瑠璃
造作が良いとは間違っても言えぬ平凡なアパートの一室、西向きに切り取られた窓から下へ
視線をやれば、さして広くはない公園が見下ろせる。傾きかけた陽が窓を茜色に染めようかと
いう刻限に、その公園をぼんやりと眺めるのが男の日課であった。
治安の良い街は土地の値段も上がる。当然アパートの部屋代も高くなる為、男のような
薄給では精々この街くらいが妥当なところだった。とは言え治安が良いわけでもなく、かと
言って悪いと言い切れる程でもなく、良くも悪くも中層に位置するこの街に、男は半年前に
越して来たばかりだ。以前はもっと、なりの良いアパートに暮らしていた。質で言えば上の下程の
アパート代も楽に払っていたし、遊ぶ金にも困らなかった。そんな生活が、半年前に忽然と男の
前から消えてしまったのだ。
何故そうなったかという理由は、わざわざ語る程のことではない。どこにでも転がっている、
ありきたりな失墜談だ。男は全精力を傾けてその記憶を己の中から消し去ったのだ、今更思い
出して語るなど、死んでもしたくはなかった。
一度最悪にまで落ちた生活を、元のように戻すには途方もない時間がかかる。記憶を消すことに
は成功したものの、気力をまるで失った男が真っ当に働くには世間はあまりに男に対して
冷たかった。
結局、男は夜の街で飯の種を探る他なかった。
夜と昼が逆転した生活に、初めこそ慣れず、またこうなったことを恨みもした。夜明け頃の
まちの静けさはまるで己を嗤っているようで、男はいつも足早にアパートに帰るのだ。飯も
そこそこにベッドに潜り込み、ぐっと目を閉じて眠りに落ちる。そうすれば、束の間でも現実から
逃げることが出来る。そして夜になれば重い足を引きずって仕事へ――その繰り返しだった。
お蔭で男は朝日が嫌いになった。昼間の道を笑い合いながら歩く人々も大嫌いだ。夜の街で慾も
あらわに散財していく馬鹿な連中も、どうあっても好きにはなれない。男は世界を憎んだ。
どうしてこんなにも詰まらないのかと、どうしてこんなにも馬鹿馬鹿しいのかと、ベッドの中で
独りぐるぐると考える日々……女を連れ込む余裕も男にはなかった。
そんな日がふた月も続いたあるときのこと。
男は髭の伸びかかったぱっとしない顔を、何気なく窓の外へ向けてみた。眼下には公園。
子どもがちらほら、甲高い声を上げて遊んでいた。はしゃぐ声など煩いばかりで、今まで公園を
見下ろしたことなどなかったのだけれど、この日はどうかしていたのだろう。それが男の、
ある意味で大きな転機となった。
日中ですら、路地にはあまり陽の光が届かず薄暗さが拭えない。その路地を、ぴょこぴょこと
跳ねるように行く小さな影が一つ。跳ねながらよく前へ進めるものだと、感心しながら歩く影が
もう一つ。前者の影はダンテという名で、後者はバージルという。さらさらの銀髪とくりっとした
碧眼を持つ、見目可愛らしい双生児だ。
もっとも、バージルは自分がダンテと同じように可愛いなどとは思ってもいない。確かに
見目こそ似ているかもしれない(一卵性の双子なのだから当たり前なのだ)が、バージルは
ダンテと自分とが似ていると思ったことは一度もない。ダンテは手放しに可愛いが、自分には
そんな言葉すら当てはまらないとバージルは思って疑わない。
彼らは実際、まるで正反対の印象をひとに与える双子だ。黙って並んでいてもその差が歴然と
判ってしまう程、纏う雰囲気は違っているのである。バージルはひどく大人びていつも冷めた
ものの見方をするが、逆にダンテは歳相応の子どもらしいやんちゃな坊やだ。生まれた時刻も
ほとんど違いのない双子だというのに、彼らはあまりにも正反対の性質を持っているものだから、
近所では首を傾げるものも少なくなかった。
「走ると転ぶぞ。少し落ちつけ」
言って聞かせてもあまり効果がないことは、バージルには判っている。ダンテは全く言うことを
聞かないわけではないのだが、いかんせんすぐに忠告を忘れるところがある。
ダンテはとりあえず跳ねるのはやめて、バージルの傍らに寄り添うように並んだ。
「ねぇ、バージル、早く行こう?」
バージルの腕にしがみつくようにして、ダンテが促した。その目がきらきらと輝いているのへ、
バージルはひょいと肩を竦める。判った、という無言の意思表示をダンテは正しく察したらしく、
ぱっと笑顔を咲かせた。
彼らが今から向かおうとしているのは、大きなテーマパークでもなければレジャー施設でも
なく、どこにでもあるただの公園だ。そんな平凡な公園へ遊びに行くというだけで、こうも
楽しみにする子どもも珍しい。
ダンテはいつもこうだ。ちょっとそこまでの簡単なお使いにしろ、
ダンテにはあまり用のない図書館に行くときも、バージルの腕にしがみついてにこにこしている
のだ。何がそんなに楽しいのかと問えば、バージルと一緒だから、と満面の笑みで答える
ダンテを、可愛いと思わないわけがない。
バージルがダンテのふわふわの髪に口付けてやると、ダンテは背伸びするように首を伸ばして
バージルの頬に唇を押し付けてきた。そしてにっこり笑い、
「お返し」
……だそうだ。礼に唇に口付けてやると、ダンテはいっそう笑顔を咲かせて、バージルをも
嬉しくさせた。
可愛いダンテを連れ、いつもの公園に着いたのはほんの五分程後のこと。家から歩いて十分も
かからない距離だが、彼ら以外の子どもは皆、母親に手を引かれるなりして公園を訪れる。
いかに家が目と鼻の先にあるとしても、必ず大人が同行するのが専らだ。それはこの地区の
治安がいまいちよろしくないからで、実際親が目を離した隙に、子どもが攫われるという事件が
過去に幾度もあった。金に余裕があれば、もっと治安の良い街に移り住むことも出来ようが、
そんな家庭は始めからここに住んではいないだろう。それでもこの街はまだましなほうなの
だから、妥協するしかないのが実情だ。
そんな街の公園に、子どもが二人、親に伴われずに訪れるというのは、たいそう注目されて
しまうものだ。あそこの親は何をしているのか、だとか、余計なことを囁く大人がちらちらと
視線を送ってくるのを、バージルはきれいに無視をする。元来、バージルは人目というものを
一切気にしない性格の持ち主だ。まだ幼いとはいえ、自我を完全に確立しているバージルに
とって、大人らの囁きなど気に留める必要のない雑音だ。そんなものを気にして、ダンテを
放っておくなどバージルには出来そうもない。
バージルにとっての大事はダンテであり、それ以外は父母を除いて皆不要のものでしかない
のだ。
そもそも彼らの母は、べつに我が子を放ったらかしにしているわけではない。優しい母は、
初め彼らとともに公園へ行く段取りでいたのだ。しかしそれを、自分たちだけで大丈夫だからと
断ったのはバージルである。何か変事があっても、ダンテは絶対に守ってみせる――バージルには
自信があった。
「お兄ちゃん!」
ぴょこっとダンテが跳ね、柔らかいゴムのボールを握った手をぶんぶんと振る。投げるよ。
言うなりボールがダンテの手から離れ、バージルのほうへ飛んで来る。受け止めたバージルは
ダンテのほうへ投げ返し――ただそれの繰り返しているだけなのだが、ダンテが楽しそうに
笑っているのでバージルは満足だ。ただ一つ、気になることがあるけれども。
弾いてしまったボールを追って、ダンテがてってと駆けている。あまり離れすぎるのは
いただけないと、バージルもボールが転がっていったほうへ歩いていく。
「…………」
ちらと、視線をダンテから公園の東側にあるアパートへ向けた。新しくはない、ありふれた
アパートだ。その三階辺りを何気ない仕種で見やるバージルに、ボールを拾ったダンテが気付いた
らしく駆け寄って来る。
「どうしたの、バージル?」
きょとんとして、首を傾げるダンテ。あどけない表情、無垢な双眸。どちらもバージルの気に
入りで、ときに思い切り苛めて泣かせてやるのが好きなのだ。
「何でもない。こっちに行こう、ダンテ」
手を握ってやれば、それだけで嬉しいらしく、ダンテはふわんと笑ってバージルの手を握り
返した。暖かい手だ。バージルはあるかなしかの薄い笑みを浮かべ、ダンテの顔を覗き込むように
して唇と唇とを触れ合わせた。
ダンテは大通りに並んだ、とある店の前にいた。くりりとした双眸が熱心に見つめているのは、
ショウウインドウに飾られたもの。それはおよそ一か月前もから、ダンテの心を占めているもの
だ。
いつもは隣にある、兄の姿は今はない。母もそばにはおらず、ダンテは間違いなく一人だ。
母は昼食が済むと近くのスーパーマーケットに行くと行って出掛け、バージルは部屋にこもって
読書に忙しい。ダンテはその隙に、そうっと一人、家を出て来たのだった。
一人でなくてはならないのだ。少なくともバージルと一緒では絶対にいけなかった。ダンテは
ぱちりと瞬きをし、ポケットに手を突っ込んで中のものをぎゅうっと強く握った。
店は随分と古い造りで、ダンテの目から見ても周囲に並んだ店とは少し雰囲気が異なっている。
ダンテのような子どもが入るのには、いかにもそぐわない店だ。通りすがりの大人が訝しげに
首を捻っているが、ダンテは気付かず店の入り口を見つめた。
バージルの目を盗んでは、ショウウインドウを眺めに来ていたダンテが、初めて店のドアを
開けたのは一週間前のことだ。そのときも、店に入ろうか悩み、今一歩勇気が出なくて諦めようと
していたのだが、不意に店の入り口が開き、中から白い髭を蓄えた老人がダンテに
笑いかけた。
「こんにちは。それが気に入ったのかい、ぼうや?」
ダンテが熱心に視線を注いでいたことに、その老人は以前から気が付いていたらしい。古い
品物ばかりを扱う店だ。ダンテくらいの歳の少年が寄付くような場所ではなく、それ故によく
目立っていたのだ。しかしダンテはバージルと似て、周囲の目にはいまいち鈍い。老人(店の
主だと名乗った)が自分のことに気付いていたと知って、純粋に驚いた。
老人はダンテを店の中へ誘い、ショウウインドウの品物をもっとよく見せてくれると言った。
ダンテは目を輝かせ、老人に手を引かれるまま店のドアをくぐったのだった。
掌に乗せてもらったそれは、ダンテの思ったよりも軽かった。ダンテは真っ青な瞳をきらきら
させて、それをいろんな角度から観察した。見れば見る程、ダンテの心を奪っていくそれ――
しかしダンテには、どうにもならない問題があった。
「おじいちゃん、これね、いくらするの?」
母によく躾けられているダンテは、金持ちの子息のような坊ちゃん然とした言葉遣いをする。
学校に通い、周囲の子らと接していてもほとんど影響されないのは、おそらくバージルが与える
影響が勝っているからだろうが、ダンテはまるで知らぬことだ。
老人の髭がもぞりと動いた。笑みを湛えているらしい。ダンテは小さくはない不安に眉を
きゅっと寄せ、上目遣いに老人を見上げた……。
今ダンテのポケットには、ダンテが持っているお金が総て入っている。母から貰える
お小遣いは、むろん多くない。甘いお菓子が好きなダンテは、お小遣いを貰うとすぐにお菓子に
注ぎ込んでしまう為、手許にはほとんど残らないのだ。あまり世間に詳しくないダンテでは
あるが、こうした古い品物の値が張るということは何となく知っている。だからこの一か月、
ただ指を咥えてショウウインドウを見つめることしか出来なかったのだ。
もう一度、財布を握る手に力をこめる。買えるだろうか。無理だったらどうしよう。不安で
不安で、こわくて仕様がない。ダンテは唇を噛み、意を決して店のドアに手を掛けた。
こんな機会はもう巡ってこない。男は街角でそれを見つけたとき、直感的にそう思った。
ダンテがいない。またか、とバージルはため息をもらさずにおれなかった。ここひと月程、
ダンテはバージルが読書に耽っているときに家を抜け出すことがある。いつも暗くなる前には
帰って来ので、見て見ぬふりをしているバージルではあるが、かと言って心配をしていない
わけではない。
バージルはハードカバーの分厚い本に栞を挟み、椅子から立ち上がった。ダンテのことが気に
なって、本を読んでいてもまるで頭に入ってこないのだ。
ため息を吐き、部屋を出る。ダンテがどこに行ったのか、自分がそれを知らぬということが
妙に薄ら寒く感じて、バージルは急いた足取りで階段を下りた。
ダンテは男に手を引かれ、通ったことのない路地を歩いていた。男に見覚えはない。男は母の
知り合いだと名乗り、彼女がダンテを呼んでいるからついておいでと言われたのだ。母の名を
出されて頷いたダンテではあったが、歩くごとに男への不審が募っていく。
母は買い物に出掛けていた。もううちへ帰っているかもしれないが、ダンテを呼ぶのに何故
この男に頼んだりしたのかが判らない。母が自ら足を運ぶか、さもなくばバージルがダンテを
捜しに来る筈ではないだろうか。
ダンテは男の横顔を見上げ、不安げに眉を寄せた。男の手は大きくて、ダンテの小さな手を
すっぽり包み込むように握っている。振りほどくなど、出来そうには思えなかった。
「ねぇ、……」
呼ばわれば、男がこちらを見下ろしてくる。優しそうな顔には柔らかな笑みがあり、ダンテは
ちょっともじもじした。
「どうした?」
男は顔立ちから受ける印象よりも、随分張りのある声音をしている。
「おじちゃん、ほんとに母さんのおともだちなの……?」
違うような気が、ダンテはした。男はにっこりとして、どうしてそう思うのかと、返して来た。
確信もなければ確証などあるわけもなく、ダンテは答に窮してしまう。男は笑みを絶やさず、
言った。
「俺のことがこわい?」
ダンテはちょっと考え、ぽそりと答えた。
「……わかんない……」
こわいのとは違う気がする。けれどもこわくないかといえば、それも違うと言わなくては
ならない。
(……バージル……)
ひどく心細くなって、ダンテは心の中で兄の名を唱えた。いつも一緒にいる双子の兄。黙って
出掛けなければ良かったと、ダンテはじんわりと涙を滲ませた。
(バージル、バージル、バージル)
自分の手を引くのが、どうしてバージルの手ではないのか。バージルの名を唱える程哀しく
なるようで、ダンテはどうにも堪らなくなって唇を噛んだ。
「ばぁじる……」
涙混じりに唱えたものが声に出ていようとは、ダンテは全く気付いてはおらず、男が訝しげに
こちらを見やったことにも気付かなかった。
「どうして泣いてるんだ?」
男の声はダンテの耳には届かなかった。潤んだ視界に映った、自分そっくりの少年――ダンテは
弾けるように破顔し、夢中で男の手を振り払おうとした。しかし男の手は容易には離れて
くれない。苛立って眉根を寄せたダンテを、男はさっと抱き上げた。そうすることで、男は
ダンテの反対の腕を掴もうとした手を素早く避けたのだ。
「やだっ、はなしてよぅ!」
小さなダンテがじたじたとしたところで、男はものともしない。それを見たダンテそっくりの
少年、バージルが盛大に不快げな表情になる。
「それを離せ」
子どもとは思えぬ覇気をまとった声音と雰囲気に、男は一瞬気圧されたようだった。ダンテは
躰を捻ってバージルへ腕を伸ばす。なおも自分を離してくれない腕に苛立つが、まだただの
子どもと変わらぬ腕力しかないダンテには、男から自力で逃れることは出来ない。
バージルがすぐそこにいるのに、バージルのそばにいけない。ダンテは真っ赤になって
じたばたした。
「離せと言っている」
バージルの鋭い声に、男は引きつった笑みを見せた。
「これは違う。その、俺はちょっと、この子に話があるだけなんだ」
うそだ。ダンテは男を睨んだ。バージルに、この人は嘘つきだと言わなくては。しかし
ダンテが躰を捻るよりも、男が苦しい言い訳をするのよりも先に、バージルがぴしゃりと
言い放った。
「そんなことは関係ない。それを置いて、失せろ」
バージルは男のダンテを抱く腕をさっと掴み、ぎりっと力を込める。幼い子どもとは思えない
力の強さに、男が濁音混じりの悲鳴を上げてバージルの手を振り払った。そうすると当然、
ダンテを手放すことになる。一瞬宙に浮いたダンテを、バージルが素早く抱き留めた。
「お兄ちゃんっ」
ダンテがぎゅうっとしがみつくと、バージルもしっかりとダンテを抱き締めてくれる。それが
嬉しくて、ダンテはバージルの肩に頬をすり寄せた。
「何をしている。消えろ」
バージルの冷たい声と、続いて誰かの引きつった悲鳴が聞こえたが、ダンテはそちらを見やる
こともしなかった。涙が出る程寂しかったのだ。やっとバージルに抱き付くことが出来たの
だから、それ以外のことを気にする余裕など、ダンテにはない。
「もう勝手にどこかへ行くな、ダンテ。判ったな?」
背中をぽんぽんとやりながら、バージルがダンテの耳に囁く。ダンテはバージルの肩に額を
擦りつけるようにして、何度も頷いた。どこへも行かない。絶対に。あぁ、でも、あれを買いに
行かなくちゃ。バージルには内緒にしなくちゃ駄目なのに。どうしよう。どうすれば良い
だろう。
良い案などまるで思い付かず、ダンテはきゅっと眉根を寄せた。今はただ、バージルに
しがみついていよう。離れることなど、出来そうもないから。
続くの?という終わり方をしてしまいました…;
機会と気力があれば頑張ります。
こんなものでよろしければ、お納め下さい。