浸音
ふと思う。何故、自分はここにいるのだろうか、と。
紅い月がひどく眩しい。バージルは目を眇めた。だらりと両腕を垂らした格好は隙だらけに
見えたのだろう。バージルの背後から這うように近付き鎌を振り上げた悪魔が一匹――――
一体と数えるのかもしれないが――――、しかし兇刃はバージルの血を吸うことはなく、悪魔は
自分の首と胴とが離されていることに数秒気付かなかった。ぼたり、と首が落ちる。血はない。
砂を媒体としている為か、どんなに斬り刻んでも斬ったそこから噴き出すのはざらざらの
砂ばかりだ。
詰まらない。バージルは片刃の剣をまただらりと垂らし、月を見上げた。紅い月は禍々しく世界を
照らし、バージルを包む。人々を蔑むような緋が、バージルには忌まわしくてならない。
自分とは何があろうと交わらない色。蹂躙することは出来ても、真に支配することは出来ぬ色。
蒼は、孤独を湛える。
外套を翻し、バージルは砂だらけになったその場から立ち去った。今夜はこれ以上の狩りを
愉しめそうにない。早々に見切りを付け、切り上げるのが上策と見たのだ。
バージルは双子の弟とともに便利屋などという稼業を営んでいる。もとは弟――――ダンテが
一人でやっていた仕事なのだが、今はバージルも手伝い、いわば荒稼ぎをしている状態だ。
ダンテは放っておけばすぐに散財し、しかも金がなくても欲しいものがあれば我慢の出来ない
たちだ。バージルが綱を握っていてやらねば、その日の食費にすら事欠くことは珍しくないの
だから、放っておけよう筈がない。そのお蔭と言うべきか、ダンテも最近は無駄金を使う頻度が
減り、大人しくしている。我慢を覚えたのかどうかは、まぁ怪しいところだが。
バージルがおらねば、ダンテは本当にだらしがない。物ごとに頓着がない点ではバージルも
変わらないが、まず金に対する認識が甘すぎる。だからバージルが見ていてやらねばならぬのだ。
どこの子供か――――いや、子供よりもたちが悪いと、バージルは肩を竦めながら笑う。そして、
ふと、気付く。
それは言い知れぬ違和感。
事務所兼自宅の建物は、ダンテが一人で便利屋をしている時に建てられたものだ。その為、
事務所の内装はひどく野暮ったく、バージルの好む形とは程遠い。
自宅の玄関と兼ねている事務所のドアを開ける。真っ暗な事務所に、淡く月の光が射し込んで
いる。時刻は深夜二時。ダンテは既に眠ったのだろう。建物を静寂が包んでいる。
バージルは事務所の奥のドアから廊下へ出、真っ直ぐ自室へと向かった。明かりもつけずに
階段を上りる。自室には、気配がひとつ。予想していたことであり、バージルはやはりと思うだけで
驚くふうもない。
ダンテはバージルが不在の夜、決まってバージルのベッドに潜り込んで眠りに就く。だから
バージルは慣れたもので、ダンテが自分の部屋にいることに今更驚きはしないのだ。
ドアを開けると、案の定ベッドには人らしき山がひとつ。室内は真っ暗だが、バージルの目は
一条の光さえなくともものを映すことが出来る。悪魔の血の濃いバージルにとっては、その程度は
特殊でも何でもないことだった。
バージルはベッドに近付き、ゆるりと腰を下ろした。ぎし、とスプリングが軋む。薄手の毛布を
剥ぐと、ダンテの寝顔が覗く。バージルは枕許に手をつき、躰を屈めた。スプリングがまた軋む。
ふと、ダンテの寝息が途切れた。
「……ん、……?」
長い睫毛が震え、瞼が重たげに持ち上がる。蒼い瞳は闇を映して黒真珠のように深い。
「ぁ……バージル……、」
ほわりとダンテが笑みを浮かべた。毛布の中から手をごそごそと出し、躰を屈めたバージルの首に
腕を回そうとする。
「バージル、」
少し掠れた声でバージルを呼ばわり、抱擁を求めてか伸ばされる腕。まるで帰りの遅い親を
待ち疲れて眠ってしまった子供のようだと、バージルは思った。事実、ダンテはいつまでも子供だ。
体躯こそ大きくなったし、体力もあるが、中身は子供以外の何ものでもない。
バージルはダンテの腕を自分の首に回させ、抱き寄せてやった。ぎゅう、としがみついてくる腕は
強いが、苦しくはない。むしろ可愛いものだ。
「ダンテ、少しそちらに寄れ」
耳許に吹き込むように言えば、ダンテは小さく頷きしかしまだ半分以上眠った状態でいるらしく、
躰は横たわったまま僅かも動かない。バージルはちょっとため息を吐き、ダンテをしがみつかせた
まま躰を起こした。毛布ごとダンテの脚を抱え、造作もなくベッドの端へ寄せてやる。バージルと
ダンテとはほぼ同じ体躯であり、体重もほとんど同じだ。しかしバージルの膂力にかかれば
ダンテなどは重い部類に入らない。座った姿勢で抱き上げることも容易なのだ。
ダンテの躰に巻き付くようになった毛布を剥ぎ取り、バージルはダンテの隣に自らも横たわって
毛布をかけ直した。ダンテはバージルに抱きついたまま、ぴくりでもない。どうやらこの体勢の
まま眠ってしまったようだ。仰向けになったバージルに上体を乗せる形で眠るダンテの、形の
良い頭をするりと撫でる。艶やかな髪が頬や顎に触れて、こそばゆい気もするがそれ以上に
心地好く、バージルは瞼を伏せた。ダンテの寝息が肩口をかすめる。
「……んん……」
寝言と言える程ではない、吐息。バージルはダンテの腰に腕を回してぐいと引き寄せ、ダンテを
組み敷くように体勢を入れ替えた。無理のある寝返りだったわりに、ダンテは目覚めない。
バージルが首筋や肩口に噛み付いても、ダンテは吐息を漏らすだけで覚醒しはしなかった。
バージルの噛んだそこは紅く熟れて、血こそ滲んでいないがくっきりと痕が残る。ダンテは
どんなものであれ、緋が似合う。猛々しい魂に相応しい赤を、ダンテもまた好んで身に着けて
いる。
バージルとは対称の、ダンテの色。
もっとも似合うのはダンテ自身の血の赤だ、とバージルは思う。真紅よりも深く、濃く、黒の
一滴混じった紅だ。
組み敷いたダンテの膚を、ぎちぎちといくつも噛む。夜が明けて、ダンテが目覚めれば片方
ばかり真っ赤に染まった肩と首に驚くだろうか。鏡の前で蒼くなり、兄の名を叫ぶダンテを
想像して、バージルはくつりと喉の奥で笑った。
感情そのものが稀薄であるバージルに感情を持たせるものは、ダンテという存在以外にない。
バージルはそれを無意識に自覚しており、だからこそダンテを総ての中心にしがちなのだ。
ダンテがいるからこそ、バージルはここに在る。しかし。
奇妙な違和感はバージルの内部に巣食って離れず、時折顔を覗かせる。
何故、自分はここにいるのか。
小さな疑問が、ふつりと沸いては消える。
バージルはダンテをきつく抱き締め、眉間に皺を刻んで意識を閉じた。余計な何かを思わぬ
ように、自らを暗い淵に投げ込むことで考えることを放棄する。
思ってはならないこと。
世界を崩壊しかねぬ思考を閉じて、暖かな夢を臨む。
上向きに下向きな兄入ります。意味がわかりませんが。
兄は知らない間に知らない世界に浸ってると良い。
巻き込まれるダンテが可哀想で良い。←ポイント。