走景
さらさらと髪を撫でる指先が、とても好きだと彼は思う。
とろとろとしたまどろみの中、髪を梳く心地好い感触に彼は溺れた。このときがいつまでも続けば
良いのにと、いつも、そう願うのだけれども。
弟は、朝に弱い。というよりも、眠ることが好きなのだとバージルは思っている。とくに
バージルが彼を抱き締めて、その髪をさらさらと梳いてやるときはなどは、眠っているにも
かかわらず頬を笑みのかたちにゆるめ、いかにも心地好さそうにする。
バージルはといえば、無論睡眠は必要なだけ摂るが、弟ほどいつまでも眠っていることはしない。
むしろ弟の寝顔を眺めることのほうが大事だと、本気で考えているくらいだ。
子ども部屋には寝台が二つ、ある。しかしたいていは、その片方しか使われない。もう一方の
シーツは乱れもなく朝を迎えるのだ。理由は当然、双子が一つの寝台でくっつきあって眠るからに
他ならない。
乱れのない寝台を、双子の母は目にしても何も言ったことはなかった。まだ幼い彼らが同衾する
ことに、当然と言えば当然だが何の疑問も持っていないのだ。双子がもう少し大きくなれば、
それも判らないが。しかしバージルは弟と一緒の寝台で眠ることはやめないだろうと思う。いや、
やめない。何より弟が、別々に眠ることを受け入れられないだろうという、確信があった。
とろとろとまどろむ弟の髪を、バージルは飽きもせず梳いている。心地好いのは弟ばかりではなく、
バージルは彼の髪に触れることをことのほか好んでいるからだ。なので弟がいつまでも惰眠に
溺れているのと同じに、バージルはいつまでも彼の髪を梳き続けているわけだ。
それに、仕合わせそうに眠る弟の表情は、見ていて飽きが来ない。時折寝言で、バージルの名を
むにゃむにゃと呟くのを聞くことも、良いと思う。
艶のある髪を指に絡めて遊んでいると、弟の唇が何やらもぐもぐと動いた。
「……ん、……ぁじる……」
舌足らずな、吐息のような声。バージルは口角を片方だけ吊り上げた。ひどく意地の悪い表情だが、
そう評する人間はここにはいない。弟はいまだ、眠ったままだ。
つんと、指に絡めた髪を軽く引いた。
何か寒いような気がして、ダンテはふと瞼を開けた。ぼやける視界を拭うように、目を手の甲で
擦る。それからぱちぱちと、数回瞬きをした。
「?」
寝転んだままきょろりと瞳を巡らせるが、兄の姿はない。さっきまでの心地好さは、それで
きれいに掻き消えた。同時に底から沸き上がるような不安が彼を襲う。
ダンテは慌ててベッドから這い出し、着替える間も惜しんで(実際は着替えるという行為を
まったく忘れていただけだが)部屋を飛び出した。おっとりとした性格である彼が、ばたんと
荒っぽい音をたててドアを開けることは本当に珍しい。しかし手荒に扱われ抗議を上げたで
あろうドアのことなど気にも留めず、ダンテはぺたぺたと素足で廊下を駈けた。靴を履くこと
すら忘れていることにも、彼はまるで気付かなかった。
「母さんっ」
キッチンに駈け込むと、母が驚いたような顔でダンテを迎えた。どうしたのと問う優しい声に、
ダンテ早口で訴えた。
「お兄ちゃんは? どこ行ったの?」
それで息子の慌てぶりの原因を知った母は、しかし掌を頬にあてて首をかしげた。彼女もダンテの
兄の行方を知らぬのだ。キッチンへは顔を出さなかったと言う母。ダンテの顔は見る見る青く
なった。不憫に思った母が、リビングで一緒に待っていましょうと言ってくれたけれど、ダンテは
それに頷かなかった。ただじっと待つだけなど、辛抱出来そうもなくて。
「ぼく、さがしてくる」
「ダンテ」
呼ばわる母の声を背中に受け、しかしダンテの足は止まらなかった。
兄が母にも顔を見せていないこと。それはダンテに大いに疑問を抱かせたが、追求している暇は
彼にはない。ダンテにとっての大事は兄が今ここにおらぬことであり、母にも顔を見せなかった
ことではないのだ。
ダンテの細い脚は、急くばかりでちっとも速く走ってくれない。ぺたぺた、ぺたぺた。素足が
たてる音ばかりが耳にうるさく感じたが、かといって足を止めるわけにはいかない。
家中をくまなく探し回ったが、兄はどこにもいなかった。いつも兄と二人でする、かくれんぼを
彷彿とさせる焦躁がダンテの心を占めていく。ダンテが鬼をすると、二度に一度は兄を探し出す
ことが出来ず、しまいには泣き出してしまうのだ。するとどこからか兄が姿を現し、仕様のない
やつだと言って髪を梳き、ダンテが泣きやむまで抱き締めてキスをしてくれる。
けれども今は、けっしてかくれんぼをしているのではない。兄は何も言わず、どこかへ行って
しまった。
ダンテは焦りと哀しみを噛み締め、屋内での捜索を諦めた。もちろん、兄を捜すことを諦めたので
はない。ダンテの足は、躊躇うことなく玄関のほうへと向かっていた。
顎に手をあて、バージルはふむと一人ごちた。いまだ残暑が続く今日、暑さにはさほど弱くはない
バージルでも半袖のシャツを着、下は黒の綿パンツを穿いている。後者は弟と揃いで母が買った
もので、バージルは裾を伸ばして穿くことを好むが、弟は半ばまでくるくると折って穿く。
暑がりの弟のために、バージルが手ずから裾を巻き上げてやったのだ。
弟は今ごろどうしているだろうか。まだ眠っているか、それとも起きてバージルがいないことに
気付いただろうか。もしそうなら、どんな顔をしたことだろう。想像しただけで、バージルの
唇には歳不相応の笑みが浮かんだ。
バージルは弟のことを、時折気が触れたようにいじめ抜く。と言って、殴る蹴るなどしはしない。
頬をつねるか、掌でぶつか、泣くまで無視を決め込むか。その程度だ。かくれんぼであえて鬼を
やらせ、わざと見つかってやらぬときもある。そうすると気の弱い(芯は強く矜持もあるのだが、
そこにバージルが絡むとまったく別人のようになる)弟は、兄の名を呼びしくしくと泣く。涙と
洟とで顔をぐしゃぐしゃにして許しを乞うてくるさまなど、ぞくぞくするほどに好きなのだ。
酷薄、というのだろう。自覚はある。しかしやめるつもりはバージルにはない。弟にも、悪い
などとは欠片も思っていなかった。そのあたり、バージルはまったく幼稚でそれゆえに残酷で
あったが、咎めるものなどいないのだからどうなるものでもない。おとなに叱られるような
無様を、同年の子どもらよりよほど思考の回るバージルがさらすわけがなかった。
それに、彼らは双子の兄弟だ。やりすぎなければ、仲の良い兄弟にしか見えない。そこが
狙い目でもあった。
兄弟、それも一卵性の双子でなければ、バージルはかれをこうも耽溺しはしなかっただろうと思う。
文字どおりの半身だからこそ、バージルは弟を誰よりも愛している。
愛しているからこそ、時折ふとしたことで残酷さが顔を出すのだ。
あぁ。バージルは嘆息する。今ごろ弟はどうしているだろうか。目覚めていれば良いのだが。
そうしたら、きっと自分を捜しているに違いないから。そうしたら、何も知らぬ顔で見つかって
やろう。弟が泣いていたら、どうしたと言って、泣きやむまでいくつもキスをしてやろう。
想像するだけで、昂奮する。
バージルは薄く笑みを湛え、コンクリートの壁に切り取られた四角い空を見上げた。よく晴れた
空は、弟の瞳の色だ。
兄がいない。ダンテはともすればこぼれそうになる涙を拭い、洟をすすっては辺りを見回した。
足を少し進めては、それを繰り返す。兄はまだ見つけられない。焦りと不安がいや増していく。
「っく……ひっく……」
兄が見つかるまで泣くものかと、決めて家を飛び出したというのに、涙は嘲笑うように睫毛を
濡らそうとする。ダンテは手の甲で乱暴に目尻を拭った。兄がいれば赤く腫れるからやめろと
言うところだろうが、その兄を捜して彷徨っているのだからそんな言葉があろうはずもない。
ぐずっと洟をすする。これも兄なら洟をかめと言うところだが。
「……に、ちゃ……お兄ちゃん……」
弱々しい声であるためか、兄のいらえはない。事実、兄の姿はダンテの周囲にはなく、返事が
あろうはずもないのだけれども、ダンテは哀しくてたまらなかった。涙が先を競うように溢れ
出す。こぼれ落ちるという寸前で、ダンテは腕でそれを拭った。洟もすする。それの繰り返しだ。
何の発展にも繋がらない。
しかし今のダンテに出来ることは、本当にそれしかないのだった。涙を拭い、洟をすすりながら、
ぼやける視界をあちこちを巡らせて兄を捜す。それだけなのだ。
泣きながら路地を彷徨う少年に、気付いたおとながどうしたのかと声をかけてきた。女の人だ。
迷子になったと思ったのだろう。かわいそうにお家はどこ? と優しげに問い掛けるおとなを、
ダンテは突然走り出すことで振りきった。知らないおとなには近付かない、声をかけられたら
逃げる、という少々過剰と言える知恵を兄によって植え付けられており、それに則した行動を
取ったのだ。
あ、ちょっと、と困惑気味の声が見る間に遠ざかる。普通の子どもでは有り得ぬ足の速さに
茫然としているなど、夢中で駈けるダンテが気付くはずもなく。また、自身がおとなと比べても
明らかに速く走っていることも、自覚してはいない。
角を二つばかり曲がったところで、きゅっと足を止めた。さっきのおとなは追って来ていない
らしく、耳を澄ませても足音はしない。ほっと息を吐いた。
さぁ、仕切り直して兄を捜そう。唇を噛んで顔を上げる。見つけられるのだろうかという不安が
押し寄せるが、頭を左右に振ることでよそへやった。無論、実際は不安で仕方がないし、すぐにも
涙が込み上げて来そうだ。しかしくじけるわけにはいかない。いかないのだ。
「だって、」
ダンテは兄がいなくては、本当にだめなのだから。
その十分後に、ダンテはバージルと合流することが叶った。捜し出したという表現を用いない
理由は、ダンテが自力でバージルを見つけたわけではないからだ。結局、ダンテは膨らむばかりの
寂しさと不安に押し潰されるように、路地の隅でうずくまってしまったのだ。そこへ、兄がやって
来た。
ダンテはバージルの顔を見るなり兄に飛びつき、しがみついてわんわん泣いた。バージルは
そんなダンテの背を撫で、髪を梳き、どうしたと言って頬にキスをしてくれた。泣きじゃくり
ながらもっとしてとダンテが言えば、わかったわかったと苦笑しながら、バージルはダンテの
頬や額にいくつもキスを落とした。涙を舌で拭ってくれもした。塩辛いなと言われたが、
ダンテの涙はなかなか止まらず、止まるまで数えきれないくらいキスをしてもらった。
優しいキスにダンテの表情がとろとろに蕩けた頃、涙もようよう止まり双子は連れ添って家へ
向かった。
バージルはダンテを右腕に引きずるようにして。まったく同じ体躯をしているのだから、
バージルは相当歩きにくいはずであるが、そんな素振りはちらとも窺わせず、時折しがみついて
離れないダンテにキスをしつつ。
一方ダンテは、バージルの右腕にぶら下がるように腕を絡め、ふとしたときに降ってくるキスに
夢中になりながら。ときにはこちらからキスを返したりもして。
銀髪碧眼の双子は、仲が良いというには少々行き過ぎの感をぱらぱらと通り過ぎていく人に
与えながら、母の待つ我が家へと帰っていった。
「ねぇ、バージル」
「なんだ」
「……もっと、して?」
降り注ぐキスの雨に、溶かされる。
なんとなく久しぶりの仔双子でした。
衝動の産物なのでよくわからない代物になってしまいました…