彼の特等席









心休まる場所、というものがある。それは当然ながら人によって違いの表われるもので、場合に よれば心休まる場所などないという者もいるだろう。人間は千差万別。皆が皆同じではこの世は 成り立たない。

ダンテは厳密に言えば人間ではないが、少なくとも半分は人間の血が流れている。悪魔を父に、 人間を母に持つ存在。それが彼と、彼の双子の兄であるバージルだ。
半分は人間、といっても彼らは見目こそ人間以外の何にも見受けられない。だからごく自然に ひとの中で生活を送ることができるのだし、それ以外の生活など想像すらしたことがない。彼らは 人間である母に育てられたのだ。

その、ダンテにも。心休まる場所というものはある。

命知らずの快楽主義者。変わり者の便利屋等々、ダンテを好きに呼ばわる者は多く、そして大半は まさにそのとおりというものだ。ダンテ自身も気にしてはいないし、それらの口を閉じさせようと したこともなかった。
良くも悪くも同業者の口に上らぬことのないダンテ。彼とて、いつも己の身を危機にさらしている わけではないのだ。――当たり前のことだけれども。





「くぁ……」

あくびを噛み殺すことに失敗したダンテは、中途半端に濡れた目頭を擦りむにゃむにゃと寝言を いうように唇を蠢かした。眠い、というわけではないと自分では思っているのだが、寝ようと 思えば眠れるような気がしないでもない。ほんの一時間前まで、ベッドでもぞもぞ惰眠を貪って いたというのに、だ。

現在時刻は昼の二時。ダンテはいつもより少しばかり寝坊をした。バージルはダンテを起こす こともなく、自然と起きるのを待ってコーヒーを淹れてくれる。いつもの朝――時間的には完全に 昼だけれども――の光景だ。
兄が手ずから淹れたコーヒーは、ダンテの好みから言えば苦すぎる。濃いエスプレッソを好む バージルにすれば、ダンテに飲ませるものは最大限に薄くしてあるつもりなのだが、苦いものは 苦い。しかしそれを、ダンテは一滴も残さずすべて飲む。苦いと文句を言うことはあっても、 苦いからという理由で捨ててしまうことはない。今まで、一度もだ。時折バージルが悪戯のように ひどく濃い淹れようをすることを除けば、ダンテはバージルの淹れたコーヒーを好んでいるとすら 言える。あくまで、バージルの、と付くものに限るけれども。
寝覚めのコーヒーの後は遅い朝食を兼ねた昼食になる。メニューは日によって変わるが、どれも バージルの手作りであることは変わらない。デリバリーを憎んですらいるバージルは、だからか どうか、どんな料理も苦もなくこなし、しかもどれも美味ときている。菓子作りだってお手の 物――キッチンに立っても何もできないダンテとは大違いだ。ダンテは兇悪的に家事全般に疎い。 こればかりはバージルですら匙を投げるほどだ。

バージルの作った昼食を、もちろんダンテは今日も残さず食べた。こんがり焼けたパンを 絶賛すると、なんとバージルが生地からこねて作ったものだというから驚愕した。そんなことも できるのかとダンテが目を輝かせると、バージルはダンテの頭を撫で、また作ってやると言って くれた。ダンテは素直に喜んだ。バージルも、どこか嬉しそうだったように思う。気のせいかも しれないが。

昼食が済んだ後、バージルは片付けもきれいに済ませてから外出した。図書館へ行くとのこと。 活字中毒甚だしいバージルには、とても似合いの場所だ。文字を読むことのないダンテには、 まるで縁のない場所である。だから、ダンテは留守番だ。バージルも一緒に来るかとも訊いて 来ない。どうせ暇を持て余すだけだし、騒がれては困るとでも思っているのだろう。生来、 ダンテはおしゃべりだ。

バージル不在の家は、どうにも静かである。ダンテはおしゃべりな性格だが、独りきりで べらべらしゃべるようなことはしない。当たり前だ。それでは頭が少しあれな人間と思われて しまう。ダンテはある意味、どこか螺子が緩んでいる箇所がなくもないが、それはまた別の 問題だ。
静かな空間。きんと耳が痛みを感じたような気がして、ダンテは耳朶を摘んでちょっと 引っ張った。

ソファーを背凭れにし床に座るという、いつもの位置。脚をローテーブルの下に伸ばさず、膝を 両手で抱えるようにすると、何か拗ねているふうに見えるとはダンテは知らない。指摘する声も ないのだ、自覚のしようがなかった。バージルはまだ、帰って来ない。
こうして放っておかれることは、さして珍しくもないことだった。近くのスーパーマーケットへの 買い物にしろ、バージルがダンテをともに連れて行くことはあまりなく、たいていは一人で 済ませてしまう。骨董屋、本屋などはもちろんダンテには用もないのだから行くはずがない。 まったく性格も好みも違うとなると、外出に関してもまるで異なってくるのは当たり前といえば そうだ。
ダンテもそれはよく判っているし、自分の好みにバージルを付き合わせようとしたことはない。 バージルも然りだ。

が、しかし。

(たまには、)

一緒に、連れて行ってほしいと思う。買い物には同伴することもあるが、バージルの趣味が云々と なる場所へはほとんど誘われることがなく、またダンテのほうからねだることも少ない。 ダンテとて、ついて行っても詰まらなくてすぐ飽いてしまうことくらい判っている。早く帰ろうと いう言葉が喉元まで出かかるのを、かろうじて飲み込むのは予想以上に労を要するものだ。
判っている。判っているのだけれど、けれども。

(一緒にいたい、って、思う、のは、)

いけないことなのだろうか。そうではないはず。しかしバージルは何と言うだろう。いやそれより も、そんなことを面と向かって兄に言えるかといえば、答えはもちろん決まっている。ノーだ。 恥ずかしさのあまり死ねる自信がある。

「うぅ……」

想像しただけでも恥ずかしくてならず、折り曲げた膝に額を押しつけ、ぎゅうっと脚を抱き締める。 バージルはまだ帰らない。早く帰ってきてほしいという思いと、今はやめてくれという相反した 思いが交錯する。バージル。唇だけで兄の名を紡いだ。舌に何か、甘いものが広がったような気が した。バージル。

(また、だ)

ほんのりとした、微かな甘み。なぜかとは考えずにもう一度それを味わおうと、ひっそりと 囁く。

(バージル)

と、

「何だ」

不意を衝かれ、驚きすぎて床から尻が一インチ浮いた。

「ば、バージルっ!」

何というタイミングだろう。狼狽しきったダンテの反応に、バージルは何をそんなに驚いている のかとばかりに眉根を寄せて見せた。

「帰ってたのかよ」

羞恥を紛らわすように、ダンテは少し恨みっぽくバージルを見上げた。兄が小脇に抱えた数冊の 本がちらりと視界をかすめたが、あえて見ぬふりをする。
バージルは肩を竦め、今な、と呟いた。小さな声と弱い声とは別のものだ。ダンテはバージルの、 囁くように話しても弱々しさとは無縁の声音を好いている。

「ずっとそこにいたのか?」

呆れたような問いに、ダンテはまぁねと返した。知らず拗ねたような声になってしまったことに、 内心で舌を打つ。
バージルはとくにそのことには触れず、そうかと言ってダンテから視線を外した。兄の興味が 自分から失せたことに、馬鹿馬鹿しいけれども軽くショックを受ける。本当に馬鹿らしくて、 笑えもしない。

(ちぇっ……)

何に対してか判らぬけれど、悪態を吐く。

借りて来たのだろう本を大事そうに持ち替え、バージルは壊れものでも扱うようにそっと テーブルに乗せた。面白くない。そう思ってしまう自身を、ダンテは心底嫌悪する。
バージルはキッチンへ向かったようだ。何をしにかは、ダンテには判らない。がばりと冷蔵庫を 開けた音が耳に届いたが、そちらを見やって確かめようとは思わなかった。ダンテは完全に拗ねて いる。
尖らせた唇は顔を伏せているのでバージルからは見えまい。見つけてほしいという、心の片隅で 小さく膝を抱えた願望は無視するに限る。引っ張り出して来るなど、こわくてできるものでは ない。

バージルの足音がこちらへ近付いてくる。冷蔵庫への用は終わったらしい。次は、やはり本なの だろうか。ずっと兄を待っていた自分ではなく――いやいや、違う。かまってもらいたいなどと 思ってはいない。いないのだ、本当に。そんなわけ。

「ダンテ、」

「えっ?」

唐突に名を呼ばれ、ダンテは思わず顔を上げた。いつの間にやらバージルはソファーに腰を 下ろしており、ダンテの顔の前にとあるものを突き付けている。

「、これ」

トマトジュースの瓶だ。先日、バージルがこれはどうなのかと言って、いつも買うものと違う メーカーのものを買ってくれた、その一つ。

「喉が渇いているだろうと思っただけだ」

飲め、と。言われなくとも喜んで飲む。ダースは戸惑い半分、瓶を受け取った。 ありがと、と口の中でもぐもぐ呟いた。
バージルの手にはグラスがあり、透明のものが八分目まで注がれている。テーブルには ミネラルウォーターのペットボトル。グラスの内容物はそれに間違いない。

すでにキャップも外されているトマトジュースの、瓶の縁に直接口をつける。マグカップに移せと は言わないのか。疑問には思ったが口にはしない。不用意に藪をつつくような真似をして、蛇に 噛まれるのはごめんだ。
ちろりとトマトジュースを舐める。その段になってようよう、自分はよほど喉が渇いていたのだと いうことを知った。鈍いにもほどがある。ふた口目は遠慮なくがぶりといった。

くっくと。低い笑い声が耳を撫でる。

「……うるせぇ」

「何も言ってないだろう」

確かに、そうだ。けれどもダンテは唇を尖らせ、うるさい、と繰り返した。今度は、そんな自分の 表情を隠すことはせずに。
くすりと、兄が笑う。
ダンテは瓶をかじるようにしてがぶがぶと飲んだ。もちろん、照れ隠しに他ならない。そして バージルには、それすらばれてしまっているのだろう。

(ちぇっ)

二度目の悪態は、けれども拗ねるばかりのそれではないことに、ダンテは気付かないふりを した。





空になった瓶には、吐息を詰めて蓋をして。

満たされた弟は兄の膝に頭を乗せ、うつらうつらとゆるやかに眠り。兄は連れ帰った本たちに手を 伸ばすこともせず、弟の髪を指にくるくると巻き付けなどして遊び。

どちらの頬にも、笑みがある。

前者はふわふわとした、いかにも兄に対し心を許したそれを。
後者は優しげでいながら、どこかしら空寒いものを感じさせるそれを。



双子は今日も、それぞれの特等席を独占している。



















お題へ。
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ちょいと甘めでお送りしました。