追憶
それはいつか夢に見た、誰かの記憶。
掌が疼くように痛んで、彼は目を覚ました。昼と夜の感覚のないこの魔界の淵にあって、彼は
まるで人間のように睡眠を摂る。それを周囲のものは不思議そうに――――中には嘲りを
込めて――――眺めているらしい。
実力が総てのこの世界で、彼を凌ぐ強者は王として君臨するものただ一人だ。王に次ぐ地位を
奪おうと、彼の寝込みを襲うものもあったが、総て彼によって存在ごと消される結果になった。
その為今では、彼の地位を奪おうとする短慮な輩はいなくなっている。
煩わしさはなくなったものの、詰まらないとも彼は思う。この世界には弱者と強者がおり、争いが
絶えずどこかで繰り広げられている。にも関わらず、彼の周囲はいかにも静かだ。
自分よりも明らかに強いからと、挑むことを忘れたものは愚かだ。
尻尾を巻いて形だけの従順を示し、強者の恩恵を得ることだけしか能のない愚者を、彼は
心底から嫌悪する。
掌の痛みはもう感じられなかった。痛む理由もないそこが、何故突然疼いたのか彼には
判らない。
二、三度手を握っては開きを繰り返し、しかし何の違和感もないことに嘆息する。何かがある
わけもないのだから、原因を突き止めるなど、不可能に違いなかった。
背を預けていた壁から離れ、身を起こす。いつもはわざとらしい程の静寂に満ちた彼の周囲だが、
今日に限って何か騒がしい。辺りをぐるりと見渡した彼の耳が、粗雑な喧騒とは別の音を拾った。
悪魔どもの発する音ではなさそうだ。
彼はゆっくりとした歩みで、喧騒の中心へと近付いて行った。彼の姿を認めるなり、今の今まで
聞くに耐えない野次や罵詈雑言を吐いていた輩が、まるで訓練を受けた兵のように綺麗に左右に
分かれ、彼に道を空けた。何だ何だと彼に気付いていなかったものも、たちまち竦み上がって
小さくなる。面白くもない反応だ。彼は中心にある何かを取り囲むもの総てを無視した。
“それ”は、ぼろのような姿で震えていた。
人間の子どもだと、匂いですぐに判る。柔らかな肉の、甘い匂いだ。悪魔どもが騒いでいた理由は
これで、子どもがまだ生きているのは、誰が新鮮な肉を獲得するかで争い合っていたからだ。
そうこうしているうちに彼がこの場に来てしまい、争奪戦はうやむやのうちに流れた、という
ところだろう。
子どもは運良く、生きたまま躰を食い荒らされずに済んだというわけだ。もっとも、本当に
幸運なら魔界に足を滑らせることもないのだが。
ごく稀に、人間界と魔界の間に僅かな歪みが生じることがある。ほとんど力のないものしか
通ることは出来ず、またどこに発生するかも判らない為、こうして魔界に迷い込んでしまった人間は
不運としか言いようがない。悪魔に食われるか、それを免れても魔界の瘴気に躰が耐えられず、
どのみち苦しんで死ぬのは間違いのないところだ。この子どもも――――
まだ十に満たないだろう子どもは、彼から見てあまりにも小さく弱い。放って置いても一日と
保たず瘴気に侵されて死ぬ、脆弱な生き物だ。
すでに喘鳴を繰り返しているぼろのような子どもを、彼は片手でひょいと持ち上げた。ひっ、と
子どもが悲鳴を上げるが、彼の腕に抗う力すらもはや残ってはいないようだ。くたりとしながらも
全身を恐怖に竦ませる子どもを連れ、彼はその場を後にした。
獲物を横取りされた悪魔どもが恨めしげに彼を睨む。しかし誰一人、彼から子どもを奪おうと
するものはなかった。
誰かが自分を呼んでいる。どこにいるのかと、泣きながら呼ばわる声は幼く弱々しい。
ここだ。応える声は音にならなず。開いた口からは言葉が紡がれることなく、ただ空気が漏れる
のみ。
どこにいったの?
ねぇ、
どこにいるの?
悲愴な声はただただ反響するばかり。
やがて泣きながら自分を呼ばわる声は、捜す相手を見出だせぬまま失意のうちに掻き消えた。
子どもは弱まる一方だ。魔界にいる限り快復の見込みはなく、かと言って彼には子どもを人間界に
返してやることは出来ない。不可能ではないかもしれないが、いつどこに現れるかも判らぬ歪みを
捜す手段など彼は持ってはいないし、もし見つけられたとしても子どもが力尽きるほうが早い
だろう。
どちらにせよ、子どもの命はここで果てる。覆すことは不可能だ。
もはや彼に怯えることも出来なくなったらしい子どもの、苦しげに呼吸を繰り返すのへ、彼は
寸分の隙間もなく鎧に覆われた手をかざした。弱々しい息が、何故だか暖かく感じて彼は眉を
顰めた。そもそも鎧に覆われていて、外部からの感触を感じるなどということが有り得ないのだ。
しかし子どもの息は確かに掌に感じるし、暖かいと思うのも確かなことだった。
不意に、彼の手を子どもが掴んだ。指には全く力が入っておらず、掴むというよりも触れると
言ったほうが正確だろう。子どもの手は小さくて、彼の小指と薬指を握っただけでいっぱいに
なってしまう。
小さな小さな、弱い子ども。ぜいぜいと繰り返す喘鳴も、徐々に、しかし確実に小さくなって
いく。
死が、子どもに寄り添い手をこまねいている。
彼の手に触れる指は白く、子どもの命が躰から離れていこうとするかのようだ。
苦しいか、と問うのは愚かなばかりだ。彼は手で子どもの目を覆い隠した。もうほとんど
見えていないだろうけれども。
彼の空いた手には、刃だけで子どもの背丈程もありそうな、巨大な剣。
せめて。そう、出来ることはただ一つしかない。
どん、と音が響いた。子どもの躰が一度だけびくりと跳ね、ぱたりと落ちた手はそれきり
動かなくなった。胸に突き立てた剣が血を啜るのが判る。しかし躊躇いがちに啜っているようで、
いつものような脈打つ感覚は伝わって来ない。
何かを屠り、血を啜る行為に違いなどない。しかし躊躇いを捨て切らぬ剣先――――彼は剣を引き
抜き、がらんとその場に投げ出した。剣はため息を吐くように掻き消えるが、彼の目にその光景は
映ってはいなかった。
小さな亡骸(抜け殻)のそばを、彼は何故か離れることが出来なかった。
子どもが泣いている。独りぼっちで膝を抱き、小さい躰をいっそう小さくして、たった独りで
震えている。
その子どもを、自分は確かに知っていると思うのに、同時に知らぬと否定する声がある。どちらが
正しいのか――――おそらく前者であろう。
大事な何かが欠けたような感覚を、自分は常に抱えている。それが何なのかは判らないし、
この泣いている子どもとの関係など知るわけもない。しかし判るのだ。この子どもを自分は知って
いて、そして――――何故泣いているのかということも。
大事だった何か。
大事にしたかった何か。
――――失った、何か。
子どもは密やかに泣き続ける。その涙を止める方法が、判らなくて途方に暮れる。
子どもはまるで眠っているような、静かな表情だ。が、この子どもが起きることはなく、
話すことも、笑うこともない。それが当然なのだ。
あの夢のようには、ゆかない。
命は一つきり。生は一度きりだ。例外はない。そう、どんな生き物にも。
彼は子どもの亡骸をただ安置するだけにとどめた。
魔界で死んだ人間の魂は、果たしてどこへ行くのだろうか、と。柄にもないことをぽつりと
思った。
荒んだ風が鳴いている。
唐突に書き始めてしまったネロ・アンジェロ独白…
何がしたかったのか、自分でもわかりかねます;