絵本エホン









文字も、絵もない白い本を、ぱらぱらとめくる指先には小さな棘。
それはやがて肉に食い込み、血管を通り、心臓へと流れ着く。





目覚めは億劫で、頭がじくりと痛む。寝過ぎた日のような頭痛に、バージルはため息が出た。

夢を見ていた。頭痛はその所為だと、滅多に夢を見ることのないバージルは、そう自身を 納得させた。夢はほとんど見ない。しかしここしばらく続いている夢を、バージルは愉しんでいる。 ―――― その、筈だ。

じくじくとこめかみの辺りが痛む。愉しい筈の夢が醒めて、何故頭痛など抱えねばならないのか バージルには理解出来ない。悪夢ならまだしも、である。
他者からすれば、バージルの見る夢は悪夢に近い。愉しさからは遠くかけ離れていると言われて も、バージルは首を捻るだろう。あくまでバージルにとって、あの夢は悪夢ではないのだ。

望んだままの夢――――まさにそうだ。

ふと隣のベッドを見やった。もぬけの殻のベッドには、くしゃくしゃのブランケットが一枚、 枕かぬいぐるみか判らぬ人形を包むようにあるのみだ。ベッドの主は、どこにもいない。
およそバージルより早くに目覚めることのない、双子の弟はいったいどこへ行ったのか。 バージルはベッドから足を下ろし、しかしそこで思いとどまった。
捜してどうなる?

―――― どうにもならない。

弟はバージルよりも夢を選んだ。だからバージルは弟を突き放し、自らも夢を選んだ。
哀れを誘う弟の泣き暮れるさまはいっそ憎々しく、塩辛い水に濡れた頬をいくつもぶった。 それでも気は治まるどころか逆立つばかりで、最後には何もかもがどうでも良いように思えて、 バージルは弟に背を向けた。初めに手を離したのは弟で、バージルは彼に倣ったまでだ。

哀しむべきは自分だ。
その涙を流すべきは自分だ。

しかしバージルは涙など流したことはないし、意図して流せるものでもなかった。哀しんでいる のかすら判らない。そもそも、かなしいとはどういうことなのだろう。そんな感情は、自分には 備わっていない。結局、そういうことなのか。

子どもとして明らかに何かが欠落しているバージルを、気味悪がる大人は少なくない。バージルは 他人を全く顧みない性格で、誰に何を言われようがその耳に彼らの囀りが届くことはなかった。 たとえ届いていたにしろ、バージルは己の性格(性質?)を変えることはしなかっただろう。 必要性を、バージルは感じたこともないのだから。
この欠落が、たとえば埋まっていたならば、現状は違っていたのだろうか。弟は夢ではなく バージルを選んでいただろうか。

(意味がないな)

一人ごちて、バージルはベッドから下りた。仮説はいくらでも立てられる。しかし事実は今 バージルの手にあり、いくつ仮説を浮かべてみたところで無意味でしかない。
そんなことは、今更再認識する必要もないことだというのに。何故こうも――――割り 切れぬのか。
馬鹿げている、と思う。夢は夢であって、現実ではないのだ。しかし弟は事実、夢をこそ楽しいと 言い、バージルもまた夢で遭うものを好きに出来ることを愉しんでいる。
夢の中の彼には、まさしくバージルしかいない。だからバージルは愉しいのだし、ある意味 嬉しいのかもしれない。自分だけの“彼”の存在が。どんなことをしても、他を見ることのない 絶対のものが。嬉しくて、そして。

(―――― 哀れだ)





切れた糸の先はどこに。





目が痛い。ダンテは目覚めるなり襲って来たひりひりとした痛みに、一度ぎゅっと目を瞑った。 ふやりとした柔らかなぬいぐるみ(枕?)に顔を押しつける。綿の詰まったぬいぐるみは、ダンテの 気に入りだ。双子の兄も一つ持っているが、そちらはほとんど放置されたまま、時折ダンテが二つ まとめて抱き枕にしている程度である。
兄には、そんなぬいぐるみよりも難しい本のほうが良いに違いない。ダンテには全く理解出来ない 本を、いつもごく当たり前に読んでいるのだから。

兄を、ダンテは誰よりも好きだ。兄はダンテの中心で、起点で、総てと言って過言ではない。 ダンテの世界は事実、兄によって占められている。もっともダンテはそうと自覚しているわけでは なく、ただ兄を盲目的に信じ慕っているまでだ。

その無垢な純粋さが、兄を遠のかせているのだとは気付きもせず。

ひりひりする瞼をそろりと持ち上げ、隣のベッドを見やる。そこには整然と畳まれた ブランケットが一枚と、ぬいぐるみは枕許に所在無げに鎮座している。
兄の朝は早い。学校がなくても同じ時間に起きられる兄とは違い、ダンテはいつまでも眠って しまう子どもだ。気付けば昼であることも珍しくなく、母にはよく寝癖だらけの頭を笑われる。
起きたとき、隣に兄がいないのはいつものことだ。しかしダンテは、ひどく哀しかった。兄は まだ、自分を許してくれていないのだろうことが、漠然と察せられるから。

ダンテは躰を起こして足だけをベッドから下ろし、ぶらぶらさせた。兄が何故自分にそんな 仕打ちをするのか、ダンテには判らない。報いだと兄は言ったけれども、何に対しての報いだと 言うのか、まるで見当がつかなかった。

兄にぶたれた頬に触れ、はぁ、とため息を吐く。頬はまだ熱を持っているような気がする。 泣き腫らした目も赤いだろうが、こちらもきっと赤くなっていたに違いない。
容赦なく、兄はダンテをぶった。報いだとダンテに言い聞かせ、しかし理解出来ない自分に兄は 何を思ったのだろう。兄の心が自分から離れていくのを、ダンテは敏感に感じていた。

(どうして?)

何度も繰り返した問い。しかし答えはなく、そもそも問いを兄に投げたことがなかった。 ――――出来なかった。そうすることでまた、兄の怒りを買うかもしれないと思うと、ダンテは やはり泣き暮れるしかないのだった。
たとえ怒りであっても、兄がこちらを向いてくれるなら意味はあるかもしれない。
夢で逢う“誰か”は、夢が醒めてしまうのが惜しいくらいに優しく、ダンテを慈しんでくれる。 けれどダンテにとって、兄は総てだ。夢は夢であって現実ではない。もちろんあの夢はあの夢で 楽しいのだけれど、ダンテはやはり、兄が良い。

(ねぇ、)

大好きな兄に突き放されて、ダンテにはもうどうすれば良いのかも判らない。せめて兄の口から、 どうして自分を捨てるのか、理由だけでも聞けたなら――――出来るかどうかは判らないけれども、 駄目なところを直せると言うのに。何も言ってはくれないから、ダンテはどうしようもなくて泣く しかない。

(どうして、)

揺らしていた足が止まる。本当に、自分は兄に捨てられたのだろうか。――――きっと、そうだ。

悪いのはおそらく、自分。ダンテはぬいぐるみを抱き寄せ、顔を埋めた。肩が揺れる。腫れ ぼったい目許をまた赤くし、後から後から溢れる涙で気に入りのぬいぐるみが濡れていく。
泣くことしか出来ない自分に嫌気がさす。こんな自分を、兄もきっと嫌っているに違いない。
ダンテは顔を上げ、ぱちぱちと数度瞬きをした。睫毛に乗った涙の滴が、ぴんと跳ねて ぬいぐるみの小さな目に落ちる。

泣いてはいけない。

目許を手の甲で拭い、ダンテはベッドから下りた。兄のところへ行こう。泣くのは、後からでも 出来る。こわいけれど、独りで泣いているだけではきっと駄目なのだ。

負けない。兄が自分ではない誰かと何をしていたのか、ダンテには理解出来なかったけれど、 兄があの誰かを選んだとしたら、自分は負けたことになる。――――負けたくない。

子どもの論理だが、ダンテはそもそも幼く、そして必死だ。
今度こそ捨てられるかもしれない。その可能性に怯えて足を竦ませることを、ダンテは しなかった。幼いがゆえに、そこまで考えが及ばなかったのだ。そしてその盲目さが、ダンテの 一つきりの武器になる。





さぁ、目を開けて。



















戻。



子ダンテが復活しました。さ、どうしよう。(え)