羽音ハネノオト









小さく、手足を折り畳んで膝に顔を埋めた子どもが一人。少年は眠っているのではなく、ただ じっと蹲って動かない。誰かを待っているようでもあり、同時にその誰かを諦めているようにも 見えた。顔を上げぬ少年の小さな肩は、どこか途方に暮れているように寂しそうだ。
彼は少年を、ただ見つめている。夢の中で夢を見ているような、やけにぼんやりとした光景だと 思うけれども、眠っていないことは彼が一番よく判っている。だからこれは、まぎれもない 現実だった。

何を途方に暮れることがあるのかと、彼は思う。良いざまだ、とも思って薄く嗤った。

少年は、ひびの入って壊れる寸前の硝子――――いや、むしろもっと、壊れてしまえば取り返しの つかないものだろう。――――金剛石。そう、そんなところだ。

泣き尽くした瞳には、もうじわりとも涙が滲んでいないのだと、彼には見なくとも判る。 この少年のことで、彼に判らぬことは一つもない。だのに、少年がそれを裏切った。
厳密に突き詰めれば、少年は決して彼を裏切ったのではないと言える。そもそも少年には、彼を 裏切ったなどという自覚はなく、むしろ彼が一方的に怒っているのだと感じている筈だ。だから 悲しみに暮れ、泣き濡れる。自分一人が悲しいのだと、思い込んでいる。

(どうして判らない?)

いや、判ろうとしない、か。

彼らは双子で、文字通りの半身だ。片割れが悲しいときは、もう一方も少なからず悲しいのだと、 どうして判ろうとしないのか。互いが同調し、影響し合っているのだと、何故気付かない―――― あるいは知らないふりをしている――――のだろう。

双子はただの兄弟とは違う。それを生まれたときから知っているのは彼で、少年はあくまで何も 知らない子どもだった。
一つずつしかないものを、二人で分け合っているとでも言おうか。少年は無垢を選び、そして その通りに在る。彼にはそれが、ときに嫌気がさす程疎ましくてならない。

双子だのに、彼と少年とは何が違うのかと、問うのは愚かだ。彼らは何もかもが違う。 似ているところなどどこを探してもない。だからこそ、苛立たずにはおれなかった。

(おまえは何も判ってない。何も知らないと言えば、赦されるとでも思ってるのか?)

無垢な少年。いたいけで、哀れで、ひどく可愛らしく見えるだろう。それは確かだ。誰もが 少年を憐れみ、手を差し延べずにはおれないだろう。その差し延べられた手を、彼は総て 斬り裂いてやりたいと思う。

けれど。

彼が今もっとも斬り裂いてやりたいのは、少年に差し延べられた手ではない。誰のものかも 判らぬ手を取り、あまつさえ嬉しそうに笑う少年をこそ、彼は斬り裂きたくてならない。

彼は裏切られたのだ。唯一無二の半身に。だから、相応の報復を与えて当然なのだと思って いるし、そのつもりだ。
誰もが少年を憐れみ、赦したとしても、彼だけは少年を赦すまい。赦せるわけが、ない。

(もっと泣き喚け)

泣いて、泣き果てて。声が嗄れるまで、瞳が溶けるまで、泣き暮れて。それでも自身の唯一が 彼であることに気付かないならば――――あるいは、あえて気付かぬふりをするならば――――、 そのときは。

「報いを受けろ」

低い声に、少年がびくりと肩を揺らして顔を上げた。紅く腫れた目が痛々しいが、彼にはそれを 哀れとは思えなかった。
少年の表情は、ありありとした怯え。畏怖の浮かんだ瞳に映る、彼の表情はひたすらに冷たい。 少年を意図的に泣かしてやるときですらしない、凍て付いた表情。少年が怯えるのは当然で、 しかし彼は笑みの欠片すら見せてやることはしなかった。

少年は彼を裏切った。

それだけが彼にとっての事実であり、総てである。

彼は蹲ったままの少年の、腕を掴んで無理矢理引き起こした。少年の怯えはいっそう強まり、 引きつった悲鳴を喉の奥で上げた。ふっくらとした、赤味の引いた頬を彼は掌で打った。ぱしん、 と乾いた音が響く。いたい、と少年が悲鳴を上げ、自由なほうの腕で顔を覆った。

「やめて!」

彼は少年の、顔をかばう腕を掴んで少年の躰を前後に揺すった。少年の頭がぐらぐらと揺れ、 目の焦点が一瞬失せる。ぱしん、と彼はまた少年の頬を張った。

「ひっ……! やだ、やめ、」

ぱしん。乾いた音がまた響く。白々しい音だ。彼はまるで他人事のように思った。

「やめて、バージルっ……!」

ぴたりと彼の手が止まる。少年は彼の手を振りほどき、両手で頭を抱えるようにしてまた蹲った。 震えている。狩りで追われるうさぎのように。
ひっく、としゃくり上げて泣き出す少年を、彼は冷ややかに見下ろした。まだだ、と思う。まだ、 彼は満足のいくまで少年を責めていない。なのに、少年はもはや限界とばかりに泣き、震えて いる。

「まだだ、まだ終わってない」

少年がぎくっとしていっそう身を小さくした。やだ、だとか、やめて、だとかか細く繰り返して いるらしい。無垢な少年の哀れな姿が、彼にはどこまでも卑屈に映る。
彼は自分の昂ぶった心が、一気に冷めていくのを感じた。

少年をこれ以上責めて何になる? 殴って、泣かせて、それでどうなると言うのだ?

少年は彼を裏切った。彼が何をしても少年の裏切りは帳消しにはならないし、少年は彼のもとには 戻らないだろう。夢の中で、差し延べられた手に縋って泣き、慰められるのに違いない。
すっかり冷めてしまった心で少年を見下ろし、彼はぷつりと何かの糸が切れたような、小さな音を 耳の奥で聞いた。





涙に濡れた顔を、少年はもはや上げることが出来なかった。怖かった。顔を上げれば彼がいて、 また頬をぶたれるかもしれない。報いだと、少年には判らぬ言葉を彼は口にした。自分が何をか して、それに対して彼が仕置をしているのだということは判る。けれども、少年はその何かが 判らなかった。だから怖くて、泣くしかない。

数日前からずっと、彼は少年に対してこうだ。少年が何をしたのか、彼は言ってくれない。彼が 怒りを纏わせ、ときに手を上げるのは怖くてならないが、何より怖いのは彼が少年に見向きも しなくなることだ。
少年が呼ばわっても返事はおろか、こちらを見てもくれなくなる。そうなると、少年はもう どうしようもなかった。

散々、泣いた。どうして彼は少年を責めるのか判らなくて、ただ泣くしかなかった。それでも 彼が手を差し延べてくれることはなく、優しく頭を撫でてくれることもなかった。
泣き疲れて眠れば、決まって夢を見る。その夢の中でも、少年は泣いていた。しかし夢では、 少年を抱き締め、撫でてくれる手がある。嬉しいけれど、そのぶん夢から覚めたときの哀しみは 大きかった。

彼は少年を赦してくれない。

少年にとって、彼に見放されることはもっともつらいことだ。泣いても泣いても、彼に少年の声は 届かない。つらさだけが増していく。
どうすれば良いのか、少年には判らない。さりとて彼に訊くことも出来ず、彼は何も教えては くれない。ただ、彼は見たこともない冷たい表情で少年を責めるだけだ。

「っ……ひっく……」

しゃくり上げる声を、少年は唇を噛み締めることで堪えた。



本当は知っているのだ。彼がどうして少年に見向きもしなくなったのか。気が触れたように 少年を責めるのか。



夢で知らない(しかし確かに知っている)誰かと、己の半身がともにいる光景を、見ていたのは 彼だけではなかった。

自分によく似た(けれど知らない)大人と、彼。彼は少年といるときには見せたことのない顔を して、何を話していたかは覚えていないけれど、その誰かに触れていた。
どうして。少年の声は音にはならず、それ故に彼に届くわけもなかった。

バージル、どうして。

彼が、少年に似た大人と何をしているのか、無垢な少年には判らないけれども、判ることはある。 彼は少年を見限り、その誰かを選んだのだ。だから少年には冷たくあたる。

自分が何をしただろう。彼に見限られるような、何を。
判らない。けれども彼は、もう少年を振り返らない。

どうして。

少年の声は、彼には届かない。それでも叫ばずにはおれなかった。

どうして、バージル?

どうして、ぼくじゃだめだったの……?

少年はただ、泣き暮れる。涙だけが唯一、彼の想いに応えてくれるかのように。



















戻。



似たような文章書いてる、と書き上げてから気付く…(死)