欠彩カケタイロ









声が聞こえた気がして、彼は振り返った。けれどそこには誰の姿もなく。――――何もない真黒が、 ただ拡がっている。






月が紅い。血を浴びたような禍々しい色味を帯びた月を、男はもうどれ程見上げているだろうか。 地上から離れたビルの天辺、屋上のぐるりを囲むフェンスの外側に、男は無造作に座り込んでいる。 もし地上から男の姿が視認されれば、必ず警察ないしレスキューに通報が行っただろうが、それも ない。男は正しく孤立していた。
そもそもこの世界とは繋がりの持てぬ身だ。人間が大きな顔をしてのさばるこの社会に、人間を 食らって生きる異形が受け入れられるわけもない。異形のものにとって人間はひどくひ弱な生き物で あり、餌でしかない。故に異形は常に人間の敵であった。

男もまた、人間を餌としてしか見ていない。だから腹が減れば人間を狩り、食らう。人間が家畜を 屠って食らうのと、違いはなきに等しい。食わねば死ぬ。それは生きるものの宿命だ。

紅い月が不意に、雲に隠れた。男は舌打ちし、黒に塗り潰された空を睨む。地上には煌々とした 明かりが満ちているが、上空には月より他に光源がない。男は明かりがなくなったことに苛立った のではなく、月が見えなくなったことに不快を覚えたのだ。

餌を狩りに行こうか、少し迷う。腹は程々に減っている。が、億劫だ。腰を上げて地上に下り、 狩りをするだけのことが、何故かひどく面倒なことに思えてならない。
一日二日、食べずとも死ぬことはしない。べつに構わぬか、と男はあっさり狩りを放棄した。

面倒だ。何もかも。

食らうことは男にとって最も強い本能である筈だ。それを面倒と言い、一時的にとはいえ放棄 する――――それが果たして何を意味するのか、男が知るわけもない。





振り返ったそこには、闇が大蛇のようにとぐろを巻いている。





びちゃ、と水ではない液体が飛び散る音が耳に届いた。聞き慣れた音――――鼻をつく鉄錆の臭いに、 男は器用に片方の眉を上げた。
男と同じ異形が人間を襲っているのではない。下等なものは人間には判らぬ類の音を常に発して いるものだが、それを察知出来ない。万一上位に在るものだとすれば、夜陰に紛れるようにして 人間を狩ることはしないだろう。人間を食らうよりも、ひたすら殺戮することを好むものが圧倒的に 多いのだ。

ならば、ひとか。

人間は己自身を含めた人間を殺す。加害者にも被害者にも哀れみなど感じないが、無為なことだと 男は思う。

血の臭気が充満した暗い路地には、果たして男の予期せぬものが今まさに兇器を納めたところ だった。
キン、と小気味良い(聞き覚えのある)金属音が響く。左手に鞘を、右手に柄を握ったその 人物は、どす黒い緋に囲まれて整然と立っていた。路地に抜ける生暖かい風に翻る、薄手のコートは 暗がりの所為で黒にも見える。が、それが蒼だということが男には判った。

「貴様、」

静寂を破ったのはどちらだったか。青いコートの男の、剣の柄を握る手に力がこもるのが判る。 男は目を細め、じりと腰を落とす。武具の類を一切用いない男の、武器と言えば己の肉体、そして 今はしまってある背中の翼のみだ。
闇に属しながら眩い光を放つ翼を持つものは、広い魔界に在っても男しかいないだろう。闇と光。 醜さと美しさ。両極その身に有する男は、それ故に魔界でも特異な存在であった。

青い者が右脚を前にし、躰の左を引くように剣を構える。居合いという東洋の剣技を、この男は 得手とする。その技をもって一度殺された記憶のある男は、ふんと小さく鼻を鳴らした。

「人間の共食いなど、面白いものではないな」

「……生憎、貴様程悪食ではない」

淡々とした物言いだ。自分が殺した人間の成れの果てを、一顧だにしない。意志の強さがそう させるのか、それともただ冷酷なだけなのか、男には判る筈もなく、また興味もないことだ。
遭遇したからには、何もなしで立ち去ることは出来ない。両者は既に臨戦態勢だ。無傷では 済まないことは当然だった。

地を蹴ったのは、青い者が先だった。ちらと銀の煌めきが見え、剣を抜こうとしているのだと 知れた。男は初撃を避けるべきか半瞬考え、さらに半瞬のちに上空へ跳んだ。宙返りのように躰を 捻り、視界の先では路地を挟む両の壁が無惨に抉られていた。もし横に跳んでいたならば、青い者が 繰り出す無数の斬撃の餌食になっていただろう。
以前受けたそれよりも遥かに鋭さを増した刃の乱舞を、今まともに受ければただでは済まない だろうことを、男は本能で悟っていた。
宙で反転した男を、青い者は逃さず捉えている。鞘に収まっていた剣が凄まじい速さで抜かれ、 閃く。宙に浮かんでいる状態の男には、どこにも逃げ場はない。しかし男の表情に焦りはなく、 むしろ愉しげな笑みすらある。

暗がりにすら煌めく刃が鼻先にまで迫った瞬間、男は両手を広げた。ばさりという音と同時に、 男の背に光を湛えた翼が四枚現われる。青い者が一瞬目が眩んだように顔をしかめた。翼がふわりと はためき、膜を作るかのように光が男を包む。場違いな程の眩さだ。

青い者の剣は光の膜に阻まれ、男には届かなかった。低い舌打ちが聞こえるのと、男の足が地面を 踏んだのとはほぼ同時。既に青い者は男との間合いを詰めるべく地を蹴っていた。

「そう来なくては」

男の声は我知らず弾んでいる。愉しい。掛け値なしにそう思った。
自らを襲う細い刀身を素手で掴み、男はくっくと声に出して笑った。

「随分ましになった。余程、腹が立っていると見える」

この場にはいない片割れを、男は凌辱した。そのことに加え、先日の男自身にも不可解な出来事の ことを仄めかしてやれば、殺傷力すら持っていそうな双眸がこちらを見据えた。青い者の双眸は 凍て付いた氷のようだ。造りは同じでも、あの赤い者と性質はまるで反対――――よく出来た 双子だ、と自然に笑みが漏れる。どういった類の微笑かは、男本人にも判らないが。

「二度とあれに近寄れぬよう、その頭もう一度ばらしてやる」

赤いほうとは違い、青い者には闘いそのものを愉しむという感覚はないのだろう。作業―――― おそらく先刻ここでひとが一人生を終えた際も、その言葉で片付けられてしまえるような 有様だったに違いない。
一切の無駄を省いた短調作業。殺人をも、この青い者にとっては何の感情もなく遂行される のだ。

まったく、赤いほうとは似ても似つかない。

青い者の剣撃を避けつつこちらも攻撃をしかけつつ、男はひそと眉をしかめた自身を不審に 思った。何を考えているのだ。ひとを飢えの本能によって狩る自分と、青い者と何程の違いが あるのか。しかもそれを不快と思うなど――――馬鹿げている。

がき、と鈍い音がした。男が青い者の剣を手甲で受け止めたのだ。男は人間の姿を取っては いても、造りには相違があり手足がその最もたるものである。ひとが纏う篭手よりも強固な腕は、 どんな刃ですら切り裂くことは出来ない。

遊びのない一撃に腕が痺れを訴える。これが赤いほうの斬撃だったなら、と考えようとして、 男はやめた。先刻の不快の理由が判ってしまったからだ。
男は赤いほうと青い者とを比べ、その差異に不快を感じていたのだ。青い者がひとを作業に よって殺すこと自体ではなく、赤いほうならばそんな真似は絶対にしないと比べ、青い者への 不快を覚えた。
まったく、愚かしい。自分を棚上げするとはこういうことを言うのだろう。何が不快だ。

(赤い方にしてみれば、俺こそが……)

思考を余所へやっていた男は、じくりと腕に痛みが走り現実へ引き戻された。間近には銀にも 見える蒼い瞳。青い者の剣が、男の腕に浅くめり込んでいる。

「上の空だな」

嘲るように青い者が言い、ぐっと力を込め男の腕を断とうとする。

「あぁ、貴様の片割れはどうしているかと思ってな」

青い者の双眸に炎に似た、しかしどす黒いものが宿るのを、男は見た。この青い者に遭遇するのは 三度目――――いずれのときも、こんな目をしていた。赤いほうが絡むと、この片割れは随分 表情豊かになるらしい。
余程入れ込んでいることは初めから判っていたが、こうもあからさまであると逆に面白くない。 赤いほうもまた、男がそうと気付く程にこの片割れに依存しているのだから、余計にだ。

腕にめり込んだ剣が、肉を断ち骨を食らおうとする。

「これから死ぬ貴様に、関係のないことだ」

まずは腕、それから頭蓋。低い声は殺気に満ち、常人であれば腰を抜かし失禁でもしてい だろう。しかし男は常人ではなく、また人間ですらなかった。

「クク……まだ甘い」

男はひょいと脚を持ち上げ、無造作に青い者の腹を蹴った。とん、と軽く脚を押し出すように しただけで、青い者の躰が吹き飛び剣もろとも、先刻青い者によって抉られたコンクリートに叩き 付けられる。

「ましにはなった。が、まだ青い。次は片割れと纏めて掛かって来るか?」

黙れ、と掠れた声が耳に届く。この辺りの強がり方は片割れと似ているかもしれない。

「今宵は戯れだ。貴様の片割れを喰ってやった時と同じでな」

くつくつと笑い、男は背中の翼をゆるくはばたかせる。待て、とやはり掠れた声が制止を促すが、 聞く義理はどこにもない。むしろ男は、この場から早く去らねばならなかった。
青い者が僅かに脚をふらつかせながらアスファルトを踏み締め、男を見上げる。男は既に、 六階建ての雑居ビルの天辺へ登ろうとしていた。

「いつまでそうしている。貴様の片割れにその有様、どう説明するつもりだ?」

「何?」

「もうそこまで来ているぞ。貴様を追って来たのだろうが……」

嘘を言っているのではなかった。青い者の片割れは確かに近くまで迫りつつある。しかしそれを、 青い者が気付かず男が先に気付くとは奇妙なことだ。
取るに足らぬ優越感を覚えながら、男は雑居ビルの屋上に上るとすぐにコンクリートを蹴って 隣のビルへ跳び移った。赤いほうの気配から、出来得る限り遠ざかりたかった。顔を合わせたく ない、とまったく幼稚なことを思ったのだ。あれと顔を合わせてしまえば何かが変わる―――― 変わってしまう――――ような畏れが、男にはあった。
男が、どういった理由であれたかだか人間(厳密にはひとではないが)を畏れるなど、今まで 有り得なかったことだ。

(どうかしている)

そうとしか、考えられない。

心底おかしいとは思うけれども、赤いほうの白い膚にぷつりと浮かんだ紅玉が、どうにも 忘れられぬことは確かだった。

どうかしている。

己の複雑な(けれど稚拙な)感情を、男はただ持て余すよりなかった。
互いに依存し合う歪な双子を、純粋に羨ましいと思っていることに、男は気付いていない。



















戻。



ベオにとある科白を言わせようとしたら、こうなりました。