幽暗
「来い」
当たり前のように命じる声が、そのときに限ってやけに不愉快だと思った。眉をしかめるだけで
返事をせずにいると、相手の眉間にも皺が刻まれる。こっちが従わないとすぐに機嫌を損ねる
この男は、ある意味で生まれついての支配者で、ある意味で餓鬼だ。何でも思い通りにならないと
気が済まない、我儘な餓鬼。しかし全くの餓鬼とは違うし、そういう意味では支配者とも違った。
「ダンテ、」
呼ばわる声。黙って従え、と脳髄が痺れるような感覚に襲われる。この男の声は常に、こちらの
服従を強いている。否、強いる、のではない。それは強制ではなく、当然。男は支配することを、
そしてこちらが服従することを当然と思って憚らない。だから、少しでも反抗を見せれば不快感を
あらわにするのだ。
その、当然、が。
いつの間に確立されたのか、彼は覚えていない。物心つく頃にはもう“こう”だったように
思うし、もっと後のようにも思う。詰まるところ、判らないというのが実情だった。
この世に二人きりの血族である彼らは、しかし対等ではなかった。
「ダンテ、」
苛立ちを隠しもせず、支配者が彼の名を呼ばわった。彼はじとりと男を睨めつける。
「嫌だ」
それは男の求める応えとはかけ離れた、およそ真逆の言葉。案の定、男の眉間に皺が増える。
男は繰り返した。
「来いと言っている」
妥協すること、折れること。ひとの中で生きる為の手段をどれ一つしようとしない男は、
この世界とはどこかしら切り離されているのかもしれない。事実、男はこの世界を一度は壊そうとし、
そして自ら闇へ堕ちようとしたのだ。
この世界は、確かに男とは繋がっていないのかもしれない。
彼はゆるくかぶりを振った。
「嫌だって言ってるだろ?」
我儘な支配者は、彼の反抗を赦さない。一瞬目の前が暗くなって、気付けば壁に寄り掛かって床に
ずるずると座り込んでいた。髪を掴まれ、壁に頭を打ち付けられたらしく、脳震盪を起こしたの
だろう。頭がずくずくと痛む。恨みがましく男を見上げた。全くの無表情がそこにあった。
「……に、しやがる」
こちらを見下ろす双眸は、まるで氷だ。冷たすぎて火傷をしそうな、そんな瞳に射抜かれても、
彼はまだ抵抗を続ける。
……まだ。
違う。それでは最後には男に服従するのを前提としているようではないか。そうではない。では、
抵抗、という響きもおかしいのではないか。総て、男への服従を前提にしている。
(何なんだ)
おかしいと思う傍ら、おかしくないと諫める声が耳の奥に響くのだ。それは男の声と重なる
ように。
(――――従え)
囁く。
「ダンテ、」
脳髄が痺れる。
やめてくれ。
どうして。
俺はいったい何なんだ――――?
ぎしりとベッドの軋む不快な音に、ダンテは眉を顰めた。ベッドを軋ませているのはバージルで、
その手助けをしているのはダンテだ。ベッドの上で、バージルはダンテを後ろから思う様犯して
いる。
軋むベッドと、それ以上に煩いダンテの喘ぎと荒い息遣い。ダンテはそれらを、どこか他人事の
ように確認した。
不快。それはこの一方的な暴力じみた行為に対するものではなく、何の抵抗もなく受け入れよがる
自分自身に対して感じるものだ。しかし不快感を募らせていても、あくまで精神的な不快感でしか
なかった。
肉体はバージルの与える快楽にすっかり陶酔している。漏れる喘ぎが、とろりと溶けた表情が、
この責め苦を悦んでいることをまざまざと突き付ける。
こんなものは嘘だ。
そう、思うのは欠片だけ残された哀れな理性。砕かれてしまえば良いものを、崖の縁にへばり
つくようにして、それはダンテの中に居残り続けている。そしてその欠片があるが為に、ダンテは
自分自身を苛んでいた。
「ぁ、ぁあっ、はっぁ……んぅッ……」
蕩けた声音を遮ろうと耳を塞ごうにも、手はシーツを掴んで離さない。声を漏らすまいと唇を
噛もうにも、開きっ放しの口からは唾液がこぼれるだけだ。指先一つ、舌の一つすら思うように
動いてはくれない。むしろ別な入れ物に精神だけ押し込まれたような、そんな錯覚に陥りそうだ。
(――――そうじゃない)
欠片だけの理性。この躰はダンテのものだ。別な、とは、そうあれば良いのに、という現実逃避で
しかない。これは、現実なのだ。紛れもなく、逃げようのない、現実だ。
意識を失えるものなら、失いたい。
バージルに抱かれるのは初めてなどではないし、バージル以外の男に抱かれたことも一度や
二度ではない。しかし今程に、この身を呪ったことはなかった。
忌々しい喘ぎが、飽きもせず口からこぼれ落ちる。
「っあ……ふく、ぅんん……バ……ジルぅ……」
聞くに堪えない甘えるような声。しかしその声は確かにダンテのもので、ダンテは明らかな快楽に
その身を悶えさせている。
ダンテを貫き揺さぶるバージルは、ひどく愉しげだ。
「ここは、どうだ?」
擦り上げるそこは、訊くまでもなくダンテの弱い箇所で。ダンテは涙と唾液とでぐしゃぐしゃに
なったシーツを一つ噛み、肩越しにバージルを睨みつけた。
「っ、て、るく……せ……ぃあっ!」
言い終わらぬうちに、ずく、とバージルがそこを強く突く。ダンテの腰がぶるりと震え、シーツに
どろりとした水溜まりが出来る。今の突き上げで射精したのだ。それ程の、激しい快楽だった。
濡れたシーツに指を這わせ、バージルが白濁をダンテの陰茎に擦り付ける。
「いつもより、濃いのではないか?」
淫らな揶揄に耳まで赤く染まる。達したばかりでゆるく萎えていた性器が、バージルに先端を
擦られただけで再び立ち上がろうとしている。
「溜まっていたのか?」
くつりと、バージルが笑う。ダンテはシーツを握り締めた。
「、んな、こと……ぁあっ!」
やはり言葉を奪うように、バージルがダンテの腰を掴み突き上げる。セックスそのものには
慣れていても、バージルの意地の悪いセックスにはいつまでも慣れない。バージルはそうと判って
いて、いつも責め手を変えてダンテを苛むからだ。
「ない、とは言えまい」
笑う声は不快。そう感じるのは欠片のみ残された理性だけで、ダンテの躰は囁き一つで全身を
快楽に震わせる。
バージルがダンテの肩を掴んで荒っぽく後ろへ引き、自分は腰を落とすことで膝の上にダンテが
座る形を取らせた。ぐん、と後孔が拡がるような痛みと、より深くを突き上げられる衝撃とで、
ダンテは悲鳴にならない悲鳴をあげた。背筋を這い上がるものは強烈な快感だ。ぶるぶると震える
ダンテの、投げ出された脚をバージルが腿をすくい上げるようにして引き寄せる。がばりと脚を
大きく開けさせられて、ダンテは羞恥に全身を染めた。
耳には、低い囁き。
「鏡でもあれば面白いのだが……まぁ、今日は良い。これでも、お前がよく見える」
ダンテは咄嗟に顔を伏せて、不可抗力で自分の起立をはっきり見てしまった。それはどろどろに
濡れて、しかしまだ先端からは止めどなく雫を溢れさせている。
「ひッ……ぁう……」
(――――嫌だ)
バージルが一つダンテを突き上げた。「あっ!」と快楽にけぶった悲鳴が喉をつき、しかし
バージルの囁きは――――
「何が、嫌、だと?」
心の片隅の声が、聞こえぬ筈の声が届いていたかのように、バージルは冷たく言い放ち、
ダンテの耳朶をぢくりと噛んだ。
「好き、なのだろう。これが。――――俺に犯されるのが、嫌、だと?」
「ぁ……っあ……」
がくがくと、上下に躰を揺すぶられる。ぐちぐちと繋がれたそこが卑猥な音をたて、ず、ず、と
バージルの猛った熱がダンテの総てを壊すように最奥を突く。止まず背筋を這う、電流に似た
痺れ。
ダンテは目を瞠り、ただバージルの成すがまま、なき続けるしかない。バージルの支配に馴れ、
服従が悦びとなっているダンテの躰は。
「ぁっ……はぁんっ、んく、ぅんん……っぁあ!」
しかし、欠片が。
(嫌、嫌だ。こんなのは嫌なのに)
バージルからすれば“懲りずに”、ダンテは抗うことをやめない。そして耳には、
絶対者の囁き。
「ダンテ、お前は誰のものだ?」
(俺は、)
ずく。最奥がバージルを締め付ける。耳許でバージルが笑ったのが判った。
「お前はお前のものか? 違うな」
(俺は――――でも、)
無意識に、バージルをぎゅうと強く締め付けてしまったらしい。どくりと内部に迸ったものは、
灼かれると思う程に熱い。注がれる精の熱と衝撃に、ダンテは堪らず自身も白濁を散らせた。
「ぁはあっ、あああっ!」
自分の吐き出したものが腹と内股、そしてシーツをしとどに濡らす。顔にも数滴かかったらしく、
バージルがダンテの顎を捉えて後ろを向かせ、舌で雫を舐め取った。
「悦かったようだな」
揶揄は、しかし冷たい声音。ダンテはぞくりとした。それは甘い痺れなどではなく、確かな
恐怖だ。
「……バ、ジル、……俺は……」
射精と、内部を満たす精の余韻に震えた声。
(俺は、バージル)
バージルの形の良い唇が、薄く開いて言葉を紡ぐ。
「お前は俺のものだ。要らぬ考えは棄てろ」
ただ、従え。
(あぁ、――――)
目の前は黒。バージルの瞳の蒼だけが、黒の中に浮かんでどこまでもダンテを追って来る。
――――追い詰められる。
(どうして、こんなことになったんだろう――――?)
疑問は、従うだけの者には不要な意思。
(棄ててしまえ)
要らぬ思考を棄てて、そうしてただ、支配者の意のままに。
(――――従え)
黒に染まった世界には、もはや一粒の光もない。
こうゆうものをぐるぐるしながら書くのが好きです。
ごめん、ダンテ。…と思わなくもない、かも。