朱彩
目の前にいたものをがぶりと食らった。久方振りに啜る血は甘く、肉は柔らかかった。夢中に
なって骨にこびりつた肉片まで舐め、そうしてようやく、“自分”がここにいることに
気が付いた。
女が腕にしなだれかかってくる。ねぇ、と夜の蝶らしく濡れた声音で誘うその女を、男は逞しい
腕に抱いてやった。嬉しそうに声を上げて首に腕を回してくる女の、不健康な膚を舌でなぞる。
びくん、と女の豊満な躰が跳ねた。歓喜に潤んでいた双眸には恐怖が浮かび、一転、男から
逃れようと目茶苦茶に腕と脚をじたばたさせる。しかし男にとって、それはあまりにささやかな
抵抗でしかなかった。
ぶつ、と歯を膚に突き立てる。いや、やめて、と悲鳴が上がる。男は真っ赤に染まった唇を舌で
舐め、さも詰まらなさそうに女を見下ろした。
「餌は黙って喰われていろ」
感情のない低い声に女がひっと身を竦める。血だらけの腹からは内臓が見えている。それでもなお
逃げようと足掻く女――――詰まらぬ、と男は吐き捨て女の喉笛に噛み付き食い千切った。
びくびくと痙攣し、やがてぴくりともしなくなった女を、男は機械的に胃に収めた。
人間の血肉を糧とし、食らうのは男の本能だ。狩りは糧を得る為の手段であり、獲物を追い詰め
食らい付くときは心が躍る。しかし。
女だったものを半ばまで食らい、男は不意に興を削がれて顔を上げた。口や頬に纏わりつく血が
ひどく不快で、袖で拭った。
甘い筈の血。柔らかい筈の女の肉。それを何故こうも気持ちが悪く思うのか、男には判らない。
もっと甘い血があることを、もっと食み応えのある肉のあることを、知ってしまえば他は総て
不味いばかり。
男は舌打ちした。背中に純白の翼を広げ、女を食い散らかしたまま放置し飛び立った。はらはらと
舞う羽が女に降り、手向けのように躰を覆う。
自分は確かに一度死んだ。しかしこうして生きて狩りをし、餌を食らっている。何の意味があって
自分は甦ったのか。それが判らず、ただ時間だけが相も変わらず過ぎて行く。
男は人間ではない。姿こそ人の形を取っているが、本性は人間とは程遠い魔界の獣である。名は
ベオウルフ。闇に生きながら光をその背に負う魔獣だ。
もっともベオウルフという名を今も変わらず名乗っているのかといえば、そこは微妙なところ
だった。ベオウルフという名の獣は一度、完全に死んだ。今の自分はもはや元と同じではないの
だろう、と思っている。
以前はこんなふうに、人型を取ることは出来なかった。悪魔の中には人型を好むものもいるが、
姿を変える為には強い魔力が要る。ベオウルフは強靭な肉体を持ってはいたが、姿を変えるだけの
魔力を有してはいなかった。
己の身に何が起こったのか、判らないがとにかく魔力が格段に増したことは確かだ。こうして
一日のほとんどを人型で過ごしても、疲れというものを感じないのはベオウルフにとって異常な
ことだった。
何故、甦ったのか。
白い髪を掻き上げ、高いビルの天辺から眠らない街を見下ろす。強い風が心地好くて、くっと目を
細めた。
右目はもう随分昔に抉られて以来、光を失っている。甦ったときに左目は元通りになって
いたが、右目だけは見えぬままだった。復讐を誓った右目。呪いのようだと嗤わずには
おれなかった。
この右目の為に、かつて自分は生きていた。今もあの裏切り者を憎む気持ちに変わりはなく、
むしろ今ならば楽に復讐を遂げられるに違いない。裏切り者はこの世に亡いが、その血を受け継ぐ
ものはいる。甦ってからすでに二度、その血族と遭遇した。殺すことは簡単だった。しかしそう
しなかった自分は何を考えていたのか、判らない。
裏切り者の血族は二人。双子らしいが、彼の見るところ性格は随分違うらしい。赤いほうとは、
二度遭った。一度目はねぐらにしていた古い屋敷で、後ろから襲った。卑怯と罵られることも彼は
平然と行う。油断していたらしい赤いほうを、彼は捕らえ寝台に組み敷いた。両手を短刀で、蝶を
貼り付けにするように貫き、爪で膚を裂き、舐めた血の濃密な味に躰が昂ぶった。血塗れになり
ながらも暴れる赤いほうを、彼は押さえ付けて犯した。血肉を食らうのではなく、躰を蹂躙した
のだ。
何故あんな真似をしたのか、何度思い返してみても答えは出ない。ただそうしたい衝動に
駆られるまま、慾望を満たした。そう、赤いほうを犯した後、彼は奇妙な程に満足がいっていた。
殺したわけではなく、肉を蹂躙しただけで得られる充足とは何だったのか――――。
獣の本性は獲物を捕らえ、食らうことだ。彼もまたそうで、今までその通りに生きて来た。
復讐を誓い、裏切り者の臭いを追っては来たが、本能をおざなりにしたことはない。彼は常に、
血と肉に飢えている。今もそうだ。なのに、どうしたというのか。
(狩りの本能が薄れているわけではない。ならば、何だ……?)
狩りはする。特に豊満な肉付きの女が良い。子どもでも良いが、その場合は数が要る。空腹を
満たすには子ども一匹では足りない。
血を啜り、肉を食むことをやめたいとは思わない。狩りの感覚が鈍っているわけでもなく、
しかし、確かに彼は己自身に不審を抱かずにはおれない。
とん、とコンクリートを軽く蹴った。黒い開襟シャツが風を孕んで膨らみ、裾が煽らればさりと
はためく。おざなりに一つ二つ留めたボタンが千切れそうだと、ぼんやり思った。
月は真円。欠けたところのない完璧な姿を、男は心底忌み嫌う。
ぼきりという嫌な音が、アスファルトとコンクリートに塗り固められた空間に響く。辺りは朱。
鮮やかさを失った朱がどす黒くアスファルトを染める。いつもなら食慾を増長させる血の臭気に、
何故か気分が悪くなる。
口に咥えた白い骨を吐き出した。こつん、と軽い音を立てて落ちたそれに見向きもせず、
四角く切り取られた空を見上げる。
気分は悪いまま、昂揚しない。いつものように狩りをして、血肉を食らってなお昂ぶりを
見せない自身に、もはやため息しか出なかった。
何かがおかしい。何が原因か――――“あれ”だという確信に似た感覚に、男はあえて気付かない
ふりをする。
指に付着した血を舐め、不味いと眉をしかめた。“あれ”の血には到底敵わぬ。
見上げた先の、コンクリートに欠片を切り取られた月――――嘲るような蒼に男は反吐が出そうに
なる。
(同じ月なら、いっそ緋に染まっていれば良いものを)
忌々しく呟く耳の奥で、赤を纏った“あれ”の声が蘇る。うちに来るか、などと、何を思ったか
自分を凌辱したものに“あれ”は言った。冗談を言っている目ではなかったと、男は思って鼻で
笑う。
馴れ合いたいのか、それとも与し易く見られたのか、“あれ”の考えるところなど男に察せられる
わけもない。馬鹿なことを言うものだ、と嗤っていながら何故か“あれ”の声を忘れることが
出来ない自身を、男は持て余している。
何故、犯したのか。
何故、声を反芻するのか。
何故、何故――――
「狂っているな」
正常とはどんなものだったか、男は思い出そうとして出来なかった。ただ、あの赤いものを
思っては頭を掻き毟る。
不意に、甘い匂いが鼻をかすめた気がして、目を閉じた。
男は見知らぬ場所で目を覚ました。あの古い屋敷を離れてから、いつもビルの天辺で眠るでもなく
空を見上げていたものだが、今男の視界に映るものは空などではなく、明らかにどこかの家の
天井だ。
知らぬうちにどこぞの家に押し入っていたのだろうか。頭を起こそうとした男の耳に、
あの声が――――
「目ぇ覚めたか」
赤いほうが、ドアを後ろ手に閉めた。男は焦るでもなく躰を起こした。
「……此処は、」
「俺んちだよ。って、あんた覚えてねぇのか?」
「何をだ」
赤いほうは肩を竦め、ドアに背を凭せかける。
「玄関のとこに座り込んでたんだよ、あんた。びっくりしたぜ、何か黒いもんがあると思ったら、
あんたなんだもんな」
で、と赤いほうが首を傾げた。
「ここに住む気になったとか?」
どこか悪戯っぽい仕種だ。男は是とも否とも答えず、ベッド(に寝かされていたらしい)から
下りた。赤いほうは逃げない。いっそふてぶてしい表情でこちらを見上げる彼に近付き、強い力で
抱き竦めた。
びく、とさすがに強張って胸を押し返そうとする腕ごと、抱き込んだ。背骨が折れそうなくらいが
丁度良い。傍迷惑に違いないことを思い、彼の白いうなじに歯を押し当てた。
(白。―――― そう、この白だ)
滲んだ朱の映える透き通るような白。自分の背中にある白とは違うそれに舌を這わせ、ぷくりと
溢れた紅玉の甘さに知らず笑みが浮かんだ。
初ベオ視点。…無謀…
ベオの頭の中は子供っぽい感じがする…
のは私だけの妄想でしょうか(汗)