嫉妬
さっと黒いものが前を通り過ぎる。バージルの知る限り、東洋の言い伝えによればそれは不吉な
ことであった筈だ。バージルは秀麗な面立ちをしかめ、その黒い塊を睨んだ。それは全身短い毛に
覆われた、黒い猫である。
ダンテがある日拾って来た黒猫は、それ依頼この家に棲みついた。つまりダンテの飼い猫という
ことになるのだが、ダンテは“飼う”という言葉がぴんと来ないらしく、首を傾げている
始末だ。
猫は人ではなく家につくと言うが、所詮飼われていることに違いはない。バージルにとって、
その黒猫にはあまり好意的になれないのが実情であった。かと言って、捨てろ、とダンテに言った
ことはないバージルであるが。
猫や犬といった生き物は、人間よりも異形の臭いに敏感に出来ている。バージルとダンテの躰に
流れる血は、半分が悪魔のそれだ。外見こそ人間と変わらぬ容姿をしているが、五感などの総てが
人間のものとはかけ離れている。普段は人間らしく振る舞っているからこそ、人間から見た彼らは
人にしか見えないのである。しかし犬猫などは、人間では気付かぬ臭いに聡い。
ダンテの拾った黒猫は、バージルから見て通常の猫とはまた違うようだった。初めに抱いたのは
直感的な疑惑だったが、それが確信に到ったのは間もなくのことである。
ダンテは黒猫の正体には全く気付いていないようだ。あくまで猫としてしか見えていないのは、
ダンテが鈍いからかなのか、バージルにはよく判らない。しかしダンテはそれで良いのだろう、と
思い納得している自身に、バージルは苦笑してしまう。
何も知らぬまま、異形に近しい猫に“主人”と定められたダンテ。おそらくあの猫は、ダンテか
自身が死ぬまでダンテから離れぬだろう。契約とはそういうものだ。例外は、ダンテには何の自覚も
ないということ――――異形が自らの意志のみにより契約を結ぶなど、有り得るのだろうか。判らない
が、少なくとも黒猫との契約によってダンテに負担がかかっているようには見受けられぬ為、半ば
放置してある。
ダンテは何も知らない。知らしめる必要はないと、バージルは思っている。
黒猫と睨み合うこと数秒。猫の脚が不意に床から離れて浮かび上がった。猫が宙を飛んだのでも
なければ、跳ねたわけでもない。毛玉の塊のような猫の腹を、上から抱き上げた手があるだけの
ことだ。
「何見つめ合ってるんだ?」
間の抜けた声は、むろんダンテのものだ。
睨み合っていたものをどうして見つめ合っているように見えたのか、バージルはしかし追求する
ことはない。ダンテを見やり、その手の中に大人しく納まっている猫に一瞥を呉れ、バージルは何を
言うでもなくダンテに背を向けた。無視をした形になったが、バージルにその自覚はない。ただ、
自分がここに立ち止まっている意味などないことに気付いただけだ。
バージルの背に、ダンテがひょいと声を投げた。
「どこ行くんだ、バージル?」
後を追って来る足音に、バージルは内心肩を竦めつつ答えてやった。
「……買い出しだ」
銀髪碧眼の、雰囲気こそ違えど明らかに一卵性と判る見目秀麗な双子が並んで歩いていれば、
嫌でも人目を惹く。道行く人間は男女関係なく双子に視線を送ってくるが、バージルは周囲の
人間など、いていないものときれいに斬り捨てている為、居心地の悪さを感じることはない。
一方のダンテはと言えば、何がそんなに嬉しいのか、上機嫌に鼻歌など口ずさんでいる。その
素振りからは、周囲の視線を気にしているようには見られない。
バージルは黒い開襟シャツと同じ黒の革パンツに青いトレンチコートという、着る者を選ぶ色を
すんなり着こなし、ダンテは白いシャツとジーンズに縁をファーが飾ったフード付きの紅い
ロングコートを羽織った出で立ちである。対照的な色合いと雰囲気を持った二人だが、一種の
絵画めいた不思議な調和がそこにあり、他者を寄せ付けない。
目立つ双子は、ある意味で彼らだけの世界を作ったまま、ありふれたスーパーマーケットに
入っていった。
余所見をするな、とバージルはきょろきょろと忙しなく首を巡らせているダンテに言い、首根っこ
を掴んで引き寄せた。ダンテは痛いだの苦しいだのと訴えながらも、その表情には笑みがある。
「なぁなぁ、あれ買ってくれよ、あれ」
まるでお菓子をねだる子どもだ。大差はないが、とバージルは思いながらダンテを見やるでも
なく言った。
「好きにしろ。ただし、一ダースまでにしておけ」
いつもならば、嬉々として飛んで行くダンテだ。しかし今日はどうしたというのか。バージルは
ダンテの足音が自分の後ろから離れずついて来ることに気付き、足を止めた。
「……どうした」
振り返れば、ダンテが妙に所在無げにこちらを見つめてくる。バージルには、ダンテが何を
したいのか、何を言いたいのかなど判るわけもない。
「何だ」
「え、や……べつに? ほら、まだ途中だろ? 早く済ませちまおうぜ」
わざとらしく急かすダンテに、不審を抱くなというほうが難しい。バージルが眉を寄せると、
ダンテは焦ったようにバージルの手から買い物かごをひったくった。
「なぁ、早く」
促すダンテに、乗ってやるバージルではむろんない。
「待て」
ダンテの首根っこを掴み、猫のように引っ張り寄せた。首が絞まったのか、ぐえ、とダンテが
呻くが気には留めない。この程度で死ぬくらいならば、これまでにもう何度死んでいるか
判らない。
「なにすんだよ……」
悪態にも力がないように思うのは、気の所為ではないだろう。バージルはダンテの顎を後ろから
掴んで無理矢理こちらを向かせ、バージルは息の触れる近さで囁いた。
「勝手なことをするなと、いつも言っている筈だが?」
う、とダンテが小さく呻いて視線を泳がせる。バージルはダンテの顎を掴む手に力をこめた。
「目を逸らすな。何を狼狽えている?」
「う……」
射抜くように見つめてやれば、ダンテはおどおどしながらも視線を合わせてくる。そもそも何故
ダンテがこうも怯えたような挙動なのかが、バージルには判らない。いったい何を考えているの
やら……
「ダンテ、」
外ではめったに、互いの名は口にしない。しかしバージルは彼らだけの決まりを今だけは破った。
ダンテの耳に唇を寄せ、彼にしか聞こえぬ程の小さな(弱いとは違う)声で。ぴくっとダンテの肩が
跳ねる。
繰り返しになるが、バージルは周囲の目というものを一切気に留めない性格の持ち主である。
子どもの頃から、バージルは無意識にしろ意識的にしろ、触れたいときにダンテに触れてきた。
幼い頃に形作られた性格というものは、歳がいったからといって変わるものではない。
バージルはある意味、誰よりも自由な人間だ。そうでなければ、スーパーの真ん中(もちろん
買い物客は少なくない中)で、双子の弟をほとんどキスしているのと変わらぬ距離に引き寄せる
ことなど出来るものではない。そしてダンテも、基準から言えばバージルに近い感覚の持ち主で
ある。
「な……何だよ……」
思いがけず弱い声が出てしまったらしく、ダンテが顔をしかめた。しかしバージルはダンテ以上の
しかめっ面である。
「それは俺の科白だ。まだ隠すなら、……」
ここで犯すが、どうする。
息だけの囁きに、ダンテがぎくっと躰を強張らせた。次いで顔を真っ赤に染める。
「こ、こんなとこで何言って……!」
「冗談と思うなら、好きにしろ」
むろん冗談などではない。周囲の目を全く気にせずにおれるバージルではあるが、自分たちに
注がれる視線に気付いていないわけでは決してない。今も、遠巻きにこちらを伺う視線がいくつも
あることだけでなく、バージルはその数まで把握しているのだ。しかしそれらはバージルの行動を
制限する要素にはなり得ない。むしろダンテを追い詰める要素として利用した。
ダンテは顔だけでなく耳や首筋まで赤く染めてバージルを睨むが、それも少しの間のことで
しかなかった。
「……手、離せよ」
逃げないから、と。懇願するように言うダンテの双眸には、諦めの色が混じっているように
バージルには見えた。実際そうなのだろう。バージルが無言のままダンテの顎から手をどけて
やると、ダンテは痛いわけではないだろうがバージルの掴んでいた箇所を指で撫でさすった。
互いの距離は、ほとんど変わらない。
妙な沈黙を破ったのは、やはりダンテだ。
「あと、何買うんだ?」
「……パスタと、あとは缶詰と野菜をいくつかというところだ」
ふぅん、と何を納得しかのか判らぬが呟くダンテに、バージルはあくまで沈黙を守る。
「俺のは、最後で良いから」
ダンテが先刻、子どものように買ってとねだったもの――――それを後回しにして良いと言う
ダンテだが、その真意はどこにあるのか。バージルが眉間の皺を深くしたことに気付いたか、
ダンテは言いにくそうに口をもぐもぐさせた。
「……せっかく、その、一緒に来たんだから……」
「……それは、つまり」
別行動を取りたくない、と。そういうことなのだろうか。
恥ずかしそうに俯いたダンテを見れば、バージルの推察が正しいことは確認するまでもなく判る。
ただ納得のいかないことは残るわけで……
「何かあったのか?」
ダンテがバージルの買い物について来ることは、そう多くはないが珍しいことでもない。あれが
欲しい。では取って来い。そんなやり取りも珍しくないし、いつもならばダンテは喜んで自分の
欲しいものを取りに行くのだ。それが、今日に限って――――不審に思わずにいるなど、出来ること
ではない。
「べつに……」
口ごもるダンテの髪を、バージルはくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「なんだよ」
「理由は後からゆっくり聞いてやる。今は買い物が先だ」
新しい疑問が生まれたとはいえ、一つ目の疑問は解消されたのだ。いつまでもここに突っ立って
いたところで、何も始まらない。
バージルはダンテの手から買い物かごを取り上げ、「来い」と短く告げる。反応を見もせずに
歩き出して数秒後、慌てて後を追ってくる足音が聞こえ、バージルは傍目には何ら変化の見えない
程度の薄い笑みを浮かべた。
スーパーマーケットから出てすぐに、バージルは視界の端に黒い塊を捉えて眉を顰めた。
その黒いものはバージルには見向きもせず、たっとアスファルトを蹴ってバージルの斜め後ろに
いるダンテの肩に飛び乗った。
「あ?」
間の抜けた反応を示したダンテに対し、猫が一つ「にゅう」と鳴く。
「なんだよ、ついて来てたのか?」
猫は答える代わりに甘えるようにダンテの頬に鼻面を押し付ける。ダンテが猫の首を掻くと、
目を細めて喉をごろごろ鳴らした。
バージルがそのやり取りを快いとは思わずに眺めていると、不意に猫が顔をこちらに向けた。
「にゅう」
まるで挑むような目だ。バージルは片方の眉をちょっと吊り上げた。ダンテを主と定め、
付き従う黒猫。およそ尋常の猫ではないこの黒い塊を、バージルは快いとは思わないけれど、
追い出そうとしたこともなかった。
もし猫がダンテに危害を加えるつもりであれば、容赦なく斬っているところだが、その心配は
一切ないということをバージルは知っている。
(これに使い魔とは、似合わぬことだが)
しかもダンテには、この黒猫と契約を交わしたという自覚がないのだから話にならない。
バージルが内心で肩を竦めていると、ダンテが唐突にバージルの右腕にしがみついてきた。
「何だ」
人目を気にしろ、とはバージルは言わない。ダンテは何故か不貞腐れたような表情でバージルを
見、べつに、と的を得ないことをぼそりと呟いた。バージルはふっとため息を漏らし、ダンテの
したいようにさせてやる。要は、放置した。
ダンテの右肩には黒い猫。
目立つ双子は周囲の目などまるで気に留めず、自宅に辿り着くまでぴったりと寄り添って
歩いた。
ダンテが欲しがったのは、春なら苺。
季節外ならトマトジュースかな。