深海フカミ











目覚めは暗く、まるで深い沼に沈み込んで行くかのように……







見慣れた天井をぼんやりと見上げ、ダンテはもう幾度目かも知れぬため息を漏らした。綺麗とは 言えぬ天井の白をこうして見上げ続けて、幾日になるのか。窓は分厚い布で覆われて、陽の光を全く 遮っている為、ダンテはまるきり時間の感覚をなくしてしまっていた。
気が付けば、ベッドに仰向きに寝かされていたのだ。その前は確か事務所にいた筈だけれども、 いつの間に部屋に運ばれたのか、ダンテの記憶には綺麗さっぱりないという状態だった。その所為も あって、本当に今がいつなのか、ダンテはまるで見当も付けられないでいる。
もっとも、今がいつの何時なのかが判ったところで、この状況が変わるとは思えないのだが。

布で隠された窓。ドアは外側から施錠されていることをダンテは知っている。異常はそれだけに 止どまらず、ダンテ自身にも及んでいた。
両の手首をひやりと戒める、冷たい鎖。長さのあるそれの端はベッドの左右の脚にそれぞれ巻き 付けられているらしく、たわんでいるもののダンテに身を起こすことは許さない。躰をずらせば枕を 尻に敷く格好で座ることも出来るが、やはりベッドから離れられるわけではないので、三度目からは 体勢を変えるのも面倒になって仰向けのまま天井を見上げている。血が背中のほうに溜まっている ように思うのは、気の所為ではないだろうが。

いつまでも天井ばかり見上げていれば、そのうち気も狂おうかというもの。ダンテは虚ろな目を 天井から剥がし、ドアのほうをちらと見やった。鍵が開き、あのドアノブが回るのは今日はいつごろ だろう。この部屋に訪れる唯一の変化を、ダンテは待っているわけではないのだけれども。
待ちたくない。本音を露呈してしまえば、そうなる。理由は簡単で、ただおそろしいのだ。ドアが 開き、この暗い部屋に訪れるもう一つの変化が現われることが。
しかしダンテのおそれなどあちらには拘わりのないことで、日に何度か、それはダンテを訪れる。 そうしてダンテのおそれを、絵の具を幾重にも重ね塗りするように色濃くしていくのだ。

「…………」

ぱくりと口を開いたものの、声は出ない。ひゅうひゅうと空気の漏れる音がするばかりだ。喉が 潰れているのだから、言葉を紡くことは難しい。しかしダンテは、この開けた口で何の言葉を 織ろうとしていたのか、判らなかった。仕方なく口を閉じ、かさかさになった唇を軽く噛む。

判らない。何もかもが。

何故ベッドに縛りつけられているのかも、ダンテには判らないでいる。いや、理由は訊いた。 答えも貰いはした。しかしダンテは理解しなかった。貰った答えに理解はおろか、納得など出来る わけもなかったのだ。だからダンテには、こんなふうにされる理由が“判らない”。
判ることは、一つきり。この部屋から、このベッドから、自分は離れることが出来ないという こと。それだけだ。

(……、……)

茫洋とした思考は、このところろくに眠っていない所為だ。そうしようと思って睡眠を怠っている のでは、決してない。眠らせて貰えないのだ。たとえ隙を見てうとうととしかかっても、どこぞに 監視用のカメラでも置いてあるのかと思う程、きっちり眠りに落ちる前に起こされてしまう。それが 続くものだから、ダンテはほぼ不眠の状態なのだ。

――――眠ることは赦さぬ。

厳しい声は冷たく、感情というものを感じさせない。部屋に閉じ込められたことに対しては 「何故」と問うたダンテであったが、眠るなという言葉には同じように問うことは出来なかった。
眠りの先に訪れるものを、ダンテは知っている。それを阻む為には、眠りそのものを阻むしか 方法はない。理不尽で乱暴なことこの上ないが、ダンテは黙ってその暴力を受け入れた。

アンタはどうなんだ。そう、問いただしたい気持ちは多分にある。しかし、問いを口にした ところで何の解決にもならないことは判っているのだ。
解決。違和感のある言葉だ。ダンテは口端をちょっと吊り上げ、自嘲した。今さら何を解決しよう というのか。答えなど既に出ていることであって、今さら、別の解答を得られるものではない。 ダンテはその答えに準じるかたちで、自らも選択をしたのだから。

今さら。今さら、何を。

「はっ……はは……あははは……っ」

笑いがこぼれる。笑うしかなかった。何とも滑稽で、馬鹿馬鹿しくて、おかしくてならない。
目に涙まで溜めて、ダンテはしばらく笑い続けた。その不自然な笑い声に気付いたか、鍵が回る がちゃりという音がしたのは程なくのこと。ドアを開けて顔を見せたのは、ダンテをベッドに縛り 付けた張本人だ。

「……気が狂ったか」

眉間に皺の寄った、見慣れた顔を見ても笑いを治めることのないダンテへ、低い声がぼそりと 言った。気狂い。そうだろう。狂っているのだ。もう随分前から、ずっと。しかしそれは、ダンテ だけに言えることではない筈だ。
ダンテは足音もなくベッドのそばに近付いた男を見上げ、笑みを見せた。

「ははっ……それは、アンタもだろ?」

不敵、不遜。ダンテは己をよく判っている。どんなときでも、自分というものは蝋で固めたように 崩さない。もっとも、火となるものにかかってしまえば、判らないが。

ダンテと瓜二つの顔立ちでありながら、全く違った雰囲気を纏う男が笑みの欠片もなく 「そうだな」とこぼした。
今さらだ。そう言った声が聞こえた気がして、ダンテはにっこりとする。狂っている。彼らは ともに、正気のまま狂っている。いつからそうなったのか、まるで覚えてはいないけれども。

「なぁ、」

呼ばわる。バージルという、半身の名を。自分の発した声、紡いだ言葉が何故だか妙に久しぶりに 聞くもののような気がして、ダンテはまた笑った。

「ふふ……あははっ……」

ベッドの端に膝を乗せた双子の兄は、ダンテをさも気味の悪いもののように見下ろしている。 その蔑みのこめられた視線を受け止めて、ダンテの喉はまた笑い声をもらす。



腰から下の感覚は既にない。ひっきりなしに喘いでいた喉はひりつき、嗄れてもはや声を出す ことなど出来そうもない。掠れきった喘鳴が、疲れ果てたダンテの体力を底まで搾り尽くそうと している。
もはやシーツを掴むことはおろか、手を握ることも容易ではないダンテを、バージルは飽きもせず 犯し続けている。一分の容赦も見せない突き上げに、ダンテは自分はこのまま死ぬのではないかと ふと思った。
兄に抱き潰されて死ぬ。悪魔に殺されるのとどちらがましだろうか、考えるとダンテの口許に 笑みが浮かんできた。

「まだ笑う余裕があるらしい」

冷たい声音に反射的にぎくりとする。夜毎夢の中で聞いていた、あの幼いが故の残酷な言葉たちを 思い出す。今ダンテを揺さぶり貪っているのは、紛れもなくダンテの兄だというのに。
一際深く奥を突き上げられ、粘膜を抉られるような感覚にダンテは眩暈を覚えた。痛いのか、 苦しいのか、それとも気持ちが良いのか、ダンテには判らない。

「ぁ……あ、っ……」

がくがくと躰が痙攣する。自分では止めようがなくて、ダンテはある種の恐怖を感じた。律動を 作り出すバージルへは、何故だか感じることのない“恐怖”――――その理由は、無意識の内だが 判っている。この、行為だ。
バージルが自分を抱く。潰すような荒っぽいやり方であろうが、ダンテには嬉しく思わずには おれない。だってバージルは、自分を抱いてくれるのだから。理不尽な暴力じみた抱き方だから 何だと言うのか。自分はまだ、バージルにとって性慾をぶつける相手となれている。それが嬉しく ないわけがなかった。たとえ、バージルの目が他の誰かを見ているとしても。

「ぁ……ひ、ぅ……っ」

バージルがダンテの内に精を吐き出した。どくん、と腹が波打つような衝撃に呻き、しかし ダンテは吐精をするふうもない。散々に責め立てられ、本意不本意に関わらず何度も達したダンテの 陰茎は、もう雫をこぼすことも出来ないでいる。出すもののない射精はつらいばかりだ。ぴりぴりと 先端が痺れる。ダンテは双眸に涙を滲ませた。
つらそうな表情をしていても、バージルが容赦をすることはない。余韻を愉しむこともせず、 達したばかりだというのにすぐさま腰を進めてくる。頭の後ろを殴られたような嫌な頭痛に眉を しかめた。

「まだだ」

短い言葉とともに、頬をしたたかに打ち据えられる。ダンテの意識が遠のきかけたのを、機敏に 察したのだ。こんなふうに、バージルはダンテが気を失うことすら赦すことはない。眠るなど、 もっての外だった。

「こちらを向け。目を閉じるな」

何度聞いたか判らない言葉を、また耳に吹き込まれる。冷たく厳しい言葉でありながら、どこか 奇妙な甘さを含んだ声音に、ダンテは脳が痺れるような感覚に陥った。それでも意識を保っている ことは難しい。もうどれ程不眠ですごしているか、判らぬのだ。いかに人ではない血がその身に 流れていると言えど、半分は間違いなく人間なのだから、限界があって当然だ。
しかしバージルは、ダンテを解放しようとはしない。ダンテが心身ともに限界に達していること に、気付かぬような兄ではない筈だ。けれどもバージルは取り憑かれたようにダンテを犯す。 ダンテの瞼が落ちたと見れば、加減もせずに頬をぶつ。堪らなかった。

「ぅ……はぁ……は……ッ」

耳に届く不快なばかりの嗄れた呼吸の音だけが、ダンテにまだ己は息をしているのだと知らせて いる。バージルが肉を穿つ生々しい音と衝撃は何故だか遠くに感じて、ダンテは知らぬ間に涙を こぼしていた。

(バージル、バージル)

ぱくぱくと唇が動くだけで、兄の名を呼ぶことは出来ない。ダンテは心のなかで何度も何度も 兄を呼ばわり、懸命に腕を動かそうとした。しかし手首に鎖が食い込むばかりで、思うままに ならない。涙はいっそう流れ落ちる。

「ぜぇ……ぜぇ……」

嫌な喘鳴は漏れるというのに、兄の名が何故紡げないのか。焦れた所為か息が荒くなる。 (バージル)声にならぬ声で呼ばわったとき、

「煩い。少し静かにしろ」

バージルの節の高い指が、掌が、ダンテの首を無造作に押さえ付けた。息が、止まる。瞼を 下ろしたわけではないというのに、ダンテの視界が黒く染まっていく。

「……ばぁじる……」

その声は少し舌足らずだったけれども、驚く程はっきりと、ダンテの笑みを浮かべた唇から こぼれて落ちた。



総てが黒く塗り潰される寸前、兄の秀麗な面立ちに微笑があるのを、確かに見た。













「よぉ……久しぶりだな」

便利屋の戸を開け、中にいたものにそう声を掛けたのは、情報屋兼仲介屋のエンツォだった。 黒檀の机には、見慣れた顔。しかしエンツォはこの男に対するのを、心底苦手としている。
男はエンツォになど目も呉れず、冷えきった声音だけを投げて寄越した。

「何か用か」

用があるからわざわざ来たのだと、言いたいのを何度抑えれば良いのだろう。エンツォはこの ときも喉まで出かかった言葉を飲み込み、手短に用件だけを伝えることにした。余計なことは 一切口にしない。それだけが、この冷酷な男との唯一の平和的な付き合い方だということを、 エンツォは嫌という程知っていた。

「……話はこれだけだ。よろしく頼むぜ」

数分あまりの一方的な“会話”を終え、エンツォは早々と踵を返す。長く止どまっていることが、 エンツォには耐えられないのだ。いや、エンツォでなくともそうに違いなかった。
昼間ですら薄暗い路地に出て歩くことしばらく。事務所が完全に見えなくなったところで、 ようやくエンツォはほうと息を吐いた。

「くそっ……」

悪態を吐くその表情には、やり切れぬものが浮かんでいる。





情報屋の去った事務所――――男は膝に抱いたものを優しく撫でた。銀髪碧眼の見目人形めいた、 体躯はほぼ男と同じという青年だ。その双眸は何を映すでもなく茫洋として、口許にはあるか なしかという笑み――――髪を撫でる男の手が気持ち好いとでもいうような表情で、しかし、その 指先すらぴくりとすることもない。

男は彼の髪を梳き、時折唇で触れなどしながら微笑を浮かべている。



夢はもう、見ることはない。



















戻。


夢ものはこれでひとまず完結です。
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。

[07/12/5]