此花コノハナ









ひょいと見上げると、コンクリートが茜色に染められていて、きれいだと思った。こんな薄汚れた 街でもそう思えるときは確かにあるのだから、けっして捨てたものではない。






黒い毛並みが美しい猫が一匹、路地をするすると歩いている。野良らしく、首輪はしていない。 それにしては全く汚れのない毛皮を纏っており、陽があたるとちらちら光を弾いている。目は 青く、尾が長い。可愛らしいと言って良い猫だ。
もっとも、当の黒猫にすれば可愛いなどと言われても嬉しくもないのに違いない。この黒猫に とって、可愛いは決して褒め言葉ではなかった。むしろ不快感すら覚える言葉と言って良い だろう。とにかく、厭っているのだ。が、何ごとにも例外は存在するもので、猫が「可愛い」と 言われても憤ることのない人物が存在する。

不意に頭上を影が覆って、黒猫は足を止めて顔を上げた。ふわっと風が起こり、黒いものが アスファルトに舞い降りる。黒猫に負けず劣らず艶のある黒を纏った、大きな鴉だ。見覚えの ある姿に、黒猫はじわりと双眸を細めた。

「おまえは、」

大鴉は真っ黒い目で黒猫を見据え、くっと喉を鳴らした。言葉は使えないのか、声を出そうとは しない。しかしそれが尋常の鴉ではないことは、既に知っている黒猫である。大鴉が何の目的で 自分に近付いて来たのか判らず、じりりと身を低くした。

黒猫には、飼い主とは違う意味で主と定めた者がある。黒猫に名を与えた瞬間から、彼は正しく 黒猫の主となったのだ。ただし、彼はそのことを自覚しておらぬのだが。
大鴉に遭遇したのは、その主と、以前夜に路地を歩いていて無礼な荒事師から襲撃を受けた ときのことだ。彼の愛用する銃に、鴉が一羽、羽を休めたのである。 夜は飛び回れぬ筈の鴉が何故、と彼は首を傾げていたようだったが、黒猫にはその理由が判って いた。大鴉が自分と同類の、異形と呼ばれるものであることを。そして彼の持つ尋常ならざる 魔力に惹かれて姿を現わしたのだと、黒猫は瞬時に見て取った。つまり、自分と同じだった。

「人語は操れない、か? だが、こちらの言葉は判るんだろう」

黒猫が唸るように問えば、大鴉はまた喉を鳴らした。肯定の意味だろう。この大鴉は、彼の 言葉を理解していたふうだったのだから。
しかし大鴉が自分の前に姿を見せた理由は、やはり判らない。不審に思っていると、大鴉は 鷹程もありそうな翼を広げて宙へ舞い上がった。低いところを一度旋回し、見上げる黒猫を 一瞥して飛び去ってしまう。

「何だよ……」

呟いて、黒猫ははたと目を瞬かせた。大鴉が飛び去った方向は、今の今まで黒猫が向かっていた 方角に違いなかった。路地はどちらか一方にしか(鴉ならば上空も選べるが)行きようがない ものの、嫌な予感がしてならない。
黒猫はきゅっと口を引き結び、駆け出した。やはり足音はなく、黒い影は滑るように路地を 走り抜けて行く。





こつん、こつん。

小さな音に、ダンテはのろのろと瞼を持ち上げた。丁度眠りが浅くなっていたのだろう。 いつもならばその程度の音では目覚めることのないダンテだが、今朝は運が良かったのかも しれない。誰にとってかは、置いておく。

「んむ……?」

目許を手で擦り、気怠い躰をもそりと起こした。この間も、こつんこつん、という音は続いて いる。硝子の音らしいと、だんだん醒めてきた頭でぼんやり思った。
いつものこと、と言ってしまうと少々恥じらいを覚えるが、昨夜も遅くまでバージルに挑まれて いた為に、気持ちとしてはまだ一時間は眠っていたいのだ。バージルとダンテは双子の兄弟で、 バージルのほうが兄にあたる。その兄と肉体関係にあることに、ダンテは疑問はない。双子の 兄弟であるからこそ、彼らは互いを求めて膚を重ねている。世間の目がどうであるとか、そんな ことはどうだとて良いのだ。

躰は怠いが、起きるのが億劫という程でもない。バージルにしては珍しく、手加減をしてくれた らしい。それでも夜更けまで貫かれて……などと、思い返して僅かに赤くなった頬を手で軽く 叩きながら窓に近付くと、何やら黒いものが外側の窓枠にいるのが見えて、ダンテは首を 傾げた。

「…………?」

窓を開けると、その黒いものが中へひょいと入り込む。その思いの外大きな姿に、ダンテは ちょっと目を瞠った。黒いもの――――大鴉はダンテの眼前をかすめるようにふわりと飛び、 ダンテの右肩に羽を休めた。夜着代わりの開襟シャツ一枚しか纏っていない為、猫のようには 隠せぬ爪が少々痛い。しかし思い切り食い込んでいるわけではなく、顔をしかめる程の痛み でもない。

どうもこの鴉、見覚えがあるような気がするのだが……

自分の肩に落ち着いた鴉を見やると、鴉もこちらを見つめていた。野生の生き物とはあまり目を 合わさぬほうが良いのだが、鴉は襲いかかってくる様子もなく、むしろ笑みを浮かべているように ダンテには見えた。むろん、鳥にそんな表情が作れる筈はないが。
ダンテは何となく鴉の喉を指先で掻いてやった。大鴉がどことなく気持ち良さそうに首を傾げ、 くるくると喉を鳴らす。そうされると撫でているほうは嬉しいもので、ダンテの顔が綻んだ。

「面白いな、お前」

飼っているわけではないが、自分に懐いてここに棲みついたあの黒猫のようだ。あれの毛並みも 手触りが良いが、この鴉も負けぬ程に艶やかな羽を持っている。
底の見えぬ闇色の瞳がダンテを映し、じわりと細められた。

ダンテが大鴉を肩に乗せたまま、ベッドに腰掛けようと窓辺から離れたとき。かりかり、と ドアを引っ掻く小さな音が耳に入って、さっとそちらを見る。外側から、開けてくれ、と ダンテを呼ばわっているらしい。
何が、とは微塵も思わず、ダンテは部屋を大股に横切ってドアを開けてやった。その途端、 またしても黒いものがダンテの足許に巻き付くようにして部屋に飛び込んでくる。慌てたような 様子に、ダンテは目を瞬かせた。

「どうしたんだ、ユタ?」

ユタとは、今ダンテの足首に躰をすり寄せている黒猫の名だ。ダンテが付けた。妙な鳴き方を するものの、懐っこくて可愛いやつである。

黒猫はダンテを見上げ、にゅう、と例の変わった鳴き声をあげた。青い目がダンテの右肩の ものを睨んでいる。だけでなくフーッと威嚇するものだから、ダンテはひょいと首を捻った。

「何怒ってんだよ。こいつがどうかしたか?」

猫と鴉では種族がまるで違うが、動物同士言葉が判るのかもしれない。何か言い争っている ふうには見えないが、喧嘩でもしているのだろうか。そういえば以前も、こんなことがあった ように思う。

「あ、――――思い出した。お前、あのときの鴉か」

夜のことであった為、はっきりと確信を持てるわけではなかったが、ダンテが鴉を見やると、 鴉はそうだと言うように嘴をひとつぱくりと開閉させた。その反応に、ダンテは破顔する。と、 黒猫が何やらダンテの夜着の裾を爪で引っ掻いた。

「そんな奴に構うな!」

憤りもあらわな声がして、ダンテは肩を竦めて足許を見やった。

「だから、こいつが何なんだよ?」

些か大きいが、ただの鴉だ。猫が鴉を嫌うとは、あまり聞いたことがない。仲が良いとも聞いた ことはないが、それはそれだ。ダンテはすっと腰を落とし、にゅうにゅう鳴き喚く猫の胴を すくい上げた。黒猫は慣れた仕種でダンテの腕を登り、するりと左肩へ移動する。

「おまえ、やっぱりここに来てたのか」

そんな声が耳の近くで聞こえたが、ダンテは深くは考えない。ダンテの右肩では鴉が、 すっかり寛ぎきった様子で羽の内側を嘴で掻いている。そのさまに猫がまた腹を立てたようだ。 フーッと毛を逆立てて、鴉を威嚇している。

「あー、もう、喧嘩はやめろって」

おざなりなダンテの言葉など届いていないのだろう。いきり立つ黒猫をどう宥めたものか、 ダンテが後頭部を掻いていると、

「……何だ、それは」

騒がしくしていたつもりはなかったが、バージルが様子を見に来たらしく、顔を覗かせた。 眉間にはくっきり、深い皺が刻まれている。

「や、何て言うか……」

俺の所為じゃないんだけど、と口の中でぼそぼそ言う。実際は完全にダンテが原因なのだ けれども、ダンテ本人は全く自覚がない。

バージルはダンテの両肩をそれぞれ一度ずつ見やり、ダンテに鋭い視線を据えた。

「それも、飼うつもりか」

どうすれば鴉を飼う飼わないの話になるのかが、ダンテには判らない。大鴉があまりにも、 ダンテに馴れているからだろうか。

「飼うっていうか、起きたら窓のとこにいたんだよ。で、窓開けてやったら、こう……」

なったのだ、と簡素に説明する。左肩で黒猫が、「飼うなどとんでもない」というようなことを ぶつぶつ言っている。
バージルは一つため息をこぼし、おもむろに腕を伸ばしてダンテの頭をくしゃりとした。

「とりあえず、着替えて顔を洗え。……ひどい寝癖だ」

「ほぇ?」

思わず間の抜けた声をあげてしまった。バージルがふっと笑みを浮かべ、ダンテの耳を掴んで ぐいと引き寄せる。痛い、と抗議をしようとした唇が、バージルのそれに塞がれた。

「っ!?」

あまりに突然すぎて、ダンテは目をいっぱいに瞠った。下唇を少しきつめに噛まれてから、 唇が離れる。目の前には、バージルの意地の悪い顔があった。

「早くしろ。それとも、俺に着替えさせて欲しいか?」

「っ……自分で着替える!」

「それは残念だ」

くっくと笑うバージルを、ダンテは睨むが効き目がないことは判っているのだ。唇を尖らせ、 左右の肩に居座る黒いものたちを呼ばわった。

「聞いてたろ? 着替えるから、ちょっとどいててくれ」

まずは鴉が、ダンテの耳朶を嘴で優しく挟んで肩から離れた。バージルのこめかみがぴくりと したが、ダンテは気付かない。左からは「すぐに戻る」との声がして、黒猫がダンテの頬を ぺろりと舐めて肩から飛び降りる。またしてもバージルのこめかみが引きつるが、これも ダンテはまるで気付かなかった。
開襟シャツのボタンに指をかけたダンテの肩を、バージルが掴む。

「? 何、」

「やはり俺がしてやろう」

不自然な笑みを湛えたバージルに、ダンテの顔がひくっと引きつった。

「い、いいって、自分で出来る」

「遠慮をするな。なぁ、ダンテ?」

にこりと微笑む、その表情がとんでもなく怖い。ダンテの足許では黒猫が、頭の付近では大鴉が 何やら騒いでいるが、何を言っているのか、ダンテには判らない。バージルの笑みが、ただ ひたすらにダンテの恐怖を煽る。

「ば、バージル……」

ダンテが無意識に後退りすると、バージルはずいと距離を詰め、

「逆らうつもりか?」

低い声に、ダンテはびくっと躰を竦ませた。バージルの手がダンテのシャツを無造作に掴み、 引き裂いた。ボタンがぶちぶちと千切れ、床に散らばる。シャツを台無しにされて、しかし ダンテは怒ることも出来なかった。それ程、バージルの微笑は威力があるのだ。
ろくな抵抗も出来ず、バージルにされるがままになってしまったダンテの周りを、黒猫が駆け、 大鴉が飛び回る。しかしそれも束の間のことでしかなく、

「臓腑をまき散せたいか……?」

バージルの一声により、静まらざるを得なかった。
壁は分厚い。黒猫と大鴉がそう思ったかどうかは、誰も知らない。



















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鴉です。黒いです。黒猫とはライバル状態です。でも最大の敵は兄。