彩果イロハハテ









ダンテは手首の痛みで目を覚ました。目覚めてみれば痛いのは手首ばかりではなく、そこら中が じくじくと痛みを訴えている。もっとも苦痛なのは縛られたままの手首というだけのことだ。 それも、腰から下は感覚そのものがない。まるで斬り落とされてしまったかのように。
寝返りを打とうにも、下半身が全く動かぬのではそれもままならない。ダンテは自分の手首を 見上げようとして、首をのけ反らせた。頭の上で一纏めにされた腕はじわじわと痺れている。

何故こんなことになったのか、思い出そうとするが思考はひどく鈍くて、頭痛すらするような気が してダンテは眉をしかめた。わざわざ思い出そうとするまでもなく覚えていることは、ダンテを “こう”したのは双子の兄だということ。

兄――――バージルは何故かひどく怒っていた。怒りの理由はおそらくあの男絡みで、しかしダンテに は、根本的にバージルの怒りの意味が判ってはいなかった。あの男を家に上げたことは、別段 バージルに隠しておこうとは思ってもいなかった。たんなる気紛れ――――ダンテの性格は バージルも判っている筈で、だからダンテはバージルにああも責められる理由が判らなかった。

確かに、ダンテはあの男に凌辱された。いつまでも引きずっているつもりはなくても、躰が忘れて くれないものはどうしようもない。忌むべき記憶だ。しかしあの男に触れられても――――抱き 締められたときはさすがに躰が強張ったが――――、ダンテは不思議な程平気だった。自分を 凌辱した男に「うちに来るか」など、平気でなければ口が裂けても言えぬだろう。

バージルはおそらく、そのことでダンテを責めたのだ。恥を知れ、と言いたいのだろうか。 この、ただですら清らかとは言えぬ躰を、これ以上穢すなど赦さない、と。そう、言いたいのかも しれない。

ダンテは唯一自由の利く眼球をきょろりと動かした。背中が痛い筈だ。床に転がされたままでは、 全身が痛くて当たり前である。頭上に見えるのはベッドの角だろう。せめてスプリングの効いた ベッドに寝かせてくれれば――――そんな希望を、バージルが聞いてくれるとはダンテも思っては いないけれども。
ため息が出る。バージルがこの場にいれば咎めるかもしれないが、嘆息せずにはおれない。

こんなことをしなくても、自分は――――いや、バージルはきっと何を言っても信じないに決まって いる。バージル以外の男(それも一人や二人ではない)に抱かれたことのあるような貞操観念の 低いダンテを、誰が信じるというのか。
潔癖なバージルの目には、きっと自分は汚れきったものに映っているのに違いない。

仕方のないことだとは思う。それでもバージルは自分を抱いてくれるのだから、仕合わせだと ダンテは皮肉ではなく思う。バージルの感情は、まだ自分の為に動いてくれる。それを仕合わせと 感じずにいられようか。

ダンテは無意識に微笑を浮かべた。その笑みには狂気が宿っていたが、無論ダンテは気付かない。 知らぬままに、狂っていく。それでも、ダンテは仕合わせなのだ。
捨てられることに比べれば、どんな仕打ちも堪えられる。――――仕合わせだと、感じられる。
自分が狂っていることなどとうに知っている。狂わずにはおれなかった。狂っていなければ生きて はいられなかった。バージルが姿を消していた一年間を、ダンテは抜殻のように過ごした。

傍から見れば、ダンテは好き放題生きているように思えただろう。命知らずで青臭い正義を貫く 若輩の便利屋――――命を狙われたことなど幾度もある。

ダンテには、兄のいない世界をどう生きて良いのかがまるで判らなかったのだ。便利屋稼業は、 元を辿れば兄が始めた仕事だった。
母が死んで、兄弟二人きりで生きて行かねばならなくなった彼らは、兄が収入を得ることで どうにか糊口を凌いでいた。自分も手伝うというダンテの申し出は、いつも兄によって却下され た。
兄の仕事が危険なものだということをダンテは知っていたし、だからこそ手伝いたいと願ったの だけれども、兄は頑として受け入れてはくれなかった。

結局、バージルが行方を眩ますまで、ダンテは自ら稼ぐことをほとんどしたことがなかった。 見よう見真似で便利屋を始め、初めての報酬は全て酒に消えた。次の稼ぎで派手な――――バージルが いれば顔をしかめただろう――――コートを買い、懐はいつも寒かった。それ以上に寒い心を 誤魔化す為に、馬鹿なことを何度もした。
あの一年間を顧みれば、今などはまるで夢のようだとダンテは思う。

狂わずにはおれなかった。ダンテはあまりにもバージルに依存しすぎていたのだ。いや、依存と 言うにはまだ言葉が足りない。ダンテはバージルの一部だった。バージルがいたからこそダンテは 世界に取り残されることなく、毎日変わらず息をしていられた。バージルはダンテの総てだった。

今も、根本的にその観念は変わっていない。しかしバージルの付属物であることを、ダンテは 無意識のうちにやめていた。独立した一個の存在として、双子の兄であるバージルの傍らに在る ことを望んでいるのだ。

ダンテがもう一つため息を落としたとき、こつこつという足音が耳に届いた。まず間違いなく バージルの足音だろう。ダンテがじっと見つめる先で、ドアノブがかちゃりと回った。現われた のは、やはりバージルだ。

「……頭は冷えたか?」

出し抜けに問われ、ダンテは眉を顰めた。バージルの言葉が一方的であることは、今に始まった ことではない。幼い頃は全く疑問に思わず受け入れていた自分が、当時何を考えていたのか、今は 不思議でならない。
ダンテは口端をちょっと上げた。

「その上からもの言う癖、どうにかならねぇのかよ?」

手首は変わらず痛む。しかし解いてくれと頼むことをダンテはしなかった。それこそ癪だ。 バージルに“お願い”するなど、誰が。
ダンテの態度に、バージルは苛立ちを覚えたのだろう。バージルのこめかみがぴくりと引きつる のを、ダンテは見た。

「その姿で吠えるのは結構だが、煽っているようにしか見えぬぞ」

「アンタにそう見えるんなら、そうなのかもな」

「……それで、奴も誘ったのか」

ダンテは顔をしかめた。違う、と。そんな真似するわけがない、と。訴えたところでバージルが 信じないことは判りきっている。バージルはダンテを信じない。それは言葉であったり、行動で あったり、その場の状況によりけりだが、バージルがダンテを信用することはまずないと言って 良い。それだけダンテがバージルの信頼を裏切る行為をしたのか――――やはりダンテには 判らない。

「するわけねぇって、言ってもアンタは信じないんだろ? なら俺はどうしたら良い?」

この恰好で、バージルの気の済むまで犯されれば良いのか。それとも戒めを引き千切り、 バージルを殴ってやれば良いのか。どちらも、解決にはならぬようにダンテには思えた。
最良は、バージルが自らこの戒めを解いてくれることだ。しかしそうはしてくれないことは、 ダンテには嫌という程判っている。

「なぁ、バージル……」

「黙れ」

こちらの言葉すらバージルは聞こうとしない。ダンテは唇を噛んだ。バージルのこの、横暴と しか言えぬ性格は生まれつきなのか――――自分が助長したのではないかと、ダンテには思われて ならない。

「お前は俺の言うままにしていれば良い」

それ以外のことは何も考えるな、と。当たり前のように戒めを強めるバージルに、ダンテはわけも なく泣きたくなる。どうして、と問うことすらバージルはダンテに許さないのだ。

(暴君、)

生まれ付いての王のような性格は、ダンテがどうこう言って直るものではなく、また自覚が ないだけにいっそうたちが悪い。

バージルはダンテの傍らに近付き、床に片膝をついた。見上げるダンテの視線は無視して、 赤く痣になった手首を掴む。びり、と痛みが走るが、ダンテは奥歯を噛み締めることで堪えた。

「痛いか」

白々しい問いだ。

「べつに?」

嘯くダンテに、バージルは低く鼻を鳴らした。面白くない、とでも言いたげに。

「まだ足りぬか……」

判らないことを呟くバージルを、ダンテはただ見上げているしかない。バージルは手をダンテの 首にやり、ゆるくなぞりように指の腹を添わせた。それだけでぞくりとしてしまう我が身を、 ダンテは忌々しく思った。
唇を噛んで不本意な快感に堪えるダンテから、バージルは不意に手を離した。え、と思わず きょとんとしてしまったダンテは、そこで初めてバージルと目が合い――――ぎくりとした。 バージルの目のあまりの冷たさに。

「バージル……?」

呼ばわるとほぼ同時に、手首を戒めていたもの――――革のベルトらしい――――がぶつりと 切られる。 バージルの手にはいつの間にか閻魔刀が握られていた。茫然とするしかないダンテに、バージルは 淡々と言う。

「好きにしろ」

突き離す言葉を、ダンテは理解出来なかった。惚けたようにバージルを見上げる。バージルは そんなダンテを哀れむように目を細めた。

「俺は何も言わん。お前の好きなようにすれば良い」

バージルは何を言っているのだろう。ダンテは子どものように目を瞬かせた。

「バージル、なんで……」

「これがお前の望みだろう」

望み? バージルに突き放されることが? ――――違う。ダンテが望むのはバージルと対等である ことであって、突き放されることではない。しかしバージルはもはや、ダンテの言葉を聞き入れない だろう。

捨てられる。――――また、だ。

「……嫌だ、」

搾り出した声は、平常であったなら情けなく思う程震えている。だがダンテには、それを気に している余裕などありはしなかった。

「バージ……」
ぱしん、と乾いた音が響く。ダンテは茫然とした。バージルが自分の頬をぶったのだと、 理解するまでにしばらくかかった。
バージルはダンテの赤くなった頬をまるで別人のような手つきで撫で、しかし何の言葉も紡ぐ ことなく立ち上がった。

振り返ることもせず部屋から出て行く兄の背中を、ダンテはぼんやりと眺めていた。



















戻。



途中、ちょっとした軌道修正がなされました。