詰物
貸し出し禁止の本を、書棚から抜いては戻しを繰り返す。本を開いているのはものの数分。
しかしそれだけで、内容はほぼ把握してしまえる。
(これも違う)
少し力を加えればばらばらになりそうな、羊皮で装丁された旧い本をバージルは無造作に書棚に
戻した。図書館の地下は、本の匂いしかしない。ほとんど人が入った形跡のないここに、バージルは
もう数日詰めていた。時折人が来ることもあるが、それは図書館の司書くらいのものだ。
閉館時間だとバージルに告げ、そして真っ直ぐ戻って行く。本を探しに来たものは、バージルの
記憶にある限りでは一人もない。
この、さして広くない地下には、あまり人目に触れるべきではない蔵書が納められている。それは
総じて禁書と呼ばれ、日の目を見ることなく眠り続ける書物たちだ。例えば実在はしないとされ、
歴史上から消えたある宗教の教典であったり、黒魔術に傾倒し、気違いと判断され秘密裏に死に
至らしめられた人物の手記であったり、内容は様々だ。
こういった書物が人々に与える影響を考えれば、確かにこれらは地下に眠っていて然るべきなの
かもしれない。今でこそ資料的価値は認められても、これらの記す内容が危険であることに変わりは
ないのだ。
一冊、引いた。それは棚の隅、何冊かの本の影に隠れるようにしてあったものだ。
装丁の手触りが、羊皮と少し違う。しかし何であるかなど、バージルにはどうでも良いことだ。
ぱら、と片手で本を支えながら開く。ところどころ文字の消えかけた部分はあるが、読めないこと
はない。古いラテン語だ。
バージルは文字を目で追いつつ、眉を顰めた。気になる記述があったわけではない。内容が
いかにも血腥く、不快をもたらすものであったからだ。それは一見、刑罰の手段を記してあるように
見えて、実際にはあらゆる方法で人間をいたぶり殺すというものだ。残酷な刑罰はむろん実在する。
現在では処刑そのものをなくした国もあるが、古代においてその考えは一切通用しない。拷問、
処刑。戦争を抜きにしても血を見ずには済まぬ。
何故この本だけが異常視され、こんなところに封じられているのか。バージルが眉を顰めたのは、
こちらの理由を察したからというのが強い。
(これは、)
人の血だ。黒っぽく焦げたような文字は総て、人間の血液で書かれているのだ。そして羊皮では
ない装丁は、人間の皮膚。およそ正気の沙汰ではない。いや、おそらくこれを記した人間は
正気だった。人間は正気のまま、どこまでも残酷かつ非道になれる。だからこそ、これが本として
存在するのだ。
人間の血と皮で綴られた狂った本。見当たらない肉は、捨てたかそれとも。
(喰った、か)
食人行為は道徳に悖る。しかし、道徳や人権などという言葉がそもそも存在せぬ時代があった
のだ。――――野蛮、と言うものもある。が、昔と比べ、現代のひとはそれ程躍進をしただろうか。
バージルはすでに無表情に戻っている。下らぬ、と低く吐き捨て本を閉じた。狂気はどこにでも
転がっているものだ。むろん、バージルにも狂気は宿っている。バージルの場合、ほぼ一方向に
のみ向かう類の狂気だ。
バージルは次の本を取らず、さっと外套を翻して地下を後にした。数日ぶりの地上の空気だが、
特にこれと言って感慨深いものでもない。
図書館の入口で擦れ違った女性が、バージルを見て少し頬を赤くした。そちらを見向きもしない
バージルは、それが珍しくないということすら知らない。とことん、無頓着なのだ。自分のことは
もちろん、周囲の総てに何ら関心を寄せたことがない。そのバージルがある種執着しているものが、
ただ一つ、ある。
ダンテ。
双子の弟。
しかしその半身は、今はバージルの許にはいない。バージルが捨てた。未練などなかった。
目的の為ならば手段は選ばない。だから、捨てた。
残された半身が何を思おうと、バージルには関係ないことだ。だからバージルは、自分がした
ことの非情さを自覚していない。
風が吹いた。外套を翻して通り抜けていく風を、バージルは見送った。風はどこにも吹き荒ぶ。
空がどこまでも同じ空であるのと同じで、風はどこで吹いていようと変わらない。乾いているか、
湿っているか。バージルの足許を過ぎ去った風は、ひどく乾いていたように思う。
あれのところには、風は吹いているだろうか。
(……下らん)
ふとした考えを、すぐさま揉み消した。詰まらないことだ。自ら捨てたものを想うなど。
内心で嗤う。己が半身に並々ならぬ執心を抱いていることは知っているし、それはたとえ死んでも
消えることはないと思っている。が、今第一に考えるべきは自分の目的であり、半身ではない。
捨てたのだ。あの日。だから。
――――考えぬようにと思わねばならないというのは、すなわち半身のことを考えてしまっていると
いうことなのだ、けれど。
陽の傾き始めた薄暗い路地。女が一人、途方に暮れたようにしゃがみこんでいる。膝に頭を
預けている為、顔立ちは判らない。髪は長く、鈍い金。おそらく娼婦の類だろう。女の纏う雰囲気は
夜に侍る人間のそれだ。
バージルはそちらには見向きもせず、傍らを通り過ぎようとした。と、
「ねぇ、」
女が顔をちょっと上げて、バージルを呼び止めた。美貌というには少し違うが、それなりに
整った容貌だ。
「お兄さん、悪いんだけど、手、貸してくれない?」
一人で立てないの。見上げてくる女の顔には、疲れたような笑み。バージルを客として呼び
止めたのではないらしい。
バージルは無言で左手を差し伸べた。女は短く「ありがと」と言い、バージルの手を取る。細く、
白い手だ。骨と皮しかないような腕を引いてやると、立ち上がった女はコンクリートの壁に凭れて
肩を竦めた。
「ごめんなさいね。……」
ふと、バージルの目が女の腹にいく。女はそれに気付いて、くすっと笑った。自嘲するように。
「こどもがね、出来たんだ。だからお店にいらんなくなっちゃって。堕ろせって、言われ
たんだけど、」
出来なかった。
痩せた躰にそこだけふっくらとした腹は、すでに堕胎出来る期間を過ぎているのだと知れる。
性風俗の店にいて、子を孕んでいるとなれば客は取れまい。これからもっと、腹は大きくなって
いく。無理に堕ろせば、母体も無事では済まないだろう。
バージルには女が路頭に迷おうと関係のないことだ。それなら何故足を止めたのか。答えは
判っている。似ていたからだ。顔つきが、では、なく。
女は途方に暮れてはいるが、行きずりの男に縋る素振りはない。ただ、じっと自分の腹を見つめて
いる。
「……下らんな」
バージルは目を細め、言った。女がゆっくり顔を上げる。
「……下らないね。でもね、生きるしかないんだよ。あたしも、この子も」
泥水の中を這ってでも、生きるしかない。死んだら何もかも終わってしまう。
「生きてさえいれば、どうにかなる。人間って、そういうもだから」
女はにっこりとして、コンクリートの壁から背中を離した。バージルが来た方へ歩いていく
足取りは、ふらふらしてはいても危なげないようには見えなかった。
母親になった女は強い。美しく優しかった母を思い、バージルはしかしすぐに母の面影を
打ち払った。女はさして美しい容姿ではなかった。しかし何故だか母が連想されてしまって、
思わず足を止めた。長い金髪の所為かもしれない。母の髪も長かった。
あの女は数ヶ月のうちに子を産むのだろう。生まれた子が仕合わせかどうかなど、バージルには
興味もない。
自分たちは、仕合わせだっただろうか。あれは、母に愛された半身は、おそらく仕合わせだった
だろう。それでは、自分は――――?
(詰まらんな)
昏い碧眼を路地の奥に向け、バージルは一つ息を吐いて足を踏み出した。その手には、いつの間に
か細身の剣が握られていた。
またしても捏造してすいません。
兄行方不明時のお話、兄の場合でした。捏造万歳!すいません。
私が言うのも何ですが、兄って生活が全く想像出来ません。
何食って生きてるんだろう、とか。