青蓋
ぺそりとドアを叩く音がする。ダンテはひょいと首を伸ばしてそちらを見やり、ぺそりともう一つ
音がしたのを確かめてから立ち上がった。
リビングに鎮座するソファーは、専らバージルが腰掛ける為のものだ。ダンテはほぼ、床を
自分の場所に決めており、ソファーは背凭れに使う。床は基本的に絨毯の類は敷かれていないが、
テーブルセットが置かれた部分にのみ、割合毛足の長い敷物が延べられている。これはいわゆる
冬仕様だ。夏場はもっと、薄手のカーペットを敷いてある。
敷物など要らないとダンテは言ったのだが(とくに夏は)、バージルは駄目だという一言で
ダンテの主張を退けた。腰が冷えるから、駄目だと。冬場のことならダンテも納得がいくのだが、
夏場は冷えるよりもむしろ暑さが倍増しそうだ。そう言い張ってみたが、やはり無駄だった。
バージルがこうと決めたことを、曲げるわけはないのである。
もっとも、ダンテが床ではなくソファーに座るようにすれば、そんな敷物の一枚で言い合いを
する必要などないわけだが。
ぺそり、ぺそり。またドアを叩く音。さっきよりも間隔が短くなっている。ダンテがさっとドアを
開けてやると、べたべたっと何かが手前に倒れ込んだ。引き戸になったドアにへばり付いていた
らしく、ダンテが開けた途端に支えを失って倒れたようだ。
ダンテは呆れて肩を竦めた。
「またかよ。何度やりゃ覚えるんだ?」
見下ろす床には、ぬいぐるみのような塊が二体。朱いものと碧いもの、どちらもが全く同じ形を
している。朱いほうが、全身の半分を占める大きな丸い頭を持ち上げてダンテを見上げた。
同じように、碧いほうも顔を上げる。
「主よ、鬼の居ぬ間に我らと戯れようぞ」
「鬼はしばし戻らぬのであろう、主よ」
ぴぃぴぃと、交互に喚く声は嗄れていて、見目の小ささとは全く釣り合っていない。が、本来の
姿はこんな小鬼のぬいぐるみではなく、鋸状になった片刃の剣なのだ。それが、二本。双子剣で
ある彼らがぬいぐるみのような姿に身を変じているのには、深いようで浅く、広いようで狭い
理由がある。
「図書館行くっつってたからな。小一時間は帰んねぇってよ」
己が小鬼らの行動の源になっているとは知らず、ダンテは耳の後ろを掻いた。彼らが言う
ところの“鬼”とやらを、自身の兄と当たり前のように理解している。と言うのも、この小鬼らは
何かにつけてバージルに対峙し、角を突き合わせるのだ。バージルはバージルで、何が気に
食わぬのか小鬼らを目の敵にしている節がある。二体がダンテにまとわりついていると、
決まって閻魔刀なり幻影剣なりで小鬼らを徹底的に排除してしまうのだ。曰く、奴等を
近寄らせるな。――――だそうである。
何故こうも仲が悪いのか、ダンテにはまるで判らない。ダンテにとっては、バージルは文字通り
半身であるし、双剣が身を変じた小鬼らは大のお気に入りだというのに。
どうしてだか判らずダンテが首を捻る度、バージルが呆れたふうにため息を吐いているとは、
ダンテは気付いていない。
ぴぃぴぃと、何やらテンションの上がったらしい小鬼らがダンテの足許で喚き始める。
「今日こそ我らが念願を果たそうぞ!」
「然り、鬼の居らぬ間に主を我らがものに!」
「然り、鬼を出し抜くには絶好の日和ぞ!」
外は、晴れているどころか雪混じりの雨だ。まさか、と思わず窓を見やったダンテは、白いものを
抱いた雨の雫を見て目を瞬かせた。
「どこらへんが絶好の日和なんだ……?」
判らぬのは当人ばかり。これはいつものことで、慣れている小鬼らは気にもしない。むしろ
人間とはまるで違った感性を持つ彼らのことだ、捉え方も何もかもがずれているのは今に
始まったことではない。
「主よ、いざ参ろうぞ!」
「いざ交わろうぞ、主よ!」
あからさまな単語が叫ばれているにも関わらず、ダンテの反応はどこまでも鈍い。
「遊ぶのは構わねぇけど……何するんだ?」
ダンテは若いが、遊び盛りの年代は過ぎている。小鬼らと遊ぶとすれば、思い付くのは幼児の
ままごと遊びのようなものしかない。この歳でそれは勘弁……などと眉を顰めていると、
もふもふと柔らかなものが脚に巻き付いた。見れば、朱い小鬼が右脚に、碧い小鬼が左脚に
取り付いて短い手足をよちよち動かして登ってくる。
身の丈が子どもの膝くらいしかない小鬼らにとっては、ダンテの脚を登るのは相当苦労せねば
ならない。よちよちもふもふ、いかにも頑張っているというふうの小鬼らを、ダンテは
見下ろして思わず頬を緩めた。よく判らないことを声高に喚く小鬼だが、こうしてちまちま
動くさまは可愛いものだ。
二体の小鬼が、果たして何を目的にして己の脚に取り付いているのか、もちろんダンテは判って
などいない。
手の届くところまで登れたら、抱き上げてソファーのほうへ行こうか。そんなことを考えながら、
ダンテは微笑を湛えて二匹を見下ろしている。
ようよう、小鬼がダンテの脚の付け根まで到達した。ふわふわの、中に何が入っているのか
甚だ疑問である躰をダンテが摘み上げようとしたとき、
「っ……」
びくっと、した。小鬼の短い腕(手?)が、ダンテの内股を撫でたのだ。這い登っていたときは、
多少のくすぐったさ以外に何も感じなかったというのに、何故か。ダンテの疑問を余所に、
朱と碧のぬいぐるみはなでりなでりと内腿の柔らかい部分に触れて離れない。故意にか事故でか、
股の間のものに小鬼の手が触れて、思わず腰が引けた。
「やっ……ちょ、お前ら、そこで遊ぶなっ」
あくまで、戯れだとしか考えないダンテである。己の貞操が危ういのだとは、まさかとも思って
いない。
日々バージルに挑まれているだけに、ダンテは望まず敏感な躰になっている。小鬼らが何も
映していない目を輝かせるのは、仕様のないことだ。
「主よ、やはり感度が良いな」
「存分に喘ぐが良いぞ、主よ」
いざ、とまた内股を撫でようと気合いを入れた小鬼を、ダンテはひょいと両手に一匹ずつ摘んで
腿から引き剥がした。あぅ、と間抜けな声が二つ上がる。
「遊ぶなっつったろ」
たしなめる目こそ眦を吊り上げてはいるが、声音は言葉程に鋭くない。小鬼らのすることは総て、
ただの可愛い悪戯だと思っているダンテは、彼らを本気で叱り付けたことは一度もないのだ。
ぺいぺいっとぬいぐるみをソファーに放り、己は何か飲もうとキッチンへ足を向ける。二体は
ソファーのスプリングでぽよぽよと何度か跳ね、体勢を立て直すのに思いの外時がかかっている。
それを肩越しに見やって、ダンテはくすくす笑った。
「大人しくしてろよ。じゃねぇと、またバージルの小言が増える」
あれは本当に勘弁して欲しいものだ。
冷蔵庫の扉を開けると、ダンテは碧眼を煌めかせた。大好きなトマトジュースの缶が、いくつも
並んでダンテを見つめ返している。それらは確か、一昨日にはなかったものだ。そのとき、
買って、とダンテは兄にねだった。あれがなくては辛抱堪らないという程ではないのだが、
要は気持ちの問題だ。飲みたいとふと思ったときに目的のものがあれば、当然嬉しい。
覚えていれば、などと意地悪く言っていたバージルだが、一昨日の今日でもう買い置きをして
おいてくれたらしい。いつの間にか。ダンテを驚かせようと、黙っていたのかもしれない。
意地は悪いが、基本的に兄はダンテをよく可愛がってくれる。
無意識ににこにこして、ダンテはトマトジュースの缶を一本、冷蔵庫から取り出した。扉を
閉めるのももどかしく、いそいそと缶の蓋を開ける。
「……はぁ、うま……」
一昨日には我慢せねばならなかっただけに、旨さもひとしおである。
ほくほく顔でソファーに戻ろうとすると、二匹の小鬼が肘掛けから頭だけ出して、じぃっと
こちらを凝視している。何が映っているのか、よく判らぬ瞳で。
「主のあのような表情も、なかなかおつなものよな」
「然り。あの愛らしい口を、是非とも味わいたいものよ」
「然り。それにつけても兄上殿の何たる周到さ」
「然り。忌々しいまでに鮮やかな根回しぶりぞ」
交互に喚く、朱と碧のぬいぐるみ。これはいつものことなので、ダンテはトマトジュース片手に
黙って聞き流すまでだ。彼らが何のことをぶつぶつとやっているのか、ダンテにはいつもよく
判らないのだから。
「もしや、あれが餌付けというものではあるまいか」
「餌付け? 餌付けとは?」
「餌を与えて懐柔することぞ。……はて、懐柔とは?」
「手懐けるということではあるまいか?」
「成程、然り」
「では、兄上殿は餌で主を手懐けようとしているということか」
「手懐けて、主を我がものにする算段に違いあるまいぞ」
「何とも、卑劣な!」
「許すまじ、兄上殿!」
「主は我らがものぞ!」
びよびよ喚き散らしたかと思うと、突然ぬいぐるみらが肘置きを乗り越えてソファーから飛び
降りた。きれいに着地して、よちよちぺそぺそ、真直ぐにダンテの足許へ走り寄って来る。
「主よ、兄上殿に餌付けされてはならぬぞ!」
「兄上殿の企てに乗ってはならぬぞ、主よ!」
ぺそぺそとダンテの周りを駆け回りながら、ぴぃぴぃと叫ぶ二匹。ダンテは飲み干して空に
なった缶の飲み口を囓るように口に咥え、膝を折って小鬼を抱き上げた。二匹は示し合わせた
ように同じ動きでダンテの肩に乗る。
「煩ぇよ、お前ら」
叱るでもなく言って、空き缶をキッチンの端に置いておく。もう一本飲もうか、ちらりと
惹かれたが風呂上がりにしようと思い直した。
「主よ、」
「主よ、」
構って欲しいのか、ぴぃぴぃ言っている小鬼らの頭をぐりぐりと撫で、ダンテはソファーへ戻り
床に腰を下ろした。時計を見やる。バージルが出掛けて行って、もうすぐ一時間だ。そろそろ、
帰って来るだろうか。何時に帰るのかと訊いたダンテに、小一時間程度だと答えたのは
バージルだった。
ダンテは図書館という場所はもちろん、本そのものに縁がない。文字を全く読まないわけでは
ないが、好きかどうかと問われれば苦手だと答える。その程度だ。故に、バージルにくっついて
図書館や書店に行くことはほとんどしない。行っても暇を持て余すだけで、詰まらないのだ。
活字中毒者の兄を、ただ、待つ。寂しいのではないが、あまり長くひとりで置いておかれるのは
好きではなくて、何時に帰って来るのか、兄が出掛ける際にはいつも訊くのである。
「まだかな……」
呟きは、全くの無意識だった。顔の両側から、小鬼がダンテの呟きを聞き咎めて目を吊り上げた
が、ダンテは取り合わない。判らないことを喚くばかりの小鬼らなど、いちいち相手にしている
ときりがないからだ。
ダンテの肩から腹へダイブした二匹をおざなりに指でつついたりして――――また、時計を
見上げた。さっきから、五分も経っていない。肩を竦めたとき、ダンテは器用に耳を
ひくつかせた。腹の辺りで遊んでいる小鬼をまとめてソファーに移し、自身はたっと立ち
上がってリビングを出る。家の中では走るなと、バージルに小言を言われたのはつい数日前の
ことだ。
大股に廊下を突っ切り、事務所へ続くドアをがばりと開ける。蒼いコートを纏った長身が、
ドアを開ける前からダンテに気付いていたらしく、待ち構えるようにこちらを見つめていた。
「腹でも空いたか?」
問うてくる双子の兄に、ダンテは首を振った。
「まだ三時だぜ?」
「ふん……?」
「信じてねぇな、そのカオ」
まったく兄は疑り深い。ダンテは笑いながら、バージルに近付き蒼いコートの襟に無意味に
触れた。白いスカーフをマフラー代わりに首に巻いたバージルが、ダンテの伸ばした腕を掴み、
ぐいと引き寄せる。ダンテはされるがまま、バージルの腕の中に納まった。兄は今の今まで外に
いたというのに、こうして抱き締められると暖かいと感じられるから不思議だ。
オカエリ、とぎこちなく囁いた。挨拶など、めったにすることのない彼らだ。たまに口にすると、
奇妙な程恥ずかしく感じてしまう。
「あぁ、ただいま」
待たせて済まん。耳に吹き込まれる囁きが心地好くて、ダンテはバージルの肩口に頭を預けて
目を閉じた。
……あたたかい。
コートを脱ぐに脱げず苦笑するバージルに、てろんと抱き付いて甘えるダンテ。そんな光景を
恨めしげに見つめる小さな瞳が四つあることに、ダンテはもちろん、気付いてはいない。
一方バージルはといえば、近付けば串刺しにするとばかりに、ダンテからは見えぬ位置に蒼白く
輝く幻影剣を二本、浮かばせているのだった。
甘味はお好きですか?(意味不明)
普通にアグルド→ダンテだけにするつもりだったのにな…