銀箔
碧い塊がもそもそと、しかし風に吹かれた木の葉のようにするするとアスファルトの上を滑って
行く。目を留めたものは二度程瞬きをして、布か何かがこんがらがって塊になったものだろう、と
見当をつけて肩を竦める。布でなければマフラーか、それとも毛糸の玉がころころと転がって
いったのか、思い付く可能性はそんなところが精一杯だ。が、そのどれもが間違いであることを、
知るものはむろん一人もいない。
アスファルトの上を転がっていくものは、布でもなければマフラーでもなく、まして毛糸の玉
などでは決してない。何故ならその塊は、れっきとした生き物であるからだ。
ことの起こりは数時間前。そのときルドラは、いつものように主人の膝に陣取って、とろとろと
まどろんでいた。
主の膝はルドラの大の気に入りだ。主の腿に手を回し(腕が短い為にひしりとしがみつくだけ
だが)、頬をすり付けているとそれだけですごく仕合わせな心持ちになれる。少し前にこの気に
入りの場所を片割れのアグニに占領されてしまったこともあり、ルドラは今日こそはと一番乗りで
主の膝へ登ってきたのだった。
柔らかく頭を撫でてくれる掌の感触が、いっそうルドラを良い気持ちにさせる。ルドラは見た
目には全く変化の表われない顔をにっこりとさせ、主の腿に頬をすりすりと擦りつけた。途端、
くすくすと笑う声が頭上から降ってくる。
「こら、くすぐったいだろ」
たしなめながらも主の声は優しく、ルドラを本気で叱っているのではないと知れる。主は
いつもそうで、ルドラやアグニが悪戯をしても、今のように優しくたしなめるばかりで本気で
怒ったことはなかった。代わりに、とでも言おうか、ルドラとアグニが悪戯をすることによって
怒りをあらわにするのは、主の兄だ。しかもその怒りは毎度尋常ではなく、ルドラとアグニは
何度死の淵に立たされたか判らない。
折る、砕く、溶かす、等々。並の罵声などより余程恐ろしい脅しを、主の兄は全く冷酷そのもの
の声音で言い放つのだ。どの言葉も、本性が対の剣である彼らにとっては背筋が凍り付きそうな
ものだ。しかし、それでもなおルドラらが悪戯をやめない理由は、主にある。
彼らの悪戯は総て、主に対するものだ。もっとも彼らの行動を悪戯と思っているのは主だけで、
彼らは至極真面目に、日々せっせと主にアプローチを仕掛けているのである。それを快く思わない
主の兄が、毎度彼らを排除し叩きのめすのだ。
いつもいつも、主の兄は彼らの邪魔をする。彼らとて、いくらアプローチを仕掛けたところで、
主が自分たちのほうを向くことはないと判っている。主の中には主の兄がいて、彼らの入る隙間も
ないことくらい、知っている。しかし、だ。彼らが主を慕い、愛しいと想う気持ちは止められる
ものではない。たとえ実らぬと知っていても、彼らは黙っていることは出来ないのだ。
主と主の兄が、互いを想い合い、慈しんでいる――――もしそうならば、彼らは剣の姿のまま、今も
沈黙を守り続けていただろう。しかし現実には、彼らは剣の姿からこの――――二本の角を備えた
ぬいぐるみのような小鬼へ姿を変え、日々ぴぃぴぃと喚いては主にまとわりついている。主も
この小鬼の姿ならばいくら喚いても笑うばかりなのだ、以来彼らは、剣よりもこちらの姿でいる
ことが多くなった。しかもこの格好なら、主に触れたいときに触れられるのだから(いくら触れて
も主が怒らないのだ!)、癖になるのは仕様のないことだった。
本来の目的を忘れることはないが、実質、アグニとルドラは大いにはしゃいでいる。彼らが
ちょろちょろ、もふもふと動き回っているだけで、主からは笑顔が途絶えることは少ない。
本当は、ずっと笑顔でいて欲しいのだけれども。
ルドラは主の腿の上で、もそもそと躰を動かした。慕ってやまない主。この想いは今や、
ルドラの総てになっている。
魔界の爛れた瘴気の中で生まれ、気の遠くなるような月日をアグニとともに過ごしてきた。
他の悪魔と同じように殺戮と捕食のみを繰り返していた彼らが、いつしか抱き始めた願いは
自分たちを使いこなすことの出来る最高の宿主を得ることであった。長い年月をその願いの為に
費やし、ようやく彼らの念願は果たされた。主――――ダンテという名の半人半魔こそ、彼ら双剣が
望んだ最高の宿主である。
ルドラは主の為に生きていると言って良い。アグニも同じだ。人間の双子とは違い、彼ら双剣は
本当の意味で意思を共有している。アグニの思うことはルドラのもので、ルドラの思うことは
アグニのものなのだ。
ほぅ、とルドラはため息を吐いた。仕合わせに満ちた吐息だ。いつも何をするのも同じ半身の
アグニを、そして何より主の兄を出し抜いて主を一人(?)占めしていることが嬉しくて
ならない。こんな感情をルドラに与えたのは、他ならぬ主だ。
不意に頭上から、少し眠そうな声が降ってくる。
「ため息なんか吐いて、どうしたんだ?」
主が目許を擦っているのが気配で判る。ルドラはひょいと顔を上げ、腕を伸ばしても主の顔に
触れられぬことを不満に思った。しかし人型になれば良いと言うものでもない。主はルドラが
人型を取るのを良い顔はしない筈だ。主にそんな顔をさせたくはないルドラだ、主の腿をぺそりと
優しく撫ぜるだけで我慢する。
「これは仕合わせ肥りぞ、主よ」
心配無用、などとうつ伏せのまま言うルドラに、主の笑い声が降り注ぐ。
「何だ、そりゃ」
意味判んねぇ。楽しげな声がルドラをいっそう仕合わせにさせるのだと、主はきっと
知らない。
「好い心地ぞ、主よ」
うっとりと、呟く。ずっとこうしていられたら――――しかしそれは無理なことだと、ルドラは
よく知っているのだ。
「……良い度胸だ」
ほうら、ね。
ぽぅんと躰が空に向かって放り出される。ぶわりと吹いた風に乗って、流されるままになる
自身を止める術を、ルドラは持ってはいなかった。軽い躰が、子どもの手から離れた風船の
ように飛んでいく。
ルドラは声もなく、ただ主から遠ざかってことを憂いながら目を閉じた。
しばらくして、自身が落下していくのを感じても、ルドラはまだ瞼を塞いだまま、重力に
引かれるままになっていた。
ここはどこなのか。
アスファルトにまともに落下したわりに、衝撃も少なくぽよんと一度バウンドしただけで済んだ
ルドラは、身を起こして辺りを見回した。見たことのない景色、というよりも、ルドラには
アスファルトとコンクリートで塗り固められたまち並みはどこも同じような景色にしか見えない。
ルドラが外出をするときは、いつも主に付き従っているので、こんなふうに一人(?)で灰色の
中に放り出されるのは初めてのことだ。
(主……)
ルドラは唇を噛み、立ち尽くしていても仕様がないと駆け出した。
頼りはただ一つ。主の強い魔力の匂いのみだ。
ルドラが長い空の旅を経てようよう地上へ降り立った頃……
「あんなもの、放っておけ」
吹き飛んでいったルドラを追いかけようとするダンテを、あからさまに不快げに眉を顰めた
バージルが止めた。ダンテは二の腕を掴むバージルの手を振り払おうとするが、馬鹿力の兄は
それを許さず掴む手に力をこめた。
「っ……離せよっ!」
ぎりと掴まれて顔をしかめたダンテに、バージルはにべもなく言い放った。
「駄目だ。離せば奴を追うのだろう」
「追って悪ぃかよ! アンタがあいつを吹っ飛ばしたのが悪いんだろ!?」
激昂して叫ぶが、バージルの眉根に一本皺を増やしただけの効果しか得られない。
「何故追う必要がある?」
放っておけ。二度目の言葉に、ダンテは奥歯を噛み締める。バージルはよほど、先刻まで
ダンテの膝にへばり付いていたルドラが気に食わないらしい。ルドラだけでなく、アグニとも
全くそりが合わないバージルだ。あのぬいぐるみのような小鬼たちがダンテにくっついて遊んで
いるのを見咎めると、徹底的に小鬼たちを排除にかかる。バージルが飛び道具代わりにしている
幻影剣で、小鬼らが蝶の標本の如くはりつけにされたのは一度や二度ではない。
小鬼らは確かに毎度のように悪戯を仕掛けて来るが、ダンテにしてみれば可愛いもので、間に
入ってバージルを止めるのも良い加減うんざりなのだ。それが、また――――
「このッ……馬鹿兄貴!」
ばしんっ、と思いがけぬ程大きな音が響き、バージルは目を瞠った。驚いたのかバージルの
手が緩んだ隙を逃さず、ダンテはさっとバージルに背を向け事務所兼自宅を飛び出した。
「……実に良い音であったな」
「……黙れ」
そんな会話がなされているとは、ダンテは知るよしもない。
匂いを辿ってルドラはひたすら駆け抜ける。途中、何をか蹴り飛ばしたような気はするが、
ルドラの足を止めるには到らない。一秒でも早く主のところへ戻る為、ルドラは必死だった。
諸悪の根源は主の兄だ。ルドラをむんずと掴んで外へ思い切り放り投げたのである。地面に
叩き付けずあえて上空へ投げた意味合いは、「もう二度と戻って来るな」といったところか。
しかし諾々と受け入れる程、ルドラは投げやりではない。主の兄には現在負け続きだが、ルドラが
主を諦めることは絶対に有り得ない。
(いずれ目にもの見せてやろうぞ!)
走りながら拳を握り締めるルドラだが、突然目の前に現われた黒い壁に、ブレーキをかける間も
なく衝突してしまった。
「むぎゅっ」
奇妙にくぐもった呻きを上げてひっくり返ったルドラを、壁、ではなく背の高い男が首を傾げて
拾い上げる。ルドラに思い切りぶつかられたわりに、男のほうはほとんど痛みを感じなかった
ようだ。
「何だ、これァ……?」
目を回しているルドラをしげしげと観察するが、男にルドラの正体が判るわけもない。
そのうちルドラも正気を取り戻し、ぷるぷると頭を振った。そのさまをじっと見ていた男が、
まるでおもちゃを見つけた子どものように輝く。
「動いた! やっぱ生きもんなのか……」
へぇ……などと感心している男だが、ルドラにすれば知ったことではない。早く主のもとへ
戻る。それだけがルドラの頭を占めていた。
お喋りなルドラらしからず無言で男の手から降りようとするが、何故か男はルドラを捕まえた
まま、離そうとしない。
「おっと……! 待てよ、なぁ、お前って何なんだ?」
「我は主を守護する者。……離せ、人間。我は急いでいる」
まさか喋るとは思っていなかったのか、男が目をいっぱいに見開いた。が、
「すっげぇ! 喋るんだ、お前!」
もっと喋ってみせろ、などと上からものを言う男に、たいがい人間とは感覚のずれている
ルドラですら真っ当に苛立った。
「らちが明かぬ」
ぼそりと呟き、ルドラは男の指にがじっと噛み付いた。喋っていても開いたことのない口が
ばくりと開くと、並んだ歯は皆ぎざぎざに尖った牙なのだから噛まれた男は堪らない。ぎゃっと
悲鳴を上げ、男はルドラを放り出した。ルドラは「したり」と口を閉じ、猫のようにしなやかに
躰を捻って地面へぺそりと降り立った。競技であれば満点を得るかもしれぬきれいな着地を決め、
ルドラは脱兎の如く走り出す。「待てよ!」とまるで反省していない男が追って来るが、ルドラは
振り向くことはしなかった。
交差点を突っ切り、カフェテリアのテラス席の下をくぐり抜け、ルドラは走った。主の匂いが
近い。いまだに後ろから男が追いかけて来ているが、ルドラはその足音すら聞こえては
いなかった。
そして、駆けることしばし。
匂いが一段と強くなった。そう思った矢先、路地の角を曲がったところでルドラはまたしても
人という壁に激突した。そしてやはり、ぶつかった人物にひょいとつまみ上げられる。
「大丈夫かよ、ルド?」
耳慣れた声。ルドラは目を回したまま、自分を抱き上げた手にしがみついた。
「あうじ!」
酔ったように舌が回らない。くすくすと笑う声が降り注ぎ、頭を撫でられる。心地良さに目を
細めたルドラの頭をひとしきり撫で、主が出し抜けに問うた。
「……で、こっちはどちらさん?」
ルドラが見やると、先刻の男がぽかんとして立ち尽くしている。しかしルドラは、男のこと
などきれいさっぱり忘れてしまっていた。
「我は知らぬ」
きぱっと言い切ったルドラに異議を申し出たのは当然男だ。
「知らないわけないだろ。さっき俺の足にぶつかってきたくせに……」
「……とか言ってるけど、」
ルドラの主張は一貫して「知らぬ」の一言だ。おいおい、と呆れたふうに声を上げた男だが、
不意に、
「あんた……可愛いな」
全く脈絡もなく言い出したものだから、主がきょとんとするのも無理はない。意味が判らず
「は?」と眉を顰めた主に、男はずいっと詰め寄った。ついでに主の肩を抱くようにしたもの
だから、あまりの不躾さにルドラはむっとした。
「主から離れよ!」
「へぇ、こいつの言ってたご主人てのはあんたのことか。ふぅん……なるほどね」
男は舐めるように主の顔をじろじろと見、にやにやしている。離せ、と主が邪険に睨み付けても
平然としているのだから、意外に肝は据わっているらしい。たんに鈍いだけかもしれないが。
そもそも、主は可愛いという形容詞が似合うような体躯でもなく、顔立ちも端正ではあれど
愛らしさとは程遠い。それを可愛いと言ってしまえるのだから、やはり感覚がずれていると
考えるのが正しいようだ。
「なぁ、あんた、暇? 今からどっか遊びに行こうよ」
慣れた調子でナンパを始めた男に、キレたのは絡まれている主ではなくルドラのほうだ。
「下郎が、主に触れるな」
低い、嗄れた声音に初めてぎくっとした男の頭を何かが鷲掴みにし、主から引き剥がした。
「なっ……、ぐぅっ!?」
驚いた表情のまま、男の躰がアスファルトの上にくずおれる。背後に回った何者か――――
ルドラが、男の腹に拳を見舞ったのだ。むろん小鬼の姿では不可能で、ルドラは怒りに任せて
人身に変化をしている。
「主に触れるなど、我が赦さぬ。――――大事ないか、主よ」
「あ? あぁ……お前、は……」
「我はこの通りぞ。それよりも、こやつ斬り刻んで構わぬか、主よ」
ルドラの伺いに、主ははっとしたように目を瞠り、駄目だとルドラを睨んだ。
「冗談でも許さねぇ」
ルドラは「相判った」と渋々頷き、主の手を取ろうと厚みのある手をそっと伸ばす。しかし
それに気付いた主が、ルドラの手が触れる前に躰ごと逃げてしまう。ルドラは何故と問おうと
して、はたと気付く。何故も何もあるものか。自分が小鬼でも剣でもなく、人型をしているからに
決まっているではないか。
伸ばした手をそろそろと引っ込め、ルドラはうなだれるように息を吐いた。そうすると、
みるみるうちに躰が縮み、子どもの膝にも達しない小さな碧い塊となってぽふりと地面に落ちて
軽く跳ねた。人間でいう尻餅をついた格好で、主のほうを見るでもなくもそりと呟く。
「礼がまだであった。……我を追って来てくれたのだな、主よ」
「あ、あぁ……」
「我は嬉しいぞ、主よ。かように嬉しいと感じるのは、主と巡り逢ったとき以来であるな」
暗い塔での邂逅は、いまだルドラの記憶に新しい。主にとっては何ということもない出来事
だったかもしれないが、あの邂逅がルドラはもちろんアグニの生を変えたのだ。
あれから、彼らは決して主の不快になることはしないと決めた。だからルドラは、余程のことが
ない限り人身を取ることはしない。小鬼の姿は気に入ってくれた主だけれども、人型にはきっと
良い顔はしてくれないだろうから――――
俯いたルドラを、ふと主が抱き上げた。ひょいと肩にルドラを乗せ、銀色の髪をくしゃくしゃと
掻く。
「……帰ろうぜ」
こいつが起きないうちに。
ルドラは主の肩にしがみついて頬だけでなく全身をすり寄せ、こくりと一つ頷いた。
長い一日の終わり――――ダンテはバージルを近寄せずにソファーに座るなり横になって眠りこけ、
碧い小鬼はダンテの肩から腕の中に移動して、同じく安らかに寝息をたてた。そのさまを殺気を
込めて睨む一人と、羨ましそうに指を咥えて眺める一匹の姿があったが、彼らはまるで気付かず
寄り添ったまま眠り続けていた。
ルドラ話でした。とりとめがない…