らないのだが、ダンテ自身もひどく安堵しているのである。鼻を利かせずとも匂いが嗅ぎ取れる
近さに、バージルがいる。それだけのことだというのに、ひどく――――嬉しい。
「バージル……」
呼ばわる声はいつもより掠れているように、思う。
不意にバージルがダンテの右の目尻に親指の腹を押しつけた。痛くない程度に、指をスライド
させる。何をしているのか判らずきょとんとするダンテを余所に、バージルが同じ動作で左の
目尻も拭った。やはり、何をしているのか判らない。ダンテが首を傾げると、バージルがダンテの
前髪を掻き上げた。
「……悪い夢を視ていたのか」
ため息のような囁きを、しかしダンテは理解することが出来なくて。
「……ゆめ……?」
舌足らずに繰り返したダンテの瞼に、バージルが奇妙な程柔らかいキスを落とした。思い出す
ことはない、と囁く声音もひどく優しい。それがかえって、ダンテには不思議なことに思えて
ならなかった。不審、と言っても良いかもしれない。
「バージル、」
どうかしたのか、いや、何があったのか問おうとした。けれど言葉に出来なかった。口にしては
いけないような気が、した。
バージルはダンテの心を察しているのか、いないのか、節の高い指でダンテの髪を梳いてくれる。
その感触を味わうように目を閉じると、バージルがふっと笑みを漏らしたような気がした。
柔らかな気配だ。普段のバージルからは想像も出来ない程、柔らかな。
(……悪い、夢……)
思い出さなくて良いとバージルは言った。だからダンテは、バージルの言う通りにする
だけだ。
夢は夢でしかないのだと、無意識に己に言い聞かせていることには気付かぬまま。
ダンテはほぅっと、息を吐いた。
髪を梳いてくれる兄の指が、心地好い。
静まり返った事務所の隅で、父の形見の剣がぎちりと音を立てて口を開けた。
なんとなく後ろ向きになりたかったので…
当初は、本気で捨てられる設定でした。