違想
子どもは泣きじゃくるばかりで、どうしたのかと問うてもろくに言葉を紡げぬ状態だった。
ただバージルの名を呼ぶ。それだけが自分に許された言葉なのだとでも言うように、繰り返し
バージルを呼び、しがみついて泣き暮れる。
バージルは子どもの背を撫で、宥めながら、しかし涙を止めてやることは出来そうもなかった。
そもそも、泣いている理由が判らないのだ。大丈夫だと言ってやるにはあまりに白々しいし、
慰める為の言葉も見つからない。ただ、抱き締めてやるよりなかった。
これは夢だ。バージルは確かな意識で確認する。これは夢で、目が覚めればこの子どもは
消えている。夢の中だけの短い逢瀬――ただの、幻。そんなことは判りきったことで、バージルは
それゆえ夢に嵌まってしまうなど有り得ないと思っている。
確かにこの子どもは可愛いし、構ってやりたいとも思う。しかしこれは夢なのだから、過ぎた
思い入れは滑稽なだけだ。
判っていることだ。しかしバージルはまだ、この夢を視ている。それは何故なのか。
ただの夢。目が覚めれば消えるだけの、幻。しかしその幻を、何故こう何度も視続ける必要が
あるのか。
(何故、)
疑問に子どもの声が混じった。自分を呼ばわるかわいそうな声。応えてやらねば壊れてしまい
そうなか細い声を、どうにか安堵させてやれないものか。
「大丈夫だ、ダンテ」
何が大丈夫なのか。
ダンテ――――その名を、自分はもっと違う場所で呼ばわるべきではないのか。しかし。
「バージルぅっ……」
悲愴な、泣き濡れた声が。
バージルは子どもを抱き締め、ぽんぽんと優しく背を叩いた。小さな躰は、きつく抱き締めた
だけで壊れてしまいそうな程、細い。
自分が守ってやらねばならない。こんなにも泣いて、誰からも見放されたような悲哀に暮れる
子どもをどうして放っておくことが出来ようか。“ダンテ”を守るのは自分以外をおいて他に
ない。そう、その筈だ。
「もう泣くな、ダンテ。―――― 泣いてくれるな」
その言葉は心からのもので、しかし何故だか白々しいもののように思えてバージルは眉を
顰めた。
泣いて欲しくない。それは本心だ。だが――――?
(―――― 出てけよ)
脳に反芻する、呪いのような言葉。
(―――― 俺に触るな)
あってはならない、呪詛。
(―――― 出てけ)
今にも泣きそうな声は、憎しみをこめた双眸は、誰のものだった?
後ろ手に閉めたドアの音。茫然と立ち尽くした自分。
「ダンテ、」
呼ばわる声は届かなかった。あれはバージルの言葉を、一つも聞こうとしなかった。あまつさえ、
いらないのだ、と。
(―――― アンタは俺なんか要らないんだ)
ダンテは泣いていた。声を上げずに、涙を流さずに。この子どものように。しかしダンテは、
縋りつくべき相手であるバージルを拒絶した。それは何故だ?
(―――― アンタは、いつもそうだ)
呪詛めいた言葉が耳から離れない。バージルにはダンテの言葉の意味が、これっぽっちも
判らなかった。
(―――― アンタは、)
「……おにいちゃん……」
耳に、掠れた声が届いた。腕の中を見下ろせば、子どもが泣き疲れて眠っている。お兄ちゃん。
かつてはダンテも、バージルを名でなくそう呼んでいた。変わったのは、彼らがそこそこの歳に
なってからだった。
兄と弟。彼らは双子だけれど、はっきりと兄弟と言うことが出来る。バージルは兄で、ダンテは
弟だ。それは生まれる前から決まっていたことで、これからも変わることはない。
「ダンテ、」
弟の名。この子どももまた、弟だ。
幼い頃のダンテは本当に可愛らしかった。この子どものように、バージルを疑うということが
まずなかった。近所でも彼らの仲の良さは評判だったし、バージルもそれを当然のことだと思って
いた。しかしある日を境に、彼らの関係は変わった。(変化という程のものではないかもしれない
が)
母が死んだ。それは彼ら双子の、根底を揺るがす事象だった。
子どもは安らかに眠っている。これくらいの歳の頃、彼らはとても仕合わせだった。不幸は彼らを
避けて通ったし、毎日が暖かかった。何よりバージルにはダンテがいた。可愛いダンテを泣かせる
こともあったが、泣きじゃくるダンテを宥め、キスをして、抱き締めてやるのが好きだった。
今が仕合わせでないとは、思わない。しかし以前とは明らかに違っていた。
(―――― アンタは、)
ダンテの声が谺する。子どもをきつく、壊れないように抱き締めた。
コン、と扉が一つ叩かれ、バージルは顔を上げた。重厚な扉は、しかし思いの外軽やかな音を
響かせる。
誰かと問えば、扉の向こうからアーカムがそれと答える。バージルはちらと子どもを見、
アーカムに入室の許可を与えた。
「失礼致します」
慇懃に入って来たアーカムは、手に手紙か何かを携えている。
「お休みのところを申し訳ありません。皇子に文が届いております」
うっそりと差し出されたそれを受け取り、短く礼を告げる。アーカムは気味の良いとは言えぬ
笑みを浮かべて、また慇懃に部屋を出て行った。
手紙。いったい誰から届くことがあるというのか。不審に思いながら、バージルは子どもを
抱え直してナイフで封を切った。少し生成りの紙が一枚。取り出して広げて、眉を顰めた。
何も、書かれていない。
無表情な紙はただ一つの文字も飾らず、ただバージルを見上げている。バージルはじっと、
白いだけの紙を見つめた。
(これは何だ……?)
何、も何も、白紙の手紙だ。しかしバージルには、これが得体の知れぬものに思えて
ならなかった。見つめていれば字が浮かんで来る、というわけでは無論ない。紙は無表情のまま、
何ら変化など見せはしなかった。
誰から宛てられたものかも判らない、ただの紙。夢なのだから、とりとめのない事象の一つに
過ぎないのだと、割り切ろうとしてバージルは出来なかった。意味のないものにしては、やけに
存在が明らかでありすぎる。
(これは、何だ)
再度、問う。もちろん答えはない。ふと、双子の片割れの、バージルを拒んだときの表情を
思い出した。あれ程不快だったことは、今までにあっただろうか。思い出しては苛立ち、ぶつける
先を持たない怒りは膨らむばかりだ。
(―――― アンタは、)
ダンテの声を反芻する。片割れはまさしくバージルの躰の一部であった筈だ。それをダンテも
判っていると、バージルは当然思っていた。要るか、要らぬか、そんな程度の低いことではなかった
筈だ、彼ら兄弟は。
何故ダンテは拒絶をしたのか。触るなと言い、出て行けと言ってバージルの存在そのものを
拒んだ。何故。彼らには互いしかおらず、半身を補うものを持たない。それを、ダンテは拒んだ
のだ。どういうことか、ダンテは判っているのだろうか。
腕の中で、子どもの躰がかくんとずり落ちそうになった。バージルは手紙をテーブルに置き、
目許を赤く腫らして眠る子どもを両腕で支えてやる。柔らかい銀の髪が頬に心地好い。そうして、
ふと、思う。
これの半身はどこにいるのだろうか、と。
子どもは孤児だ。この夢の中ではそういうことになっている。これは夢の産物であり、現実では
ない。――――本当に、そうなのか?
眉間に皺を刻み、どこともつかぬ空を睨んでいると、視界の端に異様なものを捉えた。片目を
眇め、そちらを見やる。それは今し方の、白いばかりで文字のない手紙――――である筈が。
ぽつ、と。雫が染みるような点が一つ。また一つ。もちろん雫が落ちる原因など、どこにもない。
何より雫は紅い。バージルのよく知った色――――血だ。
黒の混じらない鮮やかな朱が、ぽた、ぽた、と紙に落ちては染みを作る。とりとめもなく落ちる
ばかりの雫。しかしバージルが目を外すことが出来ないでいるのは、雫がある文字を描いているの
だと気付いたからだ。
子どもはまだ、眠っている。一度眠ってしまえばしばらくは起きないのだと、バージルは
知っていた。
ぽたっ、
雫が止まった。バージルは眉間の皺を深くし、文字の浮かび上がった紙を見据えた。
“Dante”――――
子どもは、目覚めない。
呼ばわる名にどれ程の意味があるのか――――どれ程の想いが込められているのか――――、
バージルは考えたこともなかった。
「アンタは、いつもそうだ」
嘲笑うダンテは、涙を流さず泣いていた。その言葉の意味も、涙の理由も、バージルは
何一つ、理解しようとしていなかった。
そろそろオチに向かってる感じで…。