暗愚
痛みを痛みとして自覚するには、痛覚はもちろんのこと、もう一つの要素が必要となる。己と
その周囲を取り巻く世界とを認識する、確かな存在だ。
ごとりと重たげな音がして、ダンテは閉じていた瞼を持ち上げた。眠っていたのではないと思うが、
実際は少しまどろんでいたかもしれない。何かの気配がすればすぐに目覚めることができる程度に、
ダンテの眠りは常に浅い。
暗いリビングのソファーから、物音のしたほうへ目だけを向ける。閉めきったドアのあちら、
廊下の先に誰かがいるらしい。誰か、など。ダンテは内心でなんだと呟いて、持ち上げていた瞼を
下ろした。
どかどかと遠慮のない足音が響き、リビングのドアの前で止まる。続いてドアがやはり
けたたましい勢いで開き、姿を現わしたのはダンテの予想どおりの人物だ。
「あれ……」
どこか茫洋とした声。ぺたぺたと壁に据え付けられた電灯のスイッチを探す音。そしてカチリと
音が続き、瞼の向こう側が眩く包まれる。明かりなどなくでも見えるだろうにと、ダンテは
思いかけてやめた。ダンテとは違い、彼はまだ人外の能力を自在に操ることができないのだ。
煌煌とした明かりに手助けされ、ダンテの姿を発見した彼は妙に浮かれた声音で「やっぱ
ここかよ」と弾むように言い、こちらへ近付いてくる。
「おっさーん、寝てんの〜?」
見れば判るだろうに間延びした声で自分を呼ばわる彼に、ダンテはやれやれと思う。寝ていると
思うなら声などかけなければ良いものを、この坊やは。
「なぁ、おっさんって」
ダンテの寝そべるソファーのそばに寄り、床に座り込んだらしい彼は、当たり前のようにダンテの
腹に頭を乗せてきた。重いとは思わないが、ぐりぐりと腹へ頭を擦りつけるのはやめてもらいたい。
まぁ、可愛い悪戯と言ってしまえばそれだけのことで、迷惑とは思わぬのだから仕様がない
けれども。
「おっさん、おっさん」
何が楽しいのか、彼は飽きもせずダンテを呼ばわる。名では呼ばぬ理由は単純だ。彼もまた、
ダンテという名であるから。ダンテと彼とは同一の人物であり、彼らを区別するのはそれぞれの
年齢、そしてそれにともなう見目の違い、それから体躯も加えて良いだろう。彼はダンテよりも
肩幅が狭い。まだ若いのだから、鍛え抜かれた体躯を誇るダンテに及ばぬのは当たり前の
ことだ。
彼は、ダンテの半分とはさすがにいかぬが、若い。自分の若い時分はこうだったのかと、ダンテは
時折しみじみと思ってしまうほどに。
おっさんおっさんと何かの呪文のように唱えていた彼が、何を思ったかダンテの腹に腕を乗せ、
這い登るようにして上半身を乗り上げてきたのだ。少々重いが、寝ていると見せかけているので
呻くわけにもいかない。それにしてもこの坊やは何がしたいのか。若い者の考えることは判らない、
とダンテが年寄りじみたことを内心で呟いている間も、彼はもそもそと動き続けている。
上半身だけでは飽き足らず、膝をソファーの端に乗せ、ついには全身をダンテの上に乗せて
しまった。とはいえ、彼もけして短躯ではないため、膝から先はソファーの外へはみ出ている
ようだが。
「おっさぁん」
甘えるような声で、ひとのことを呼ばわるのはやめたほうが良いとダンテは思う。相手が男なら
ば
なおのこと。気持ち悪がられるか、勘違いを起こされるか。ダンテが相手ならば、そこはまぁ、
そういうことになるだろう。ただでさえ、この態勢だ。
(まったく、この坊やはどうしたもんだか……)
抱き締めたものか、唇を奪ったものか。ダンテががらにもなく迷いを弄んでいると、思いがけぬ
ことが起こった。彼が、ダンテがどうこうする前にダンテの唇を塞いだのだ。何で、などと野暮な
ことは訊くものではない。
が、それで混乱に陥るようなダンテではなく、そこは年の功がものを言う。
(おいおい……)
どういう風の吹き回しかと、驚きながらも呆れてしまう。ふだんの彼は、自らキスなどめったには
しない。性慾は人並みにあるのだが、そうした行為はダンテから仕掛けるのがほとんどで、
自分からはろくにキスもできないのだから、セックスをねだるなど論外というものだ。それが、
なぜ。確かに先刻からどことなく妙な様子ではあったが……
「ん……」
うっとりしたふうに唇を離した彼は、ダンテの肩口に半ば頭を埋め、蕩けた声音で囁いた。
「なぁ、おっさん、おれも……俺のことももっとかまえよ……」
甘くも恨みがましい響きのある言葉。しかしだからこそ愛しく感じるその囁きに、ダンテは
苦笑するしかない。あぁ、だから今日は独りで飲みに行くと言って(どこか怒ったふうに)
飛び出して行ったのか、と。
遅くなりすぎるなよと父親じみた科白をダンテが口にすると、ガキ扱いするなと悪態を吐いていた
彼。きっと唇を尖らせていたのだろう。頬を膨らませていたかもしれない。どちらにせよ、彼は
拗ねていたのだ。何故か? ダンテが、今朝方玄関の前でうずくまっていた猫に、一日かかり
きりでいたからだ。
(かわいいことしやがって……)
呆れてしまう。まさか猫相手に妬いていたのかと思うと、呆れて、そして可愛くて仕方がない。
くっくと、笑う。のしかかり自分に全体重を預けている彼の腰と背に、腕を回し抱き締めた。
んむ、と彼が寝言のように何か言うが、よほど飲んだのか何を言っているのかさっぱりだ。
眠りかかっているのだろうか。それにしては、思い出したように顔を上げてはキスをしてくるのは
何なのか。酔っているから、なのだろうか。だとしたら、何ともたちの悪い酔い方だ。
ダンテは唇を歪めるようにして笑みを作り、肘掛けを跨いで放り出していた脚を片方、
ソファーから下ろした。そして彼が次にキスを仕掛けてきたときに――
「ん……お、さ……ぁ、ん……っ」
触れるだけの彼からのキス。ダンテは彼の後頭部を鷲掴みにして押さえ、指に絡む髪の柔らかさを
愉しみながら彼の唇を舌先で割った。意識はほとんど飛んでいるのか、彼の唇はすぐにダンテの
舌を受け入れた。口端に笑みを浮かべ、戸惑うようにそこにいた彼の舌を搦めとる。ん、と彼が
鼻に抜ける吐息をもらした。
「んふ、ぅ、ン、んっ」
舌の根をくすぐれば、彼はぞくぞくと背筋を震わせる。相変わらずキスが好きなのだなと、
からかう意図はなく思う。くちゅりと舌を絡め、吸って、彼の緩慢にしか動かぬそれを翻弄する。
自分自身に焦れてか、彼は眉根を寄せて何ごとか呻いた。
「んん、ん、く……」
懸命にこちらの動きについて来ようとするさまは、どうにも微笑を誘われる。何よりのしかかった
腰の変化がありありと伝わってきて、いっそうダンテの笑みを深くさせた。
ちゅ、とわざと音をさせて唇を解放する。互いの唾液に濡れた彼の唇を舌で舐め、それだけの
ことでぞくりと震える躰に目を細めた。
「気持ち良いか、坊や?」
訊くまでもないことを、わざと尋ね、酔っているせいでいつになく素直に首肯した彼と自分の躰の
間に手を割り込ませる。
「ちっと、腰浮かせな」
耳許に囁き、革パンツの上から彼の中心を軽く撫ぜる。そこはすでに張り詰め、窮屈そうに布を
押し上げている。言うまでもないが、ダンテ自身のそれも良い勝負だ。こちらはまだ理性が残って
いるだけに、十二分に猛っているとまでは言えないだけのことで。
半ば眠った状態でも、ダンテの言葉は理解できているようだ。彼はいつもならば必要もない努力を
注ぎ、ほんの少しだけ腰を持ち上げた。ダンテの肩に手をつき、窺うように顔を覗き込んでくる。
上目遣いの双眸にはふだんにはない艶があり、無言で行為の先を促している。――ように、
ダンテには見えた。
「酔った坊やに誘われて慾情なんて、どうも情けねぇ気もするが……」
これもある意味で据膳だ。おいしくいただかねば男が廃るというものだろう。酔った云々を抜きに
すれば、誘ったのは間違いなく彼のほうなのだから。
「おっさん……」
はやく、という意味なのか。何か言いたげな瞳は半ば睫毛に覆われている。その
表情はまずかろうと、ダンテは思ったが口には出さない。彼の相手は、
今のところ自分一人に限られている。すなわち彼のこんな色気のある顔を見ることができるのは、
自分ただ一人だけなのだ。わざわざ釘を刺すまでもない。
(今は、な)
彼はまだ、心身ともに坊やの域を出ないのだ。
「なぁ、おっさんって……」
焦れったそうに彼がダンテを呼ばわる。ダンテは苦笑し、彼の望みを叶えてやるべく手を
動かした。革パンツのボタンを外しジッパーを引き下げて、下着の上から熱くなった彼のものの
形を確かめるように輪郭をなぞる。びくびくと、彼の腰が揺らめいた。
「っ、ぁ、あ……っ」
甘い声だと、思う。本人にそのつもりはないのだろうが(酒が入っていなければ、間違いなく
無自覚だと言い切れる)、ダンテの耳には男を煽っているようにしか聞こえない。事実、ダンテは
彼の声によって自身が硬度を増していることを自覚せぬわけにはいかなかった。まったく、
この坊やにはよくよく狂わされてしまっている。
可愛い坊や。出合った当初は、まさかこんなにもハマるとは思ってもみなかった。人生は何が
あるか判らぬからこそ面白い。ダンテは、人生を大いに愉しむことに意義を見出す人間である。
「はぁ、ん、ぅ」
花芯をなぞるだけの指に焦れてか、彼がダンテの肩を掴む手に力を込めた。腰は浮かせたまま、
顔を近寄せてくる。どうするのかと見つめていると、唇を重ねてきた。触れ合わせるだけのそれを、
何度も。
「おっさん、なぁ、おっさん……」
キスの合間に切羽詰まったふうに名を呼ばれ、冷静でおれる男はいまい。快楽主義者である
ダンテも無論、例外ではない。
くっと、喉の奥で笑った。
「もうちょっと触ったら、すぐ弾けちまいそうだよなぁ?」
言って、すでにじわりと下着を濡らし始めている先端を、爪で掻いた。びくっと彼の腰が
跳ねる。
「ひゃ……ッ!」
「っと、」
ぶるりと震えかかる彼の花芯、その根元を下着の上からだが押さえて射精を押し止どめる。
やだ、と耳許にかすれた声。ダンテは彼の前髪を掻き上げて汗の滲んだ額を撫でた。
「やだ、じゃねぇよ。このまま出したらどうなるかくらい、判るだろ」
酔って理性など飛んでいる坊やに言ったとて、理解はできぬかもしれない。下着を脱がずに
射精などすれば、当然濡れる。おもらしをしたようなありさまになり、後悔するのは彼自身に
違いないのだ。――判っていて悪戯を仕掛けたのは、他でもないダンテであるが。
ぽたりと、何かが頬に落ちた。水――いや、
「泣くなよ、坊や」
震える睫毛に涙が滲み、今にも大雨が降りそうになっている。泣くようなことかと思うけれど、
泣かせるような真似をしたのは自分であるだけに強くは出られない。苛めたいわけではないのだ。
その、慾望はなきにしもあらずだが。
泣いてない、などとありきたりな科白は彼の口からは出なかった。代わりに、とでも言おうか、
紡がれた言葉にダンテは一瞬目を丸くしてしまう。
「……ぃ……から、はやく、かまって」
飼い主に遊んでもらいたくてならない子猫のように、彼はぐずぐずと洟をすすりながらダンテの
頬に鼻面をすり寄せる。
「っ……はは、参った。俺が悪かったよ」
まだ涙の止まらないらしい彼の、後頭部の髪を多少荒っぽく掻き乱し。
「たっぷりかまってやるから、泣きやんでくれ。な?」
顔は上げられぬままだったけれども、こくりと頷いた彼を。ダンテは言葉どおり、思う存分
かまい、そして甘やかした。
翌日、夕暮れ近く。
「……、……」
ぬらりと疲労困憊の体でリビングに現われた、寝乱れたままの姿の彼をダンテはひとまず
ソファーに座らせキッチンへ立った。
「コーヒーで良いだろ」
返事も待たずコーヒー豆の入った瓶を取り出すダンテを、彼はぼんやりと眺めながら
「あのさ、」とすっかり嗄れた声音で呼ばわった。ダンテがちらと視線だけをやると、
彼は何やら首をかしげており。
「……なんで、こんな怠ぃんだと思う?」
全身、と。とぼけたふうはまるでなく彼が呟くものだから、ダンテは一瞬口を半開きにしたまま
絶句し、しかしそこは年の功だ、すぐに立ち直って彼に言ってやった。
「寝相が悪すぎるからだ。昨夜も何度かベッドから落ちてたぜ」
「マジ? だからかなぁ……腰がやたら痛ぇんだよ」
「落ちたときにでも打ったんだろ。ったく、たいした寝相だよ」
「るせぇ。……あー……もう怒鳴る気力もねぇよ」
ソファーにぼふんと寝そべり、寝て良いかわざわざ確認してくる若い彼へ、ダンテは肩を
竦める。
「とりあえず、コーヒー飲んで何か喰え。どうせ、昨夜は飲むばっかりでほとんど喰って
ないんだろ」
「うー……あんま覚えてねぇ……」
だろうな、と内心で一人ごちる。かまってと泣き、一度や二度のセックスでは足りないとまた
泣いたことなど記憶の片隅にも刻まれてはいないようであるから。
まぁ、それはそれで、彼にとっては良いのかもしれないが。
「なぁ、坊や」
「んー……なに……?」
「俺がこんなにもかまってやるのは、お前だけだ」
ほら、コーヒー。ことりとテーブルにマグカップを置いたときには、彼はすでに眠りこけていて。
やれやれ、とダンテに肩を竦めさせたのだった。
今この現実を支えている最大の存在を、かまわずに他の何をかまえというのか。
半分は悪魔でできている自分。鈍くなるばかりの痛覚を甦らせるのは、自分を現実に引き止め
つなぎ止める彼の存在のみ。
その彼を、自分ただ一人に縛り付けておきたくて。
彼が好みそうな猫を見つけたとき、猫が彼に懐く前に自分に懐かせてしまおうと。そんな、
馬鹿なことを企んで。
結果的には、効果は上々。少しばかり効きすぎたかもしれないが、そこはご愛嬌、
ということで。
幼くあどけない顔で眠る坊やは、知るよしもない話。
某所様にて拝見した、酔ってキス魔になるサンテ。
に萌えて決行。43ネタだったのでそのまま43で。
すいません、本番までいけませんでした…無念…
[08/09/18]