抱擁
夜更けに、バージルはふと目を覚ました。
枕元に置かれた時計を見やると、午前三時を指している。昨日はこの時間に寝たな、
とどうでも良いことを思い出し、視線を転じて隣に眠る男に移す。
いかにも安らかな寝顔に、鉄面皮と言っても過言ではないバージルの頬が、僅かに緩む。
男はバージルの双子の弟で、名はダンテという。
ほんの一時間程前、バージルはベッドに入ったばかりだった。その時、
まるで見ていたかのようにダンテが来て、同衾をねだった。
珍しいこともある、とバージルは思いはすれど声に出しては言わなかった。
ダンテと同衾することに、バージルには何の不都合もなければ、何ら嫌と感じることもない。
むしろ、滅多なことでは動かぬ心が、嬉しいと感じていることに気付くのだ。
そうしてバージルは、この弟を愛している自身に気付く。
口に出して言ったことは、今まで一度たりともない。それはこれからも変わらず、
死ぬまで言葉にすることはないだろう。
言葉として声にしてしまった瞬間に、それは総て虚無に変わる。だから、想うだけで
止どめるのだ。
人間としての感情に希薄なバージルは、生まれ落ちて以来、この弟以外のものを愛しいと
思ったことはない。勿論母は愛していた。失った時のどうしようもない哀しみは、
言葉には出来ぬ深いものだった。
が、あれがもし、ダンテだったなら、と思う時がしばしばある。
(あぁ……)
駄目だ。
バージルは目を閉じ、無理矢理自身を眠りに引きずり込んだ。
考えてはならない。想像してはならない。
どんな形にしろ、誰かの手によってダンテを奪われるなど、冗談ではない。
これは俺のものだ。
これは俺のものだ。
言い聞かせるように、何度も何度も繰り返し――――眠りに落ちた。
翌日、暮れ。バージルはダンテを伴い、街の路地裏を歩いていた。
散歩でもなければ買い物でもない。仕事だ。
ダンテと二人揃っての仕事は久しぶりだった。彼らは異形のものを狩ることを生業とし、
金を得て暮らしている。自然、危険な仕事が多くなるのだが、バージルはそれで傷を
負ったことは一度もない。
負傷するのは、大抵ダンテだ。普通の人間ではない彼らは、傷を作ってもすぐに癒える。
痛みはあるが、滅多なことでは死に至らぬのだ。
それでも、バージルはダンテが怪我をするのを、よしとはしないが。
今日の仕事は、路地裏に度々現れ人を襲う“何か”を排除すること。依頼主は、
よく双子に仕事の取次をする酒場の親爺だ。
「わけの判らねぇ屍体が増えて、迷惑してる」
死ぬのは、社会から爪弾にされた者ばかりで、尋常ではない死に方をしているにも拘らず、
報道されないのはそのためだ。親爺が迷惑だと言ったのにはそのこともあるのだが、客が減る、
ということの方が大きいのだろう。
誰も、はらわたを引き出された屍体や、胴を引き千切られた屍体など見たいとも
思わない。
報酬はさほどでもなかったが、ダンテの「面白そうだ」という一言で決まった。
ダンテが仕事を選ぶ基準は、その時の気分が八割、残り二割は仕事の内容だ。
あえて二人で当たろうと決めたのは、バージルだった。ダンテは一人で充分だと言ったが、
何者の仕業かも判らず、単独犯かどうかも知れていない状況では危険に過ぎる。そう言って、
バージルは有無を言わせずダンテを押し切った。
何かあっては、困るのだ。
それは口にはしなかったが。
薄闇を纏った路地裏に、バージルとダンテの靴音が響く。ふと、珍しく黙りこくっていた
ダンテが、おもむろに口を開いた。
「なぁ、」
応じるべき、か。
「……何だ」
「並んで歩いてて、どうなるんだ?」
「まずは情報だ。ターゲットのことは何一つ判っておらんのだからな」
「悪魔がやったんじゃねぇのか?」
「断定は出来ん。……確かに、人間の仕業とは思えんがな」
「人間だったとしたら、……」
「ただの殺人狂だ。それ以上は考えるな」
「……そうする」
またしても、靴音のみが路地裏に響く。日は随分と傾き、光の射さぬ路地裏は既に暗い。
また、ダンテが呟くように言った。
「別れて探るか」
独り言のようなそれに、バージルは何も答えなかった。折しも、路は突き当たり二手に
別れている。右に行けば、件の酒場。左に行けば、例の殺人現場である。
バージルは流し目を呉れるようにダンテを見た。
「……右、」
「――――左だ」
同時に、二人は真逆を示した。
バージルは右に折れ、酒場に行く路を。ダンテは左、まだ血糊の残る殺人現場を。
二人は顔を見合わせることも、言葉を交わすこともなく、それぞれの選択した路に進んだ。
何かあればすぐに駆け付けられる距離――――そう見たからこそ、バージルは何も
言わなかった。
暗がりに浮かぶ、安いネオンの灯る古ぼけた店。連続で人が異常な殺され方をしたと
いうのに、客足はまあまあだった。
店に入ると、カウンターの中で客と一杯やっていた親爺がバージルに気付き、
おっという顔をした。
「ご苦労さん。一人かい?」
親爺には、二人で仕事にあたるとは言っていない。ダンテをよく知っている
から、何気なく訊いただけだろう。
バージルは頷くでもなく応じる。
「まあな」
「バージルよ、ありゃあやっぱり“アレ”の仕業なのか?」
カウンター席に腰掛けたバージルに顔を寄せ、親爺はこそこそと訊いてきた。
「まだ判らん。何か思い当たることはないか?」
「それがなぁ……俺が聞いたのは悲鳴だけで、それ以外は何も聞いちゃねぇんだ。
そん時店にいた連中も、俺と同じで悲鳴以外は聞いてねぇ」
「悲鳴というのは、」
断末魔か、と問うバージルに、親爺はちょっと考えるような素振りをした。
「そう言われりゃ……いや、悲鳴が聞こえて飛んでったら、もう屍体しかなかったんだ。
すげぇ悲鳴だった」
出合い頭の不意を衝いて、一呼吸の間に殺したのか。悪魔のしたことだとしたら、
少し不自然という気がしなくもない。あれらはまず、人の恐怖を食らい、
そして血肉を喰らう。
そう。そうだ。
「屍体は見たか?」
ぎ、とバージルの無意識の睨みを食らった親爺は、喉の奥で掠れた悲鳴を上げた。
「みっ……見た、見たくもなかったが、見ちまった!」
「街灯の下に転がされていたのか?」
「あ、あぁ」
「では、屍体の損傷は。肉を喰われたような痕はあったか?」
「そっ、そんなもん覚えちゃいねぇよ! あんなもんをじっくり見ようなんて
奴ぁ人間じゃねぇっ」
「……死んでいるのは人間だと、すぐに判ったんだな?」
親爺はその光景を思い出してしまったのか、ぐっと胃の辺りを押さえ、込み上げる
吐き気を堪えているようだった。
「……あぁ、そうだ」
それを聞ければ、充分だった。バージルは礼も言わず店を飛び出した。
いつもは沈着冷静を擬人化したようなバージルだが、今はそうもしていられなかった。
ダンテ。口の中で重く呟く。
三度、ダンテの名を繰り返した時、先刻親爺に聞いた、屍体のあった街灯に行き当たった。
ダンテが、何ごとかといったふうにこちらを見ている。
「っ、ダンテ」
この短い距離を駆けた程度では、息も上がらない。が、今は違った。
こちらに気を取られたダンテの、その背後の暗闇に。
狂った瞳が獲物を狙う。
――――殺気が、ない。
「どうした、バージ……っ」
ダンテの言葉が半端に切れる。闇が、不意を衝いてダンテを襲った。
「……ッ!」
街灯の下で、それは人工の光を弾き鈍くきらめいた。そして、まるで花が散るかのように、
ぱっと朱が舞った。
ダンテの首を、兇刃が掻き斬ったのだ。
バージルはダンテの血が散る瞬間、既に踏み込み閻魔刀を抜いていた。音もなく刃が一閃し、
とん、とアスファルトに何か物体の落ちる音がする。
人の腕だ。
しかし人間のそれとは、やや形の異なる腕であった。長く伸びた爪は湾曲し、肌は赤黒く、
ケロイドのように爛れている。
バージルはそんなものには目も呉れず、眼前のものだけを見据え刀をもう一閃させた。
二度の抜刀は、およそ瞬き程の間でしかない。
確かな手応えを感じた時、背後でダンテの躰が傾ぐのが判った。
バージルは刀を引き、ダンテの脇をすくうように躰を支えた。アスファルトに膝をつき、
ダンテをそっと壁に凭れさせる。吹き出した血は、まだどくどくと溢れていた。
血、――――ダンテの、紅い生命の流れ。
バージルは、己の思考が止まるのをはっきりと感じた。いや、止まったわけではない。
それは、まさに暴走と呼ぶに相応しい。
「殺しはせん。――――苦しみ、藻掻け」
感情のこもらぬ平坦な声。そして、
獣の雄叫びのような絶叫に、驚いて店を飛び出して来た酒場の親爺は、人でもなく、
悪魔でもない出来損ないの化け物を見た。
不格好な化け物は、一目で先日までの殺人事件の仕手と知れた。が、その化け物は生きては
いるものの、最早死んでいるも同然だった。
斬り落とされた両腕。
潰され砕かれた両足。
裂かれた腹からはみ出した、生臭い臓腑。
しかしどれも致命傷ではなく、化け物は動くことも、死ぬことも出来ずにいるのだ。
親爺は立ち尽くしたまま、この残虐な光景にただ恐怖を覚えた。
確かに、ここ連続して起こった殺人は、人の成す所業とは思えぬ惨さがあった。
が、これはどうだ。苦しみを与えるためだけの、残忍な拷問ではないか。
悪魔だ。
親爺は恐ろしさに打ち震えた。
化け物は、未だ喘鳴を繰り返していた。
止血はせず、しかしダンテの首からは、もう血は流れてはいなかった。
ベッドに横たわらせ、服を脱がせる。血を吸った服は処分するしかないだろう。
バージルはダンテの胸に手を置いた。意識はないが、息はある。心臓は動いている。
――――死ぬことはない。
しかし、血が流れた。
バージルは後悔せずにはおれなかった。何故二手に別れることを諾としたのか。
何故もっと早くあの化け物に気付かなかったのか。
人でありながら人を食らい、下等な悪魔に付け込まれ躰を半ば乗っとられたのだろう。
憐れではある。が、バージルにはどうでも良いことだ。
ダンテを傷付けたことが、バージルにとって総てなのだ。
赦せよう筈がなかった。一息に殺してやることなど、誰がするものか。
ぐ、とダンテの胸の上で拳を握る。と、
「……ぁ……バ……ジル……?」
掠れた声に、バージルははっとした。
「……こ、こ……?」
ダンテの薄く開いた瞼の奥で、淡い碧眼がゆるく動く。
「始末はつけた。気にせず眠れ」
目を閉じさせようと、掌でダンテの瞼を覆う。
「眠れ」
繰り返すと、ダンテの手が気怠げに持ち上がり、瞼に置いたバージルの手に重ねられた。
「わ、ぃ……しく、じ、った……」
「いや、――――」
「……バ、ジル、……」
「眠れ、ダンテ。何も考えるな」
すう、とダンテの意識が遠のくのが感じられた。ようやく眠ったらしい。バージルの手に
乗せられたダンテの手が、ぱたりとシーツに落ちる。
規則的な寝息が静寂に響く。ダンテは眠った。けれどバージルに眠気は襲って
来そうにない。
血が騒いでいるのが、手に取るように判る。
「……ダンテ、」
囁くように、繰り返し。
「ダンテ、……」
眠る双子の弟を、バージルはいつまでも見つめていた。
生まれ落ちたその瞬間より、あれは既にして己のものだった。
誰にも渡さない。
誰にも触れさせない。
血も肉も、総ては己のもの。
もしも誰かに奪われるならば、その前に、
――――この手で死を与えよう。
微温湯の死を。
愛するものに、抱擁と、死を。
屋根裏に置いた続き物と、どこかシンクロしてる部分がなくもない…
私の中で、バージルとダンテは確かにお互いを愛してはいるんですけど、
それを口に出しては言いません。
バージルの愛は破滅的。ダンテは諦観的、とでもしておきます。