羅刹
名を呼び、キスをしてやれば嬉しそうに破顔する。その笑顔が、好きだった。
机の上の明かりだけが灯った薄暗い部屋に、彼はいる。小さなベッドに手足を折り曲げて眠る
彼のそばに、バージルは静かに近付いた。苦しげな寝顔。夢を見ているのか、どうにもつらそうだ。
けれどバージルは知っている。これこそが夢であることを。
小さなベッド。綺麗な机。それぞれ二つずつ据えられたこの部屋は、かつてバージルと彼とが
使っていたものに間違いない。枕許のぬいぐるみだか枕だか判らない人形にも、確かに覚えがある。
あれは彼の、ダンテの気に入りだった。
古い記憶だ。この部屋に暮らしていたのは十年も前のことではないけれど、バージルにとっては
過去のことであり、こんなことでもなければ思い出すこともなかっただろう。掘り起こしたのは、
苦しそうに眠るダンテだ。
ダンテは待っている。自分ではない誰かを。他のどこでもなくこの部屋にいる理由は、その誰かが
ここの住人だからだろう。バージルと同じ名の、しかし幼い自分。
不快だと思う。ダンテが自分を拒んだことも、拒んだ末にこんな夢の中に逃げ込んだことも、
何もかもが気に入らない。
眠るダンテの頬に、バージルは手を伸ばした。指先で顔の線をなぞり、首をなぞる。ダンテが
ぴくりと反応し、しかし目覚めるではなく鼻に抜けるような吐息をもらした。
「ん……」
触れるごとに、ダンテの眉間に薄く刻まれた皺が消えていく。吐息がもっととねだっているように
聞こえ、バージルはするするとダンテの膚をなぞっていく。ふと、ダンテの唇が目に入る。乾燥して
かさついた唇を、バージルは爪で掻くようにして擦り、躰を折ってちょっと舐めた。そのまま唇を
重ね、暖かな口腔に舌を差し入れる。
「ん、ん……」
意識もないのに熱心に舌を絡めてくるダンテに、少しの憤りを覚えるがバージルは堪えた。
ダンテに快楽を仕込んだのは自分だ。しかし素質があったからこそ、ダンテは快楽に溺れやすい
躰になったのだとバージルは思う。
誰が相手であっても乱れるこの弟を、バージルは憎む。
舌を甘噛みしてやって、唇を離す。ダンテが足りないとばかりに眉を寄せ、バージルの首に抱き
付こうと腕が持ち上がった。濡れた唇が、艶めいた声を紡ぐ。
「……バ……ジル……もっと……」
囁かれた名は、果たして誰を指して呼ばわったのか。バージルは直感的に、自分ではないと
感じた。もう一人の自分――――ダンテはそちらを呼ばわったのだ。甘やかな艶のある声で。自分では
ないものを。
(これがどうして赦せる――――?)
自問し、嗤った。赦せるわけがない。ダンテは自身のことを要らぬと言い、バージルを拒んだ。
あれきり、バージルはダンテに触れるどころか顔すら見ていない。ダンテがバージルをとことん
避けているからだ。
(それで、これか)
馬鹿にしている、と思う。何が“必要ない”だ。何が“触るな”だ。
(ここでお前は何をしていた?)
ふつりと沸いた怒りは大きくなる一方で、バージルは寝惚けてキスをねだってくるダンテの唇を
塞ぎ、当たり前のように差し出された舌を思いきり噛んだ。
びくんとダンテの躰が跳ね、目が見開かれる。
「っい……! ……ぁ……」
目の焦点が定まり、碧い双眸にバージルの険しい顔が映り込む。ダンテの顔色が蒼白になるのを、
バージルは確かに見た。
「な……んで、アンタが……」
茫然と呟くダンテの唇は赤い。バージルがダンテの舌の端を噛み切ったからだ。
「何故、は俺の科白だ。こうまでして、お前は俺から逃げたかったのか」
ダンテが自分を拒んだ理由は、いまだバージルには判らない。理解しようとしていないのだから、
判らなくて当然かもしれなかった。しかしそれを自覚していないバージルは、ダンテが拒んだ理由は
自分の存在を重いと感じたからだと解釈していた。
実質上、バージルの世界はダンテのみで閉じている。ダンテはそれが息苦しかったのだと、
バージルは考えたのだ。まさか、こんなところに逃げ込んでいるとは思いもせずに。
「ここで何をしていたのか、答えろ。俺に隠れて何を――――」
無意識にダンテの首に手をかける。ゆるく絡めた指に少しずつ力が込められていくことに、
バージルは自分で気付いていない。
「答えろ、ダンテ」
ダンテが苦しそうに顔を歪めるのも、バージルには見えてはいなかった。息さえままならず、
答えるにも答えられないのだとは思いもしない。それどころか、ダンテには答える気がないのだと
バージルは思った。歪んだ表情は己への反抗だと、思い込んだ。
ダンテの首を絞める指が、いっそう強まる。
「ぁ……か、は……」
ひくりと痙攣するダンテに、バージルは体重をかけた。殺してしまえ、と頭の片隅で声がする。
―――― 殺せ。
小さな、しかしはっきりとした殺意がバージルの双眸に宿る。己の言うなりにならぬなら、
殺してしまえ。己から離れるというのなら、その命をこの手で刈り取ってしまえば良い。
「お前は誰にも渡さぬ。渡すくらいなら――――」
殺して、己だけのものにしてしまおう。
狂気すら宿したバージルの双眸――――むろん、自覚はない――――に見据えられ、
ダンテが喉の奥でくぐもった悲鳴を上げる。
「ひッ……や、め……はな、せ……ッぁ……」
ダンテの目から焦点が失われていく。バージルの手首にかかっていたダンテの手が、力をなくして
ぱたりとシーツに落ちた。それでもなお――――バージルの手は緩むことをしない。
言葉は信じられなかった。紡がれる言葉の総てがバージルには嘘にしか聞こえず、不快なばかり
だった。
ダンテは自分を拒み、逃げた。バージルにとっての真実はそれだけである。だから、取り戻す
のだ。たとえそれが、ダンテの命を奪うことであったとしても。バージルにはもはや、こうする
しかないのだから。
「ダンテ、」
名を呼び、キスをしてやれば嬉しそうに破顔する。それが、バージルの知る弟だ。たった
それだけで、バージルは最愛の弟を仕合わせにしてやれた。
そう、夢の中で会っていた、あの少年のように――――
バージルは完全に意識をなくし、ぐったりとするダンテの頬に唇を落とした。当たり前だが、
ダンテは笑みなど浮かべない。しかしバージルの頬には薄く笑みがあった。
「お前は俺のものだ……」
横たわるダンテに覆いかぶさるように、バージルはダンテの弛緩した躰を抱き締め目を閉じた。
バージルの唇が音にはせず何ごとか囁いたが、聞くものはいない。耳に直接囁かれた、ダンテで
さえも。
ダンテの事務所兼自宅の前で、エンツォは何故か判らないが二の足を踏んだ。ドアを開ければ
良いだけのことを、どうして躊躇っているのか自分でも不思議でならない。ただ、何か目に見えぬ
ものが侵入を阻んでいる――――根拠などありはしないが、そう思えてならないのだ。
エンツォには特別な能力などない。だが仕事柄、直感と第六感は信じることにしている。今は
その、第六感が何かを感じて警告しているようだった。が、いつまでも二の足を踏んでいるわけにも
いかない。
(ヤバいことには嫌って程関わって来た……今更、怖じることじゃねぇ筈だ)
自身に言い聞かせ、エンツォはドアに手をかけた。なるようになる。そう思わなければ、脚が
竦んでしまいそうだった。
事務所の内装は、相変わらず悪趣味としか言えない。見慣れたそれらをぐるりと見回すよりも
早く、エンツォは目当てのものを見つけて思わず声を上げた。
「お、おい、ダンテっ!?」
気に入りだと聞かされたことのある黒檀のデスク――――その脇に、ダンテはぐったりと横たわって
いた。いつも小憎らしい程活発なダンテが、力なくくずおれている姿など見るのは初めてで、
エンツォは焦った。
慌てて駆け寄り、膝をつく。苦悶の表情で横たわるダンテの肩に触れようとしたとき、
「動くな」
ひやりと、した。エンツォは一瞬にして凍り付く。首筋――――丁度頸動脈だ――――に鋭いものが
当てられている。背後から伸びたそれは、ゆったりと曲線を描く美しい剣だ。その持ち主を、
エンツォは知っていた。
「バージル……?」
掠れた声でどうにかそれだけを紡ぐ。ダンテの兄であるバージルに、エンツォは刃を向けられる
いわれはない。バージルの自分に向けられた確かな殺意を感じ取ったエンツォは、困惑を
隠せなかった。
「それに触れるな」
静かな声だ。しかし声音にすら含まれた殺気に、エンツォは唾を飲み込むことも出来ない。
ダンテに触れることなど、言われずとも出来るわけがなかった。バージルにもそれが判ったのか、
するりと兇刃が離れていく。それでも、エンツォは固まったまま動けない。
バージルは剣を鞘に納め、エンツォの横から回り込んでダンテの傍らに片膝をついた。ダンテの
二の腕を無造作に掴んで上体を起こさせ、両腕に横抱きにして抱き上げた。意識のない人間を持ち
上げることは、思いの外に難しいものだが、バージルは重そうな素振りもない。平然と、立ち
上がった。
バージルの目には、既にエンツォなど映っていないのだろう。ドア一枚で隔てられた自宅
スペースへと、さっさと(しかし足取りはゆっくりと)引き取ってしまった。一人取り残された
エンツォは、バージルが見えなくなってようやく床にへたりこんだ。
バージルのあの殺気は何だったのか、エンツォに判るわけはない。
(やっぱり兄貴絡みだったのか、ダンテ)
電話の受け答えが妙におかしかったダンテ。その原因はバージルに違いない。が、それが判った
ところでエンツォにはどうすることも出来ないのだ。首を突っ込めば、おそらくバージルは
エンツォを殺すくらいのこと、平然とやってのけるだろう。あれはそういう男だ。ダンテと似て
いるのは顔立ちのみ。どんな残忍なことも、バージルならば顔色一つ変えずに成してしまうに
違いない。
エンツォは開けっ放しにされたドアを見つめ、自分の第六感は正しかったのだと心底から思い
知った。
こんなことになりました。
こーゆうのを書いてるとき、私の頭の中はぐるぐるしてます。