水晶クリスタル









 げほっ、とダンテが咳をした。続けて堪らないように咳き込み始めるので、バージルは片方の 眉を吊り上げた。

「どうした」

 苦しいのか、躰を前のめりにして咳をするダンテの背を、バージルはさすってやる。 そういえば、ここのところ、ダンテはよく咳き込むことがある。背中をさすったところでましに なるとは思わないが、気休めにはなるだろう。

 返事をしたくても咳が邪魔をしてろくに言葉も紡げぬらしく、ダンテは咳の合間にこちらを 肩越しに見やった。ダンテの目が赤い。バージルはダンテの咳が止むのを待った。
 ようよう咳が止まり、ぜぇ、と大袈裟ではなく怠そうに息を吐いたダンテの躰を、バージルは 抱き上げてソファーに座らせた。ダンテの頬に左手を添えてこちらを向かせ、右手をダンテの 額に当てる。

「……熱があるかもしれんな」

 バージルの手は体温計ではなく、確かなところは判らない。ダンテの平熱は常時高めであり、 余計にはっきりとしなかった。ダンテはバージルの冷たい手が気持ち良いのか、どことなく うっとりと目を閉じている。それが猫のように見えて、バージルは思わず笑みを浮かべた。

「待っていろ、体温計を取って来てやる」

 言って、立ち上がりかけたバージルだが、不意に服の裾をぎゅっと掴まれてソファーから 離れることが出来なかった。見れば、ダンテがやけに不安げな目でこちらを見上げている。 やはり熱が出ているのか、しっとりと潤んだ瞳で上目遣いに見つめられるのはなかなか…… ではなく。

「ダンテ?」

 呼ばわれば、ダンテは恥ずかしそうに目を逸らし、しかし手はバージルの服を握り締めた まま、

「……行っちゃいやだ……」

 などと。

 どこの子どもかと、バージルは呆れることはしなかった。一瞬目を瞠りはしたものの、すぐに 笑みを湛え、腰を屈めてダンテの脇と膝裏に手を差し込んだ。反動もつけず、自分とほとんど 同じ体躯をしたダンテを、まるで子どもを抱っこするような軽さで横向きに抱き上げる。 そんなことをされるとは思ってもいなかったのだろう、ダンテが目を忙しなく瞬かせた。

「バージル?」

「こうすれば、離れずに済む」

 救急箱を取りに行くだけのこと、急げば一分も掛からない。しかしダンテはその短い時間で すら離れていたくないと言うのだから、抱き上げてともに連れて行けば問題はなくなる。 バージルがそう言えば、ダンテはぱちりと目を瞬かせてバージルの肩に額を押し付けた。 ありがとう、という小さな小さな囁きを、バージルは聞き逃したりはしなかった。





 それから間もなく、ダンテはベッドから起き上がれない程のひどい風邪を引き込んだ。 体温計の示す数値は三十八度八分。しかし熱は下がるどころか、まだ上がっていく気配すら あり、予断は許されない。
 医者には、診せない。血液検査などされれば、かえって面倒なことになるのは目に見えて いるからだ。どんなにうろんな患者でも金さえ払えば看るという医者がいるにはいるが、 バージルは端から、ダンテを医者に診せようとは思ってもいなかった。生死がかかっていれば、 なおのこと誰かにダンテを預けるなど出来なかった。
 意地ではない。ダンテはバージルのものであり、ことダンテの命に関して、バージルは自分 以外の何ものにもそれを譲る気は一切ないのだ。



 ダンテが寝ているのは、バージルのベッドである。一度はダンテ自身のベッドに寝かせたの だが、何故だか嫌がったので自分の部屋に移してみたところ、ダンテは安心したようにすぐに 眠ってしまった。そういう経緯があるので、バージルのベッドはダンテに占拠されたままに なっている。
 バージルの寝る場所といえば、ダンテの部屋ではなくこちらの部屋――ベッドはダンテに 明け渡している為、椅子に腰掛けたまま浅く眠るだけだ。ダンテは熱が高い為にほとんど寝て 過ごしているが、目が覚めたときにバージルがそばにいないとなると、軽いパニックを起こす のだ。

 目が離せない。

 ダンテが風邪をこじらせるのは珍しいことではないが、こうも精神面がやられるなどめったに ないことだ。

 バージルはまた眠ってしまったダンテの頬に指で触れた。赤く染まっているだけあって、 暑い。ベッドに寝かせてもう丸二日になるが、熱は下がらずダンテは自力で起き上がること すら出来ずにいる。生理的な排泄衝動を訴えたときは、仕方がないのでバージルが抱き上げて 連れて行ってやった。その間もダンテの意識は朦朧としており、快復しても覚えてはいない かもしれない。
 ふと、誰かの声が聞こえてバージルは顔を上げた。客か、留守を決め込むことは出来るが、 声の主は馴染みの情報屋のものだ。バージルは肩を竦めて腰を上げた。ダンテはしばらく起き ないだろう。



 エンツォ・フェリーニョは相変わらずぱっとしない風体で、事務所の壁に掛かった剣を眺めて いる。バージルが居住スペースから姿を現わすと、「よぅ」と軽く手を上げて見せる。

「あんた一人か?」

 ダンテもいるにはいるが、起き上がれる状態ではないので「そんなところだ」とでも言って おく。エンツォはべつにダンテ個人に用というわけではないらしく、

「そうかい。じゃあ後であんたから伝えといてくれよ。大事な飯の種だ」

 満面の笑みが逆にうさん臭く見えてしまうのだと、この情報屋を名乗る仲介屋は自覚していない のだろうか。しかしバージルは眉を顰めることもせず、あくまで淡々とエンツォを促した。

「早く話せ。俺は暇ではない」

 ダンテを看ていてやらねばならないのだ。今し方寝付いたところとはいえ、いつ目を覚ますか など予想がつかない。出来るだけ早く、ダンテのそばに戻ってやりたかった。
 大した過保護ぶりだと、エンツォがダンテの状態を知っていれば言ったかもしれない。お前の 弟はいくつの子どもかと、揶揄い半分、呆れもするだろう。しかしバージルは他人がどんな反応を しようとも、まるで気にも留めない。今のダンテには、自分がついていてやらねばならない のだ。
 バージルの苛立ちを察したのか、エンツォがにやわに慌てて飯の種とやらの話をし始めた。 わざわざ事務所に出向いて来た理由は、とにかく急ぎの依頼であるかららしい。どんな大層な 仕事かと思えば、ダンテの嫌いなただの護衛依頼だ。急ぐ理由は簡単で、護衛の対象日時が 明日だからというそれだけの話である。

「ダンテの奴がこの手の仕事を嫌がるのは知ってるよ。だから、頼むよ、バージル」

 ダンテを説き伏せてくれ、とエンツォは手を合わせなどする。いくら頼み込まれても、 ダンテがあの状態では仕事は無理だ。バージルも、ダンテのそばを離れるわけにはいかない。 仕事の選り好みは一切しないバージルだが、今は状況が違った。

「悪いが……」

 断ろうと口を開いたとき、がしゃん、と硝子の割れる大きな音が響いてバージルとエンツォは 同時に目を見開いた。とくにバージルしかいないと思っているエンツォの驚きは激しい。

「な、なんだ!?」

 困惑するエンツォがバージルを見やるが、バージルには説明をしてやる時間も余裕も なかった。

「その依頼は断る。相手がごねるようなら殺す。とにかく今は動けん」

 早口に言い、バージルはエンツォの顔も見ずに居住スペースへ取って返した。瞬き一つの間に、 二階へ駈け登り自室のドアを蹴破る勢いで開放つ。

「ダンテっ!」

 殺風景と言うのだと、一応自覚はしている極めてものの少ないバージルの部屋。南東の壁沿いに 鎮座するベッドの傍らで、ダンテが尻餅をついたように床にへたりこんでいる。その周囲は 水浸しで、散らばった硝子の破片が窓から差し込む光を弾いてきらきらと輝いて見えた。
 ダンテが首を巡らせてこちらを向く。悄然としたふうのダンテの目には、涙があった。

「……バ……ジル……」

 悲愴な、掠れた声。バージルは硝子の破片など目も呉れず、まっすぐダンテのそばに駆け寄って 少し痩せてしまった躰を抱き起こした。靴下を履いていない足が硝子を踏み付けぬよう、横抱きに してからベッドに横たわらせる。大人しくされるがままになっているダンテの手に赤いものが 付いていることに気付き、眉根を寄せた。

「切ったのか。血が出ているな……」

 大方ベッドから下りようとして、サイドボードに置いてあった水差しを引っ掛けでもしたの だろう。砕けた硝子で手を切ったらしく、すっぱりと鋭く切れている。
 バージルはシーツの端を裂いて、簡易の包帯にした。傷自体は浅いので、すぐに塞がる筈だ。 血は、消毒を兼ねてバージルが舐め取った。こんなときですら、ダンテの血は甘いと思って しまう。
 切れ端を手に巻き終えると、ダンテはその手をバージルの首に回しそうとする。バージルが ダンテに覆いかぶさるように躰を倒してやると、子どもが母親にするようにダンテがしがみついて きた。思いの外、力が強い。ぎゅうっと抱き付かれる。

 バージル。バージル。

 何度もうわ言のように繰り返すダンテを、バージルも抱き返してやった。こうでもしなければ 不安でならないのだと、如実に判ってバージルは目を細めた。

「ダンテ、大丈夫だ。俺はここにいるだろう?」

 聞こえているかどうかは判らぬが、バージルはダンテの耳に吹き込んでやった。ただの風邪だが、 相当ひどくこじらせているダンテは、精神がおよそ尋常ではなくなっている。だが、医者は 駄目なのだ。ダンテは自分が守る。他の人間には絶対に触れさせない。だが、

(本当に、このままで良いのか)

 彼らは常人とは躰の構造が違っているとはいえ、少なくとも半分は人間なのだ。このまま、 あまり高熱が何日も続くようでは、死ぬことも有り得ないことではない。
 全身から血の気が引いていく。
 死とは何か。バージルにとってのそれは、すなわち奪われることである。理不尽な略奪。 己の力は及ばず、無力を見せつけられながら、大事なものを目の前で蹂躙されること。

「ダンテ、」

 大丈夫だと、その言葉が欲しいのはバージルのほうだ。大丈夫。大丈夫。笑って、もう大丈夫だと 言って欲しい。

「大丈夫だ、そうだろう、ダンテ」

 俺がこうしてそばにいるのだ。大丈夫でないわけがない。そう、その筈だ。

 無意識のうちにきつく抱き締めすぎていたらしく、ダンテが苦しげな呻きをもらして、 バージルの背中を力の入らぬ手でぽすんと叩く。

「……ージル……」

 嗄れた声で名を呼ばれ、バージルは咄嗟に腕を緩めた。しかし、

「は……、さ、ないで……そ……ま、ま……」

 離されたくないと、ダンテは訴えてバージルの頬に自分の頬をすり寄せてくる。バージルには もちろん離すつもりはないが、腕を緩めたことでダンテが早とちりをしたのだと判った。
 ダンテの熱はまだ下がっていないようだ。体温計で計ってみなければ正確には判らないが、 すり寄せられた頬がひどく熱い。

「……に……ちゃ……、……」

 朦朧とした意識の中で、ダンテがぼそぼそと何ごとか繰り返している。幼い頃、ダンテは バージルを「お兄ちゃん」と呼んでいたが、それが口をついているということは、もうほとんど 意識がないということだろう。
 小さかった頃から、ダンテは年に一度か二度は、どこからか風邪をもらって来ては寝込んで いた。今もそれは変わっていないらしく、つまりバージルがダンテを捨てたあの時期にも、 ダンテはきっちり熱を出していたのだろう。寝込んだダンテの傍らに誰がいたのか、バージルに 知る術はない。

 あの訣別を後悔することはないが、ふとしたときに口惜しく思うことはある。だから今は、 何があろうとダンテの傍らにいてやらねばならないと思うのだ。

 そばにいて。
 お願いだから、
 すてないで。

 ダンテを独り、置き去りにあの日。あの一年間。ダンテは何度、今と同じ言葉を繰り返したの だろう。けっして後悔はしないけれど、突き付けられる罪の重さに目を開けていられない。

「ここにいる。お前のそばに。だから」

 どうか早く、善くなるように。

 バージルはダンテが苦しくない程度に、強くダンテを抱き締めた。





 三日後――ダンテを苦しめていた熱はすっかり下がり、咳も善くなってダンテは晴れて 全快した。迷惑かけてごめん、などと殊勝なことを言うダンテに、バージルは一つ、提案を した。

「悪いと思っているなら、今日一日、俺の言うなりになれ」

 面食らって驚く(何を想像したのか、軽く蒼くなっていた)ダンテを、バージルは一日、 猫でも愛でるかのように膝に抱いたまま過ごし――ダンテはバージルの不審な行動を気味悪がり ながらも、どこか嬉しそうにしていたのだった。



















戻。



兄視点、風邪ダンテでございました。
リクエストにお答え出来ているか、ちょっと不安です。
よろしければ、お納め下さい。