想死
毎日、どこかで誰かが命を散らせている。望む望まずに拘わらず、ひとは生まれ落ちた
その日から、死へ向かって歩んでいく。例外はない。
ふと、目が覚めた。もぞりと脚を動かして、すぐそばのものに躰をすり寄せた。暖かい体温が
伝わって来るのを感じて、我知らずほっと息を吐く。
生きている。
死を目前に控えた病人ではないのだから、生きているのは当たり前だ。しかし幾つもの死を
目の当たりにしてきた自分には、そんな理由では安堵など出来なかった。命の終わりは唐突に
訪れる。昨日は溌剌としていたものが、翌日に死んでしまうことなど珍しくもない。だから、
安堵など出来るわけがないのだ。
「…………」
ごそごそシーツを這い、枕許に顔を出す。夜目の利く目を右にやれば、自分にとって最も
大事な彼が安らかな寝息を立てて眠っている。寝相が意外な程悪くない彼は、自分を下敷きに
したこともない。今も躰の右側を下にして、深い眠りの中にあるようだ。
毛布からするりと這い出し、彼の頬に掌を押し当てる。もちろん、彼が目覚めない程度にだ。
ぷにりと柔らかな弾力があって、彼の睫毛が微かに震えた。が、目を覚ましてしまったわけでは
ないらしく、何か夢でも見ているのか、ちょっと口をもぐもぐさせる。
少し肉厚のある彼の唇に目を引き付けられて、下唇をちろりと舌で舐めてみた。若干乾燥して
かさかさしている。それが気になって、もう一度、ぺろりと舐めた。ざらざらとした感触が
ある筈だが、彼が目を開けないものだから、少しばかり調子に乗ってしまう。
てちてちと水を飲むように、彼の唇を何度も舐めた。繰り返すうち、何となくだが甘いような
気がしてくる。甘いものに目のない彼のことだ。唇に甘さが染み込んでいるのかもしれない。
しっとりと彼の唇が濡れたのに満足して、舌を口に仕舞い込む。そうして鼻先を彼の唇に
押し当てると、不意に彼が身動ぎをした。
「ん……、……」
背中に彼の手が回り、首の後ろを掴むようにされた。が、引き剥がされることはなく、
彼は目を開けぬまま、
「……ユタ?」
と掠れた声で呼ばわった。ユタというのは、彼が思い付きで自分に付けた名だ。
「にゅう、」
変だ、と彼が言う鳴き声を上げて、彼の頬をざりりと舐める。彼はくすぐったそうに顔を
しかめて、ゆるく目を開けた。寝ていろ、という意味のつもりだったのだが、逆効果で
あったらしい。
「ユタ、今……何時だ……?」
部屋は真っ暗だ。時計を見るまでもなく、少なくとも、まだ夜明けすら遠いということは判る。
しかしダンテはあえて正確な時間を確認したいらしく、何かねだるように自分の躰を揺さぶって
くる。仕方なく、首を巡らせてサイドボードの上の目覚まし時計を見やった。蛍光塗料を塗った
針をじっと見つめる。
「……四時、四十……八分」
もうすぐ午前五時になると伝えれば、彼は「ん、」と眠そうに小さく頷いた。しかしまだ、
眠り直す気はないようで。
「……なぁ、……」
「にゅう?」
自分の背を撫でる手が妙に寂しげなように思えて、目を細める。彼が何を思っているのか、
察したくなくとも察してしまって、無意識にシーツに爪を立てた。
「もうすぐ帰って来るさ」
そう言ってやるが、彼の不安げな表情を拭うことは出来ない。肩を竦めて、彼の手首に尻尾を
くるりと巻き付けた。大丈夫だと、繰り返し言って聞かせる。
大丈夫、ちゃんと帰って来るよ。大丈夫。
囁いては彼の頬を舐めてやる。彼は少し気が落ち着いたのか、
「うん……」
と鈍い返事をして目を閉じた。午前三時をゆうに回ってから眠りに就いたのだから、眠いのは
当たり前だ。まだ二時間も眠れていない。
引き込まれるように寝入った彼の、白い頬に鼻先をすり寄せた。
彼が夜更けまで起きて待っていた理由は、彼の双子の兄だ。いつもは兄弟で同じシーツと
毛布に包まれて眠る彼らだが、兄が不在ではそれも出来ない。兄は、仕事で出ている。帰りは
良くて夜更け、悪くて夜明けだと言って出掛けた兄を、彼は夜更けまで待った。が、兄は帰って
来なかった。
仕事が長引いているのだろう。躰に障るから眠れと言ってベッドに入らせたのは自分で、
まだ待っていたいようにしつつもベッドに潜り込んだのは彼だ。冷たくなった彼の脚に尻尾を
巻き付けると、彼は間もなく眠ったようだった。ため息を一つ、こぼして自分もすぐに
寝入った。
夜中に目が覚めることは、自分にとっては珍しくない。反対に、彼は一度眠ってしまうと
途中で目覚めることはあまりない。同衾すること自体が少ないとは言え、ずっと見ていれば
判ることだ。
彼は精神的に、奇妙な程の欠落を抱えている。穴というには小さく、裂け目というには
くっきりとしすぎたその欠落に、彼自身は気付いていない様子だ。欠落の原因が双子の兄で
あることも。
放ってなぞ、おけるわけがない。
たとえ彼が望んでいないと判っていても、自分はもう、彼と離れることなど出来ないの
だから。
背中に回された手が、まるで自分に縋っているような――――そんな、馬鹿な思い込みを
しても意味はないのだけれども。それでも。
「にゅう……」
どうか、きみが嘆くことのないように。
この温もりが絶えることのないように。
彼を想いながら、目を瞑る。
どうか、
兄は夜明けを間近にして、ようよう帰り着いた。荒々しくこそないものの、足早に階段を登り、
部屋に入るなり彼の眠るベッドに腰を下ろして、靴を脱ぐのも面倒だとばかりに横たわる。
彼は兄に覆いかぶさられてようやく、兄の帰宅を知った。目を開ければ息の触れるところに
兄の顔があり、無意識に笑みがこぼれる。それを見て、どこか険しい表情をしていた兄の顔が
僅かに穏やかなものになった。
「眠れ」
兄の声が、子守歌(というにはあまりに短いが)のように彼を夢の世界へ誘う。二人分の
寝息が部屋に満ちる頃、黒い猫が一匹、夜の影に紛れてそっと部屋を出て行った。
今はただ、楽しんでいよう。大いに飲み、たらふく食らい、思い切り遊び、この命を存分に
楽しまなければ損をする。
生きているものは、いずれ必ず死ぬのだから。今を楽しまずにいる道理はない。
今を生きよう。
いつか尽きるその命を思い、今はただ、前を向いて生きていれば良い。
「にゅう……」
小さな声は、夜明け前の暗い路地に吸い込まれるように消えてしまった。
少し思うところがありまして、ちょいと暗めな仕上がりになりました。
でも個人的にはそんな暗い話とは思ってなかったり…