紙魚シミ









ぱっと傘を開き、小雨よりも少しばかり強く降る雨の下へ出る。ぽつぽつ、ぽつぽつ。傘に当たる 雨音が何故だか楽しくて、彼は濡れたアスファルトを軽やかに駆けた。

ぽつぽつ、ぽつぽつ。

時間が経つにつれ次第に強まる雨足に、彼は嬉しそうに、踊るように傘をくるくると回しては 駆ける。ぱしゃぱしゃと、跳ねるたびに足許で水も跳ねて彼の足を濡らすが、彼は全く 頓着しなかった。

「ダンテ、」

後ろから声がかかって、彼はぴたりと足を止めて振り返った。相変わらず、傘はくるくる回して いる。その様子を見、くすっと笑う声は優しい。

「何?」

「楽しそうだな」

「まぁね。バージルも楽しそうだよ」

「おまえを見てると、飽きないからな」

ダンテが首を傾げると、バージルはまたくすっと笑った。

「早く行くぞ。そのために早起きしたんだろう?」

本来の目的を仄めかすバージルに、ダンテは「あっ」と声を上げた。そうだった。朝から 出かけると言うバージルについて行く為に、今朝は休日にも拘わらず七時に起きたのだ。 さっきまでのはしゃぎようとは打って変わってしゅんとなるダンテに近付き、バージルは傘を 重ねてダンテの頬にキスをした。

「ほら、行こう」

もう一つこめかみにキスを落として、バージルは微笑む。ダンテはぼうっとバージルを見、 うん、と頷いた。





バージルはよく図書館に行く。頻度は高く、学校が休みの日にはほぼ必ず行くと言って良い。 ダンテにすればそんなに借りる本があることも不思議だが、一日図書館にこもっていても飽きない のかという驚きが強い。
ダンテはバージルと違い、読み物の類が一切駄目だった。もっと幼い頃は絵本くらいなら好き だったが、それも母かバージルに読んで貰ってようやく、という程度でしかない。文字を目で 追っていると眠くなるか、もしくは飽きてしまって三十分と保たないのだ。だから、苦もなく読書に 打ち込めるバージルを、ダンテは純粋にすごいと思う。

「何借りんの?」

古い紙の匂いに若干怯みながら、ダンテはことさら明るい声でバージルに問うた。朝の図書館は 人もまばらで、声がよく響く。バージルはダンテの唇にちょっと触れた。

「静かに。小声でも充分聞こえる」

囁くように、しかし厳しく注意されて、ダンテはむぅと眉を寄せた。

「……わかった」

ガキみたいだ、と自覚はあるが、ダンテはまだまだ子どもに違いない。そうでなければ、 雨が少し降ったくらいではしゃぎはすまい。
膨れっ面になってバージルから背を向けたダンテは、居並ぶ書棚を見回しながら本の森を 彷徨うことにした。どこにいても、ダンテには理解の出来ない本があるだけだ。

「迷子になるな」

背中に投げられたバージルの声に、ダンテはちょっと唇を噛んだ。バージルは本に熱中している とき、ダンテの相手をほとんどしてくれない。今も、バージルはダンテに注意だけして書棚に 向かってしまった。判っていながら何故、早起きしてまで図書館へ赴くバージルにくっついて 来たのか。――――ちょっとした期待をしていたからだ。
けれども。

「バージルの馬鹿」

ぽそりと漏らした恨めしげな呟きは、誰の耳に入ることもなく紙の海に飲まれて消えた。





「はぁ……」

ため息すら思わぬ程よく響いて、ダンテはひとりでぎくっとした。静かだ。雨の所為もあって 図書館には客が少なく、そこかしこに静寂が大きい顔をしてのさばっている。
ダンテはぐるりと周囲を見渡したが、あるのは書棚ばかりで人影もなければひとの気配もない。 ダンテを包囲しているのは痛い程の静寂――――いっそ怖いと言える程の。

ぎゅっと手を握り締めた。このどこかにバージルがいることは判っているのだから、駆け回って 捜して、それからぎゅっとして貰おうか。

(でも)

バージルは本にかかりっきりだ。そんなときにダンテのことを構ってくれるとは思えない。第一、 バージルに勝手について来たのはダンテだ。嫌なら――――飽きたなら――――先に 帰っていろ、と言われるのが関の山だろう。
途方に暮れてため息を吐いたとき、こつん、と背後(それとも前方?)で靴音がした。ぎくっと して身を竦ませ、ダンテは咄嗟に右手の書棚の陰に隠れた。こつこつと、足音は澱みなく、 ゆっくりとこちらに近付いて来る。
ダンテは書棚に沿って足音とは反対方向に逃げる。足音はダンテを追って来るかのように、 ダンテの逃げるほう逃げるほうへとやって来る。

(なんで……どうしよう)

焦り、ひたすら逃げるけれど、足音だけの誰かはじりじりとダンテを追い詰めて、逃がして くれない。ダンテはじわりと涙を滲ませ、とうとう走り出した。が、それも僅かのこと。すぐに 脚がもつれ、ダンテは前のめりに転倒してしまった。

「っあ……!」

手をついて頭は守ったものの、動転してすぐに立ち上がることは出来なかった。そうしている 間も足音は。

「や……バージルっ……」

呼ばわるのと、ほとんど同時に。

「どうした、ダンテ?」

ダンテはがばりと顔を上げた。いつの間にか、すぐそばにバージルがいてダンテを見下ろして いる。ダンテは目を瞬かせ、しゃがみ込むバージルを凝視した。

「バージル……?」

「また、はでに転んだな」

くすっと笑うバージル。堅い床に転んだままの自分。

「ほら、」

差し出されたバージルの手を見つめ、ダンテはぐっと唇を噛んだ。両手をついて上体を起こし、 バージルに勢いよく抱き付いた。バージルはちょっと目を瞠り、すぐに笑みを浮かべてダンテの 背をぽんぽんと優しく叩く。ダンテはくしゃっと顔を歪め、ぐずぐずと泣き出した。

「ひとりにして悪かった」

背中をぽんぽんとやりながら、バージルがダンテの髪をくしゃくしゃにして、ダンテ、と何度も 名を呼んでくれる。ぐずった幼児をあやすようだが、ダンテは嫌とは感じなかった。むしろほっと しすぎて、震えと涙がまだ止まらない。
さっきの足音は何だったのか。バージルはいつから、ダンテがここにいることに気付いていたのか。 疑問はあるが、今は何も考えずにバージルに縋っていたい。

「バージル、バージルっ……」

よしよし、とバージルはダンテの髪を撫ぜ、キスをした。

「もう用は済んだから、帰ろう、ダンテ」

鼻をぐずぐず言わせながら、ダンテはバージルの肩口に額を擦りつけるようにして頷いた。 帰ろう。こんな怖い場所には、あと五分だっていられない。
バージルがダンテの腰をぐいと引き寄せた。

「俺の首に腕を回せ。立つぞ」

言われるままバージルの首に腕を回し、しがみつく。バージルはダンテを抱き締め、 ひょいと(重くもなさそうに)立ち上がった。

「歩けるか? 何ならおぶってやるが」

ダンテの尻をぽんと叩いてバージルが問うてくる。ダンテはちょっと考えて、バージルの肩から 顔を起こした。

「ううん、平気だから」

「そうか。無理はするなよ」

バージルは言いながら、ふとダンテの赤くなった目を覗き込み、何を思ってか眼球をぺろっと 舌で舐めた。ダンテは驚いて瞬きする。

「! な、なに、」

「……いや、飴玉みたいだったから、つい」

冗談というわけでもなく、さらっと言われてダンテのほうが困ってしまう。

「アメじゃないよ」

「判ってる。けど、甘そうに見えた」

「わかってないじゃん……」

「良いだろう、べつに。減るものでもないんだ」

「そういうことじゃない気がするんだけど」

噛み合わないものを感じながら、口の中でもぐもぐ呟くダンテの唇を、バージルが目にしたように ぺろりと舐めた。

「これなら良いだろう?」

何とどう比べて良いと言うのか、ダンテには判らないけれど。

「帰ってからなら、良い」

言って、ダンテはバージルの腕から抜け出した。ん、と手を差し出すと、バージルはちょっと 笑ってその手を握ってくれる。

「本、借りなくて良いのか?」

バージルが何も持っていないことに今になって気付く。

「あぁ、今日はな」

「ふぅん? まぁ良いけど」

早く帰ろう、と繋いだ手を揺らし、促す。バージルは肩を竦め、ダンテの手を引く形で半歩先に 歩き出した。ついて行くダンテを、バージルが肩越しに見やる。蒼い瞳が一瞬ダンテよりももっと 後ろに視線を投げた気がしたが、ダンテが首を傾げたときにはもう、顔を正面に向けていたので ただの見間違いかもしれない。
後ろに誰か(何か)がいたとしても、振り返って確かめることをダンテはしない。バージルが 何も言わないのだから、わざわざ見やる必要はないのだ。

ダンテはバージルの少し冷たい手を、ぎゅっと握った。



















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仔双子デート編です。←何か違う。
イメージ、中学生入ったぐらいでしょうか…?