白黒
夕陽の陰りに潜むように、それはもぞりと身を震わせた。
少し早めの夕食を済ませ、バージルはダンテとともに子ども部屋へ引き取った。オムライスを
腹一杯に食べて満足げなダンテが、ベッドにちょんと座って目許を擦っている。満腹になって眠気が
襲って来たのだろう。健康な子どもらしいダンテのうとうとする姿に、バージルはふっと笑みを
浮かべた。
バージルはおよそ、子どもらしくない子どもである。ダンテとは双子で、つまりは同じ歳なのだが
明らかにバージルのほうが年嵩に見える。体格こそ変わらないとは言え、バージルはひどく
大人びた少年だ。
「ダンテ、寝るなら歯を磨いてからにしろ」
手を取って促すが、ダンテはすでに半分眠っているような状態だ。
「……ぅ、ん……」
判った、と一応の反応はあれど、これでは洗面所へ行くのも大変なら、歯を磨くどころではない
だろう。バージルは肩を竦め、今にも前のめりに倒れてしまいそうなダンテを横にならせた。
くしゃっとなったダンテの髪を撫で、待ってろ、と耳に囁いて部屋を出た。
バージルが向かったのは洗面所だ。ダンテの口を濯いでやる為、歯ブラシを取りに来たのである。
問題はダンテの歯を磨いた後、どうやってうがいをさせるかだが……洗面器と水があればどうに
かなるか、とバージルは一つ頷く。
それに気付いたのは、部屋に戻ろうと階段を上りかけたときだった。ぞわりと首の後ろに鳥肌が
立つような感覚に、バージルは足を止めた。何かいる、と直感して、二階を見上げる。しかし何が
いるのかまでは判らない。
バージルは洗面器や歯ブラシを階段の途中に置き、そうっと階段を上った。
一段、一段、確実に距離を詰めながら、それは二階の廊下にいるのではないらしいと、二階の床が
見えるまで上って確認する。バージルはちょっと足を止め、それからはっとした。ダンテ。
子ども部屋に一人残して来た弟は無事なのか。
バージルはそれまでの慎重さをかなぐり捨て、子ども部屋に駆け込んだ。
弟はバージルのベッドにちょこんと寝転び、眠っている。バージルが部屋を出たときと同じ
恰好だ。しかし、眠るダンテのそばに佇む“何か”にバージルは総毛立った。
「それから離れろ」
ぬらりとこちらを見た“何か”を、バージルはきつく睨んだ。その“何か”は潰れて落ちかけた
片目でちらりとバージルを見、首を傾げるようにした。言葉が理解出来ないのか、ダンテの傍らを
離れようとしない。離れたくないとでも言いたげに。
バージルの目に、それはひどく醜い姿に映っている。潰れているのは目だけではなく、全身が人の
形を止どめていない。ひしゃげた肩、垂れ下がって動かぬ腕、あちこちから飛び出した骨。口を
開けた腹からこぼれた臓物の異臭に、鼻が曲がりそうだ。滴る血の赤はどす黒くて、しかしそれが
すでに命を無くして久しいものであることを、バージルは一目で見抜いていた。
彼がまだ幼いことを抜きにしても、判らぬわけはないのだけれど。
バージルには、死んだものの姿を視ることが出来る。魂だとか、霊と言うものだ。初めて視たのは
少し前のことだった。そのときはさすがに狼狽せずにはおれなかった。
血塗れの、肉の塊にしか見えぬものを目の当たりにして、平然としていられる人間はいまい。
しかし何度もそんなものを目にしているからか、バージルはもうそれらの無惨な姿を見ても何も
感じなくなっていた。自分には関係のないもの、と割り切ってしまえば、視界の端に映っても
気にならなくなった。
それに、ダンテがいる。バージルにとって大事なものはダンテと母のみで、それ以外ではない。
その、自分には一切関係のないものが、今何を思ってかダンテの傍らに寄り添うようにしている。
それはバージルにとって、何とも忌まわしいことだった。
離れろ、ともう一度告げながら、バージルはダンテのそばに寄り、それとダンテの間に割り
込んだ。醜悪なそれがのらりとこちらを見、またダンテに濁った視線を落とす。むかっとして、
それを押し退けようとしたバージルの背後で、ダンテがふっと目を覚ます気配があった。
「……ん……、ぅ……?」
目許を擦るダンテを、バージルは肩越しに見やった。寝ぼけ眼がバージルを見上げ、そして。
「……バージル……そのひと、だれ?」
視えている。バージルは知らず唾を飲み込んだ。ダンテには、バージルの視えるものは視え
なかった筈だ。しかし考えてみれば、バージルに視えるのだからダンテの目に映らぬ道理はない。
彼らは双子で、総てのものを等しく分かち合っているのだから。
ダンテは髪のくしゃくしゃになった頭を起こし、両手をシーツについて起き上がった。ぺたんと
ベッドに座り直して、首を傾げる。じっとそれを見上げるダンテの視線を、バージルは躰で
遮った。
「バージル?」
「視る必要はない。おまえは寝てろ」
後ろ手にダンテの頭に触れ、軽く揺さぶった。その手を、ダンテが掴んだ。
「でも、バージル」
「……なんだ」
バージルの声にびくりとしたのか、ダンテが怯んだようだった。少し逡巡して、バージルの手を
くいと引いた。
「ねぇ、どうして泣いてるの?」
思いがけない言葉に、バージルは思わず振り返ってダンテを凝視した。バージルの目には醜く
見るに耐えない姿――――間違っても涙など流しているようには視えない。それが、ダンテには
違って映っているとでも言うのか。
「ダンテ、おまえ」
茫然とするバージルの見下ろす先、ダンテは熱心な瞳をそれに向けている。
「どこか痛いの? ……哀しいの? なにが哀しいの?」
言葉すら交わしているダンテを、バージルは絶句して見つめるしかなかった。バージルには、
死んだものの声は聞こえない。いや、聞こえてはいるのだが、バージルの耳にはそれは言葉では
なく、呻き声にしか聞こえない。
ダンテが不意に、眉を寄せた。
「ひとりぼっちだから、哀しいんだ。……うん、さみしいよね」
バージルの手を握るダンテの手に力が込められた。バージルも母もいなければ、自分はどれ程の
寂しさに襲われるのかと、想像しているのだろう。ぎゅっと手を握り返してやった。
この死者はダンテに己の寂漠を伝えたくてここに来たのだろうか。たったそれだけの為に?
バージルの不審を余所に、ダンテはそれの声に耳を傾けている。
「ぼくはどうすれば良いの? どうしたら寂しくなくなるの?」
折れ曲がった腕がダンテへと伸びる。寂漠を埋める方法とは何なのか。これはダンテに何を
求めているのか。バージルはじっと、それの蒼褪めた指先を睨んだ。もしもダンテを害するつもり
ならば、容赦はしない。
バージルとは違い、危機感の欠片も感じていないらしいダンテは、伸ばされた指をそっと
握った。
「一緒にって、どこへ?」
ダンテの無垢な声に、バージルはぎくっとなる。やはり、この死者はダンテを“連れて行く”
つもりだ。バージルはダンテに触れる手をぱしんと打って払い退けた。突然のことに目を丸くする
ダンテを、再び背に庇った。
「消えろ。ここにおまえの望むような救いはない」
醜いそれは理解したくないとばかりに首を振り、なおもダンテに腕を伸ばそうとする。バージルは
その腕を掴み、濁った目をぎろっと見据えた。
「これに触るな」
怒りと同時に体内で何かが胎動する感覚がある。疼くような何か。正体など判るわけもないが、
これを解放すればおそらくこの死者を退けることなど容易なのだと、確信出来る。ごき、と何か
嫌な音がした。自分が掴んでいる腕が有り得ない方向に折れたのだと、ダンテの悲鳴で気付いた。
「バージル、だめ、やめてあげて!」
可哀想だと今にも泣き出しそうなダンテの声に、バージルは苛つかずにはおれなかった。誰の為に
自分がこれを退けようとしているのか、ダンテには判らぬのだろうか。
掴んでいた腕を放り出し、立ち尽くすそれの肩を突いた。よろめいて後退り、しかし懲りずに
ダンテの姿を探そうとするそれに、バージルは宣告する。
「二度とこれに近付くな。もし近付けば、もう一度殺してやる」
ひっ、とそれが恐怖に引きつった悲鳴を上げ、どろどろと溶けるように形をなくしていく。痕跡を
残さず、気配も総て消えたのを見届けて、バージルはダンテを振り返った。ダンテのバージルを
見上げる目には、はっきりとした怯えがある。今になって怖くなったのだろうと、バージルは
ことさら優しく微笑んだ。
「ダンテ、もう大丈夫だ」
安堵させる為の言葉に、しかしダンテはびくりとする。
「どうした、ダンテ?」
透けるように白い頬に触れてやろうと、バージルが伸ばした腕から、何故かダンテは後退って
逃げた。
「ダンテ……?」
呼び掛けと、怖いと訴えるダンテの声とはほぼ同時だった。
怖い? 何が――――おれが?
まさかと笑い飛ばそうとしたバージルは、そのときになってようやく気付いた。ダンテへと
伸ばした腕、手の形が妙であることに。爪は鉤のように伸び、指は猛禽のように節が立って
骨張っている。
これは何だ。よく見れば、腕は鱗のような、明らかに皮膚ではないものに覆われ光を弾いている。
ダンテが怯える理由はこれか。バージルは異形に近付きつつある自分を呪った。ダンテを脅かす
ものはたとえ自分自身であっても許せない。
隠れた皮膚を探すように外殻を掻き毟る。尖った爪が折れ、腕から血が滲んで紅く染まっていく。
やめて、と掠れた声を上げたのはダンテだった。
「血が出てるよ、バージルっ」
「……ダンテ、」
おまえを怖がらせたくないんだ。だから全部剥がさないとならないんだ。
「こわくない、こわくないからっ……」
ごめんなさい。ぼろぼろと涙を流して、ダンテはバージルに抱き付いた。バージルもダンテを
抱き締める。ダンテの髪は柔らかなにおいがする。躰をかがめてダンテの髪に鼻面を押しつけ、
バージルはほっと息を吐いた。変形した箇所が、先刻の死者のように溶けて剥がれていくのが
判る。
「ダンテ、おれのことが嫌いになっただろう……?」
バージルの胸に額を擦りつけて、ダンテが激しく首を左右にする。
「っ……らいじゃない……! すき、好きだよ……ッ」
ぎゅうっと強くしがみついてくる健気なダンテ。バージルは薄く笑みを浮かべた。
夏だから、という理由だけで書いたもの。
何がしたいのやら…しかもダンテが幼児…