青天
初めは母に手を引かれ、判らぬままそこへ連れて行かれた。
玄関らしいドアから中へ入ると、ダンテのように母に連れられて来た子どもが数人、ソファーに
似た長椅子に座っていた。ダンテも同じように母と寄り添って座り、じっと待った。ダンテの後
からも母子が数人やって来た。
先に待っていた子らはダンテより早くドア(玄関とは違う。向こうに広い部屋があるらしい)を
くぐって行く。そしてドアから出て来ると、小さな窓口で女の人と何か話し、今度は玄関から出て
行くのだ。
ダンテはそこが、いったいどういう場所なのか全く判らなかった。母は大丈夫と言い、すぐに
済むからと微笑する。だからダンテはちょこちょこと母に手を引かれるままここへ来た。が、
長椅子に座って何分くらいが経っただろう。ダンテはひどく不安でならなかった。
違う部屋に続くドアから出て来た子どもが、決まって泣いているのだ。ドアが開いたそこから、
子どもの泣き喚く声と何かも判らぬ嫌な音がするのに、ダンテはいっそう不安を募らせた。
「母さん、」
堪らなくなって母の手を握ると、母はにっこり笑って「大丈夫」と繰り返した。ダンテもそれ以上
言うことが出来ず、ただ母の手を握っていた。
そしてついに、ダンテの番が来た。
母と手を繋いでドアをくぐる。ダンテの竦みそうになる足を励ますように、母はいつもより強く
ダンテの手を引いた。怖かった。何をされるのか判らないのだから、怖くないわけがない。
この椅子に座って、と白い服を着てマスクをした男の人に言われたとき、ダンテは自分が蒼白に
なっていることをはっきりと自覚していた。
それから、数回。ダンテは母とともにそこへ通うことになった。ダンテの歯をすっかりきれいに
する為には、一度だけでは駄目だったからだ。
ダンテはその場所を、歯医者さんと言うのだと帰る段になって母に教わった。歯の専門家、と母は
言ったが、ダンテにはよく判らなかった。むしろダンテの歯をきれいにしてくれる人、という
そちらのほうが判りやすかった。
三度目の歯医者さんの日、ダンテは母ではなくバージルに手を引かれていた。母は突然別の予定が
入ってしまい、バージルが母代わりを買って出たのである。ダンテにすれば、嬉しいことだった。
もちろん母と手を繋いで歩くのは好きだし、嬉しいのだけれど、やはりダンテはバージルが好き
なのだ。
にこにこと上機嫌のダンテを、バージルはちょっと訝ったらしい。
「歯医者に行くのが、そんなに嬉しいのか?」
「うん! バージルとだから、もっと嬉しいの」
笑みを輝かせるダンテに対し、ふぅん、と納得したのかよく判らない返事があって、バージルが
ダンテの手をくいと引っ張った。
「どうして歯医者に行くのが嬉しいんだ?」
これは前にも訊かれたことだ。ダンテは初めての歯医者の日、散々泣いた。けれど二度と歯医者に
かかりたくないとは、言わなかったのだ。むしろ次はいつなのか、母にせがんで何度も教えて
もらった程だ。
治療は確かに痛くて怖かった。機械の音と振動とを思い出すだけで涙ぐんでしまう程に。けれど
ダンテが歯医者そのものを嫌いにならなかった理由は、ダンテを担当した医師の存在だった。
「先生ね、すっごく優しかったんだよ」
痛いとダンテが泣くたびに、よしよしと頭を撫でてくれた。マスクの所為でくぐもってはいたが、
低い声がいかにも優しくて、頭を撫でてもらっているときは痛みを忘れた。もっと撫でて欲しいと、
思った。たった一度で、ダンテにその担当医師をすっかり懐いてしまったのだ。
「バージルもあの先生にやってもらうといいよ」
無邪気な提案をしたダンテから、バージルは不機嫌そうに顔を背けた。
「……嫌だ」
ダンテはバージルが外方を向いてしまったことにショックを受け、バージルが何を言ったのか、
よく聞いていなかった。
それから、バージルはダンテが歯医者の話を持ち出すのも嫌がるようになった。優しい先生の話を
して、頬をつねられたことをダンテは忘れない。ひどく不愉快そうなしかめっ面をして、むぎっと
つねられた頬の痛みは忘れようにも忘れられるものではなかった。
バージルがどうしてそこまで歯医者の話を嫌うのか、ダンテにはまるで判らなかった。
バージルとて歯医者にかかったことはあるが、ダンテのように泣いて帰って来たりはしなかったし、
嫌だったという話も聞いたことがない。ならば、何故。
ダンテには、いくら考えてもちっとも判らなかった。
「今日は元気がありませんね」
子ども相手にも敬語を使う、ダンテの大好きな先生は、ダンテがやけに消沈していることに首を
傾げた。
「あのね、ぼく、歯医者さんに来るの、嫌じゃないの」
たいていの子どもは歯医者を嫌うものだと、母が言っていた。だからダンテは珍しいのだとも。
「でもね、バージルは歯医者さん、嫌みたいなの……」
話をするのも嫌がるのだと訴えれば、先生がマスクの向こうで困ったように笑ったのが判る。
「人には誰にでも、好き嫌いというものはあるものですからね」
「でもね、バージルほんとは歯医者さん嫌いじゃないんだよ? だって、
泣いたことないんだもん」
バージルに苦手なものなどないと、ダンテは無意識に思い込んでいるところがある。
先生は歯を見てもらうのもそっちのけのダンテに、しかし咎めるでもなく耳を傾けている。
「どうして、あんな顔するんだろ……」
結論はそこなのだ。ダンテはバージルに、すげなくされたり邪魔扱いされるのがこわくて
ならない。いつもなら多少酷くされても、すぐ後には頬にキスをしてくれるのだけれど、歯医者の
話をするとそれがないのだ。
嫌そうにダンテから顔を背け、口を聞いてくれなくなる。それがしばらく続いているのだから、
ダンテは堪らなかった。
「……それは、もしかすれば焼もちかもしれませんね」
先生がダンテの髪を撫でながら微笑する。バージルを揶揄するふうはなく、あくまで微笑ましいと
滲ませる双眸を、ダンテはじっと見つめた。
「やきもち……?」
「きみを、取られてしまったように思ったのでしょう」
「そうなの? でも、ぼく何も取られてないよ?」
くすっと先生が笑う。ダンテのつるりとした額を撫で、半ば乗り出していた細い躰を椅子に
戻らせる。
「そう、だから大丈夫ですよ。きっと」
低い声が心地好くて、ダンテはほぅとため息を吐いた。
「うん……」
口を開けて、と促されるままぱくりと唇を開き、ダンテはぼんやり、先生の柔らかい目を
見上げていた。
治療が終わり、母と手を繋いで帰宅したダンテは、その足で真っ直ぐバージルのもとへ走った。
バージルは子ども部屋にこもって、いつものように読書だ。
ダンテが子ども部屋に駆け込むと、バージルは机ではなくベッドに腰掛けて本を広げていた。
「バージル……」
ただいま、と唇をぱくぱくさせて、ダンテはバージルのそばに近寄った。つかず、離れず。抱き
付きたいのを我慢して、バージルと二歩分程の間を置いて足を止めた。
「あの、ね。歯、きれいにしてもらったよ」
バージルの眉間に皺が寄る。そうか、とも何も反応がないことに怯みながら、それでもダンテは
ぐっと涙を我慢した。
「だからね、もう、歯医者さんに行かなくていいの」
定期的に通うように、と言われていることはダンテは知らない。しかし日を詰めて行く必要が
なくなったのは確かだ。これでバージルも機嫌を直してくれると、ダンテは信じて疑わない。
「……ダンテ、」
バージルが呼ばわり、人差し指でダンテを手招いた。ダンテははっとして、次いで破顔し
バージルに飛び付いた。ぎゅうっと抱き付くダンテを、バージルはあやすように抱き締めてくれる。
ダンテは嬉しくなって、バージルの肩口に頬をすり寄せた。
「ダンテ、もうあそこには行くな」
どこ、とはダンテは訊かなかった。返事は一言。
「うん」
と、それだけ。
バージルが行くなと言うのだから、ダンテはその通りにするだけだ。
それで良い、と囁くバージルの声は満足そうで、ダンテはほっとする。バージルはもう、怒って
いない。ダンテを無視したりすることもなくなる。それが、素直に嬉しい。
「お兄ちゃん、」
呼ばわるのとほとんど同時に、バージルがダンテを抱き締めたまま躰を倒した。絡まるように
ベッドに寝転び、ダンテはほぅと息を吐く。バージルの匂いは心地好く、ダンテは仕合わせに
満たされながら目を閉じた。その瞼にキスが降ってきて、またダンテを仕合わせにする。
それから、ダンテはほとんど歯医者にかかったことがない。理由は一つ。バージルが行くなと
言ったからだ。
数年ぶりに歯医者にかかったときに思いついたネタでした。
なんだか微妙…