春霞、壱
「もう春ね」
唐突に投げ掛けられた声に、ダンテはピザを口に運びかかっていた手を止めて眉を顰めた。
「……なんだ、いきなり?」
気に入りの黒檀のデスクに付随する椅子に腰掛け、
デスクへ長い両脚をどかりと投げ出したダンテの傍らで。
よく張った形の良い尻をデスクに乗せて、同じくピザを頬張る絶世の美女が、
脂でぬめった己の指を舐めつつ言う。
「ただの世間話よ。深い意味なんてないわ」
あっさり、ある意味でばっさり、何の感情もこもらぬ声音で言ってくれた彼女に、
ダンテは「あ、そ」と呟いてピザを咥えた。
チーズがたっぷりと載せられたピザは、ピザ好きのダンテを満足させ得る程度に旨い。
思わず笑みを浮かべるダンテとは違い、
かの美女は表情一つ変えることなくピザを胃に納めていく。
ダンテは贔屓目に見ても色男だ。
一見して美男美女のカップルか夫婦に見える彼らではあるが、
仕事の上での相棒という立場を超える関係には至っていない。
完璧としか言えぬ容貌を持った美女を目の前に、
手を出さぬとは何ごとかと世の男たちは疑いたくもなるだろう。
だがダンテは、彼女とそういった関係になりたいと思ったことが一度もなく、
これからもその気持ちは変わらぬだろうと思っている。
けっして、不能だからという理由ではなくて。
「春、ねぇ……」
ぼそりと無意識に紡がれた呟きを、
見事な金髪が美しい彼女はさも聞こえなかったとばかりに聞き流し。
ダンテはピザの箱へと再び手を伸ばした。
そんな、何ということのないやりとりがあった、数日後。
「……またか」
呆れるでもなく呟くダンテが一人。
壁に向かって独り言を言う姿ははっきり言って薄ら寒い。
だがダンテは何もない壁に対面して呟きをもらしているわけではないのだ。
彼の視線の先には、赤い口紅で走り書きをされた文字がある。
“しばらく出掛けるから、あとはよろしくね。”
「しばらくって……今回はどれぐらいなんだかな」
呆れるよりも感心してしまうほど、彼女は自由を謳歌している。
彼女、とはダンテの相棒である、金髪碧眼の紛れもない美女のこと。
名はトリッシュといい、ざっくり言ってしまえば人間ではない。
悪魔の王によって造り出された、ダンテの亡き母に生き写しという美しいいきものだ。
その彼女は、時折こうして、突然姿を消すことがある。
前回は、ちょっとと言いつつ二週間帰って来なかった。
その前は一週間強だったろうか。いちいち日数など数えていない。
彼女は野良猫のように、ふらりとどこかへ行ってはまたふらりと帰ってくるのだ。
その足跡を知ろうとは、ダンテは思わない。
彼女は自由であれば良いと思う。
自分もまた、彼女のように姿を消しこそしないけれども、好きなように生きているのだから。
ただ、問題が一つ。
「書くなら紙に書けっつってんのに、あいつは……」
口紅の汚れはただでさえ落ちにくいのだ。
これのせいで、壁にはいくつも跡が残ってしまっている。
無論、壁の掃除をするのはダンテだ。
生活能力にことごとく欠くトリッシュに掃除など、天地かひっくり返っても無理に違いない。
ぶつぶつと主婦めいた愚痴を口の中でくさすダンテ。
しかし彼女と縁を切ろうとは思ったこともない。
何かと問題点のある女性ではあれど、猫のように気ままな彼女とは、やはり相性が良いのだろう。
「まぁ、アレはアレで良い女……」
結論を呟こうとしたとき、
「誰に向かって喋ってるんだ?」
背後からの突然の声に、ダンテは不覚にも肩を跳ねあげた。
と言ってもわずかな動きでしかなかったが。
ばっと振り向いたそこには、ダンテを驚かすことに成功しにやりと笑……ってはいない、
極めて白に近い銀髪の青年がいて。じっとダンテを見つめている。
「……ネロ?」
なぜここに、と訊くより早く、ネロという名の青年が口を開いた。いわく、
「あんたに合いに来たんだ」
ということらしい。実に簡素だが理解に苦しむ理由である。
ダンテは首の後ろを揉むように指圧した。どうにも肩が凝る。
「あー……、そりゃ、有り難いな」
かなり雑な応答をしたダンテを、感受性豊かに違いない年頃のネロはじとりと睨む。
本当に有り難いと思っているのかと、疑ってでもいるのだろう。
ならわざとらしく喜んで見せれば良いというのか。
拗ねたように眉を寄せるダンテに、ネロはふんと鼻を鳴らした。
「あんたはそういう奴だよな。いっつも、俺ばっかり……」
その先にどんな言葉が続くのか、ダンテは聞いてみたいと思いながらも遮った。
「判った判った、俺が悪かったよ。コーヒーでも淹れてやるから、リビングに来な」
荷物は、と見ると、ネロの手には小振りのボストンバッグが一つ。
数日間は滞在する気なのだと、一目で判った。
まぁ、定期船のことを考えれば、嫌でも数日はこちらにおらねばならないのだということは、
ダンテもよく知っている。
その上、男の身だ。着替えの量も知れている。
ダンテは肩をすくめた。
「それ、その鞄は二階に持って行っておけよ。部屋は向かって右だ」
ダンテがネロへ示したのは、現在は空き部屋となっている一室だ。
しかしベッドはあるし、マットレスもいちおうある。
気が向いたときに掃除もしているので、ドアを開けただけで埃が舞うようなことはない。
以前にネロが訪れた際にも、ダンテはその空き部屋をあてがった。
他の人間にはけっして使わせることも立ち入らせることもない、ある意味での開かずの部屋を。
「……了解」
ネロに軍役の経験はないが、騎士団に所属していただけに、いちおうの礼儀はわきまえているらしい。
随分浮いた存在だったと聞くが、さもあらんとダンテは思う。
自分がネロの立場であっても、さぞや浮き上った存在となっていただろう。
自分とネロは、よく似ている。
いや、自分よりもネロとよく似た男を、ダンテは知っているのだけれども。
ボストンバッグを提げ、ダンテの指示した部屋へ向かうネロの背を、ダンテは目を眇めて見送った。
その背に、ネロとは違う誰かの影が見える気がして。
(馬鹿だな、俺は)
存在しないものを別の人間に見出だそうなどと、無意味で、不毛にすぎる。
判っていても振り切れぬものを、ダンテは背負ったまま生きてきた。
器用なようでいて誰よりも不器用な彼には、そうすることしかできないからだ。
「…………」
声には出さずため息を吐き、ダンテはリビングへ向かった。
春霞、弐
自分があれぐらいの歳をしていたころ、いったいいつも何を考えていただろうか。
なんて、意味のないことを考えて。
「飯だぜ、坊や」
呼ばわれば、まだ少年の面影を残した青年がのろのろとこちらを見やる。
寝起きそのものは悪くないのだが、少々血圧が低いのだろうか。
早朝はいつもより反応が鈍い気がする。
自分はかつて、朝が異様に弱かった。
時計の短針が十二を回ってから起きることはざらで、
太陽をして朝日と称する時刻に目を覚ますことなどめったになかったように思う。
それをよく、呆れられたものだ。
誰に、とは、そっと覆いを引いて隠してしまう。
「……おっさん、」
名で呼ばわらないのはお互い様だ。
ダンテは青年のぞんざいな口調を咎めることなく、なんだ、といつものように応じた。
「ソルト、」
ぼそりと呟くのへ、ダンテは「あぁ」と思い至り、
塩の入った小さな瓶を青年の手の届くところへ置いた。
朝食はトーストとスクランブルエッグのみのシンプルな構成だ。
味付けには好みがあるので、卵には塩を僅かばかり投じただけだった。
一口食べ、あまりの薄味に眉を顰めたものらしい。
小瓶の蓋をもたもた開けようとする青年を見かね、ダンテは肩を竦めて小瓶をかすめ取った。
きゅ、と蓋を回し、再び青年の手に戻してやる。
親切の押し売りをするつもりは彼にはない。
正義感は強いほうかもしれぬが、親切心は押し付けるのも押し付けられるのも大嫌いだ。
自分の分のスクランブルエッグに塩を振るかどうか、首をひねっていると、ふと。
青年がこちらをじっと見つめており。
「……? どうした、坊や? 早く食わねぇと冷めちま……」
「なんか、新婚さんみたいだ」
ぼけっとした表情で、けれどもどこか期待の混じったきらきらした瞳に見つめられ、
ダンテは年甲斐もなく頬がほてるのを感じて。
「っ……早く食え。寝癖坊や」
白の勝った銀髪はあちらこちらで自由に跳ねていて、
朝飯を済ませたら水で修正してやるか、などと考えていたことは、もちろん秘密だ。
何となく心臓に悪い朝食を終え、こんなときでも沈黙を決め込むレトロな電話機を睨むことにも飽き。
半ば趣味と化している愛銃たちの手入れでもしようかと、黒檀のデスクに向き直る。
この自宅を兼ねた事務所には、全体を通じてダンテの好みが大いに反映されている。
例えばこの黒檀のデスクと椅子のセット。
古めかしい電話機。
おどろおどろしい奇怪な生き物の首が分厚い剣に串刺しにされたものが、いくつも壁を飾っている。
昔はドラムセットやジュークボックスなど置いていたが、今は隅にビリヤードの台だけが残っている。
悪趣味なことに変わりはない、と昔馴染みの情報屋は言う。
そうか? と首をひねるダンテ。これでも地味になったと思っているのだが。
まめな性格では間違ってもないダンテだけれども、銃たちの手入れにはいつも余念がない。
微に入り細に入り、各部品すべてを布で磨き上げる。
銃は精密機械と似ている。
こまめに手入れをしてやらねば、いざというときに弾詰まりなど起こしては話にならない。
およそ綺麗好きとはかけ離れたダンテであるが、銃の手入れについてはまるで別人になる。
その能力を他に活かせ、と渋面を作ったのは。
「おっさんて、」
不意に呼び掛けられ、ダンテは不覚にもはっとした。
「あ? あぁ……坊やか」
どうした、と問えば、秀麗と言えるだろう青年のおもてに笑みが浮かぶ。
「ぼぅっとしてるとこなんて、初めて見た」
弱みを握った、というふうではなく。
内心ひどく嬉しいのだろう、瞳の奥が笑っている。
「……そうか?」
「そうだよ。それよりさ、それ、いつも自分でやってるよな?」
銃の手入れのことを言っているらしい。そうだが何だ、と。ダンテは首をかしげる。
不用意にばらして元に戻せなく例もなくはない。
銃の構造とは、外見に反してかなり複雑だ。
専門の店にメンテナンスに預ける人間も多いだろう。
が、ダンテはそれをしない。
「坊やは違うのか?」
そういえば、青年のアパートメントに厄介になっている間、銃の手入れをしているところは見ていない。
銃は常に視界のどこかにあったので、人に預けていたわけでもないのだろう。
相当無茶な改造をしていると見受けられた、青年の銃。
あれを改造した当人以外がどうこうできるとは思いにくい。
「自分でもやるよ。今は教団がなくなったから、とくに」
「あぁ……、そりゃ、悪いことしちまったな」
「べつに。あれはあれで良かったと思う」
口数は元から多くない青年だが、ぴたりと口をつぐんでしまった。
孤立していたというくらいだ、魔剣教団そのものに未練はないかもしれないが、
親しい人間の死は青年の心を大いに傷付けただろう。
もし、という世界は存在しない。
ダンテがかの教団に関与し、結果、教団の瓦解を招いたことは確かだ。
言い訳をするわけではないが、おそらく。
(俺が手を出さなかったとしても、)
ダンテは肩を竦め、分解した銃の部品をざっと拭き清めた程度にして、もう一度組み立てた。
その手許をじっと見つめていた青年が、どうしたのか問うように視線を上げるのが判る。
しかしダンテは、そちらを見ることはしない。
自分を見つめるアイスブルーの双眸は、どこか犬を思わせるそれと知っているから。
見れば、ほだされる。
「さて、と……昼飯でも作るかね」
言って、椅子から腰を上げたダンテに倣うように、
青年はデスクに乗せていた尻をのろのろと降ろして。
またピザか? などとよけいなことを宣うものだから。
「嫌なら食わなくても良いぜ。自分で作りな」
キッチンなら貸してやる、と。
にやりと笑えば青年は渋面を作り、ピザで良い、などと可愛くないことを言って。
くつくつと笑いながら、自分がもうすでにこの白い青年にほだされているという事実を、
ダンテは直視せぬよう目を背ける。
春霞、参
いつまで滞在するつもりなのか、ダンテはネロに問うことはしていない。
次の定期船に乗る算段をしているのか、それともひとつ見送るのか。
ネロは何も言わない。だから、ダンテも聞こうという気にはならなかった。
妙な、と他者には言われるかもしれない。
聞けばいいではないか、と。いったい何の気遣いか、と。
馴染みの仲介屋ならば、会話のついでに聞くに違いない。
あくまで、ただの世間話のように、軽く。
しかしそうしない――そういった会話をしないダンテは、やはりどこかずれているのだろう。
自覚はないのだけれども、たぶん、おそらく自分は少しおかしいのだ。
(馴染んでる、なぁ)
悪い傾向だと、思う。嫌悪を感じぬからこそ、なお悪い。
悪い、悪いと思っておらねば、あまりにも自然になりすぎるように思えて。
――足掻く。そうしている時点で、もう手遅れなのだけれども。
対して、ネロの態度は一貫している。
いたって、無口。何かにつけて反応は小さい。
ぼんやりしていると思ったら、こちらをじっと見つめていたりする。
しかも、無意識に。
ああも強い視線を注いでおきながら、自覚がないのだから始末に負えぬ。
何か言いたいことでもあるのかと、問えば青年は何かをためらうような素振りをする。
掌で隠した唇を、ぎゅっと噛んでいることにはダンテは気付いていないけれども。
きっと何かを隠しているとは、わかる。
その何かを問いただすには、ダンテにはまだ、勇気が足りない。
そうして理由をつけて、遠ざけている。
青年の声ならぬ言葉を――その視線に宿る感情と向き合わぬように、
勇気がないのだと言い訳をして、目を逸らす。
ずるいと言われようとも知ったことか。
若いネロと自分とでは、いろいろと、本当にいろいろと違うのだから。
うだうだ考えたところで、堂々巡りになるのはよく知っている。
ダンテはひとつため息をつき、後頭部をがりがりと掻いた。
煮詰まったときは、酒か、もしくは適度な運動が良い。
今日は前者にしよう。決めて、ダンテはソファーから身を起こした。
と、同時に。
「どっか、出るのか」
横合いから声がかけられる。ネロだ。
二階にあてがった部屋に引き取っていたのではなかったのか。いつからそこにいたのだろう。
ネロの存在に気付かなかった自分に舌打ちする。
おそらくネロは、気配を消して近づいたのではないはずだから。
だが、動揺を悟られぬようわざわざ繕わずとも、面の皮は厚くできてる。
若いネロには、ダンテの表情をさぐることは難しいに違いない。
「あぁ、ちょっとな」
隠すつもりはないのだが、曖昧にいえばネロの目つきが少々鋭くなった。
淡い碧玉の色味が、濃くなったように見える。
「どこに」
ダンテは肩をすくめた。出かけるというほど、たいそうな場所ではない。
「酒だよ。バーなんて洒落た看板下げた店じゃねぇが」
暗に、ならず者の集まる酒場なのだと含ませる。
バーにはまれに顔を出すが、なにかと都合が良いのは馴染みの酒場のほうだ。
がらは、すこぶる悪い。しかし自分の身分を鑑みれば、分相応である。
仲介屋もよく出入りするため、飯の種には欠かないのも利点だ。
ネロは一瞬、唇を噛むようにした。ダンテがいぶかしむより先に、口を開く。
「俺も行く」
短い、しかしはっきりとした意志のある声音だ。
「べつに構わないだろ?」
先回りをされて、ダンテはちょっと答えに窮した。
無論、駄目だという理由はない。酒など、ダンテはネロの歳のころにはあおっていた。
荒事師も多く出入りするが、ネロの腕ならば絡まれることがあっても心配は要らない。
それでもすぐに承諾の言葉が出なかったのは、なぜ、一緒に行きたいと言い出したのか。
その真意を読み取れなかったからだ。
「なぁ、おっさん」
良いだろう、と。ネロが念押しする。ダンテはぎこちなく、あぁ、と頷いた。
「構わねぇが、どうした、急に」
その理由ぐらいは、聞いても大丈夫だろう、と。そんなふうに考えての言葉では、おそらくなかった。
自然な――あくまで当然の疑問だ。だから、深く考えずに訊いた。その、はずだ。
ネロの形の良い唇から紡がれたのは、およそ彼の想定していなかった言葉で――
しかし予想の範疇にあるべき言葉だった。
「あんたと一緒にいたいから」
変な虫がついても困る、と呟いたのは、あえて聞かなかったふりをする。
よく似た形の唇でも、紡がれる言葉の響きはまるで違う。
あの男は、青年のように真っ直ぐな言葉を紡いだことなどない。
違った意味では、常に直截的な言葉が紡がれていたけれども。
落ち着かない、というのはこういう状況のことを言うのだろう。
ダンテは“いつものもの”をちびちとやりながら、ちらと右隣に視線をやった。
ものもいわずどこかを見つめる横顔は、秀麗だが、どこか冷たい印象がつきまとう。
二人で対しているときは感じぬことも、
こうして他者と混じってしまえば際立つものであるらしい。
あまり見かけることのない銀髪が珍しいから、という理由ではなく、
青年はなにかしら、周囲に溶け込まぬ独特の雰囲気を醸し出しているようなのだ。
それで、落ち着かないのかと、いえば。そうでもないから、少し困っているわけだ。
「……おっさん、」
不意に呼ばわるから、どきりとする。かといって、いつも身構えているわけにはいかないけれど。
「うん? なんだ、まずいのか?」
ネロの手許のグラスには、琥珀色の液体が半分ほど。
ほとんど減っていないところを見るに、口に合わなかったように見受けられるが……
「べつに。一気に飲むもんでもないだろ」
もっともなことを言い、ネロは「そうじゃなくて、」と続けた。
「それ、……いつもなのか?」
「あん?」
それ、とは。ダンテが先刻からつついている、嵩のあるもののことに違いなく。
しかしあくまで“いつものこと”であるダンテには、何のことか理解するのに数秒を要した。
反応が鈍いと焦れたのか、ネロの眉根に線が刻まれる。
短気であるところも、よく似ている。
「あぁ、これか。なんかおかしいか?」
「変だろ。この場所で、それって」
ストロベリーサンデーは、そんなにこの場に馴染まないだろうか。
首をかしげるダンテと、カウンターの向こう側で口許を緩めている親爺。
ダンテの好みを理解した上で、文句も言わず、特別仕立てのサンデーを出してくれるのはこの親爺だけだ。
カウンター越しの親爺の目は、いつも優しい。
だから、ダンテはここへ通う。
居心地のいい空気に、ダンテは弱い。
「あんたが甘いもの好きなのは知ってるけど、」
甘いものは、食べるが量は要らぬというネロの、眉間の皺が深くなった。
ストロベリーサンデーを見ているだけで、軽く胸焼けでも起こしたのかもしれない。
そのために、今まで視線を外していたのだろうか。
しかし突っ込まずにはおれなくなって、こちらを向いた。
そのへんは、似ていない、と思う。
むしろ自分に似ているか……。
「ここのサンデーは最高だぜ?」
おまえも喰うか、とにやりとして見せる。
青年が渋面を作るのは目に見えているけれど。だからこそ。
「いらない。わかってて訊くなよ」
性格悪いぞ、と。予想通りの反応を示すネロに、ダンテはくつくつと笑った。
ときに小憎たらしいことのあるネロだけれども、こんな表情を見せるときは可愛いものだと思う。
歳相応。若造はこうでなくては。
「旨いのになぁ。俺が全部喰っちまうぞ」
「どうぞ。頼んだのはあんただろ」
「ま、そうだな。……ん、うまい」
細長いスプーンをくわえ、アイスクリームが舌の上で溶けるのをじっと味わう。
甘みと冷たさがじわりと広がり、ふわりと薫る。もう、これを食べ続けて何年になるか。
頑固で愛想のないダンテ贔屓の親爺は、随分老いた。
自分も、ネロを若いと思う程度には歳がいっている。
いつまでも若いままではいられない。
老いた、という言葉はまだ似合わぬが、歳を重ねたダンテの横顔を、ネロがじっと見つめてくる。
まだ何か、言い足りないことでもあるのだろうか。
そう思い、スプーンを口から離したダンテに、ネロは言う。
「子どもみたいだ」
幼い子でも見るような、細められた目で。いかにも愛おしそうに言うものだから、ダンテは。
「おま……、……おとなってのはな、餓鬼の気持ちを持ち続けることも大事なんだよ」
言い逃れ、とでも言おうか。
言い繕い、とでも言おうか。
適当なことでも言っておかねば、赤くなってしまいそうだった。
頬が。顔全体が。赤く染まる。そんな恥ずかしい事態は避けねばならない。
この歳で赤面など、なんとも情けないではないか。
それに何より、普通ならば。
そんな眼差しを向けられて、気色が悪いと思うのが通常に違いないのだから。
そっぽを向いたダンテには、ネロが今この瞬間どんな表情をしているかは見えない。
しかし、こちらの望まぬ顔をしているのだろうとは、わかる。
「おっさん、」
呼ばわる声音は、やけに柔らかく耳を撫でる。それがこそばゆくて。何やら気恥ずかしくて。
こちらを向け、などというえらそうな言葉に腹が立ち。
意地でも向かない、と決めたダンテの頬に、長い指がそっと触れる。
「ついてる」
ホイップクリーム、であろう。ちろりとやった視線の先、ネロの指先には、
ダンテの頬からすくい取られたらしい、白いものがほんの少しついており。
「いくつの餓鬼の気持ちでいるんだ?」
良い歳して、などと。おもしろそうに言って、指を口に運ぶ。
あくまで、自然に。
そうすることが当然であるかのように。赤い舌で、指先についたクリームをぺろりと舐めた。
「……ッ、」
無意識に息を飲んだダンテに、ネロは首をかしげてみせた。
「? どうかしたのか」
こちらも全くの無自覚。互いに目を合わせてはいるが、その内心はまるで違う。
何もわかっていないらしいネロは、身を乗り出すようにして、絶句しているダンテを覗き込んでくる。
どうした、と繰り返して。そういうところで、ダンテを揶揄しようという発想がないのが、
この年若い青年なのだ。
「おっさん、何なんだよ?」
「……、俺じゃなく、むしろおまえが……」
「? 俺が、なに」
深いため息をひとつ。ダンテはスプーンをがじりと咬んだ。
「おまえはそういうやつだよ。……似てるが、似てない」
「は?」
「何でもねぇ。気にすんな。……、と、さっきの、もうするなよ」
釘を刺しておかねば、またやりかねない。しかし、問題がひとつ、ある。
ネロはいぶかしげに眉根を寄せた。
「さっきのって?」
説明してやりたいが、したくない。そんなジレンマをどう解消すればよいのか。
じっとダンテの言葉を待つネロは、どこかに迷い込んだ犬のようだ。
ダンテはもう一つ、ため息を吐いた。
「……忘れろ」
自分がしゃんとしていなくては……では、なくて。隙を見せるようなことをしなければ良い。
「なんだ、それ」
ネロは首をかしげ、グラスを持ち上げ酒をちろりとやる。
ダンテの頬についたクリームを舐めた、同じ舌で。
(だめだ。……調子狂う)
こんなのは自分ではない。
――昔を思い出す。心の奥底に閉じ込めた、あの頃の。
「親爺、」
「あいよ」
ストロベリーサンデーの次は、毎度お馴染みのジン・トニック。
何も言わずとも、馴染みの主人は阿吽の呼吸でそれを理解する。
さすが、とも思わなくなって久しいけれども。
その短いやり取りを、ネロはじっと、何をか考え込むような瞳で見つめていた。
春霞、四
調子が狂う。
常套句になってしまった感のある言葉を、ダンテはまたしてもつぶやいた。
がりがりと色褪せた銀髪を掻くのも、お決まりのパターンだ。
ダンテの視界には、もはや馴染みとなっている青年がひとり。
猫のような性格をした美女の相棒ですら、こんなに長時間ともにすごしたことはない。
青年はダンテの心情などおかまいなしに、ただ静かにそこにいる。
それがダンテにはこそばゆくて、落ち着かぬ気持ちにさせるのだった。
青年――ネロという名だ――がいつ、自宅のある島に戻るつもりでいるのか、ダンテは相変わらず聞けぬままでいる。
定期船はいつこちらに来て、あちらに戻るのか。
確かな時刻表など把握していないダンテには、知りようもないことだ。
ネロの荷物は、多くない。
ここでいつまでも居候を続けるつもりではないだろう。
少なくとも、今すぐ帰る気はないようだが、ダンテにはネロにばかり気を回している暇はない。
ある意味で待ちわびていたものが、ゆうべ、舞い込んできたからだ。
先日、とても居心地の悪い思いをした酒場に、ダンテは昨夜もまた繰り出していた。
親鳥の後ろを盲目についていく雛鳥のように、ネロも当然のような顔をして。
そこで、馴染みの仲介屋と顔を合わせた。
自称情報屋を名乗る仲介屋、エンツォ・フェリーニョはダンテの予想通り、
ネロの姿を見てなんだなんだといったふうに興味を持った。
好奇心は小さくないが、本当に危険だと判断したことには首を突っ込まない。
そんなエンツォだからこそ、長年、仲介屋としての生業を続けることができているのだ。
「見ねぇ顔だな。新人か?」
ネロではなく、ダンテに問うたエンツォに、ネロの眉間に皺が寄る。
それが、エンツォがダンテの隣にすんなり腰を下ろしたことに対する反応だとは、
ダンテも当の本人もまるで気付かなかったが。
「いや、こいつは違う。……まぁ、客だ、うちの」
仕事の関係で知り合ったのだと、ダンテは当たり障りのない説明をした。
エンツォはわかったようなわからぬような表情で首をかしげ、
「客、ねぇ……。なんか、どっかで見たことあるような気もするが……」
誰かに似ている、と言いたいのだろうか。
ダンテは少しばかりどきりとしたが、そんなときに役立つのがこの分厚い面の皮だ。
「それ、俺じゃねぇのか? 髪も目も同じ色だしな」
実際、ダンテとネロはよく似ている。性格の違いこそ、正反対と言っても過言ではないが。
エンツォはまだ首をかしげているが、ダンテが飯の種はと投げた言葉に対し、はっとしたように我に返った。
「そうそう、それだ、それ。お前のお待ちかねだぜ」
いつだったか忘れたが、すっきり剃髪して以来それを続けているエンツォの言葉に、
ダンテは早くそれを言えと呆れてしまう。
相変わらず、この仲介屋は無駄話を好みすぎる。などと、自分のことを棚上げして肩をすくめていると、
「お待ちかねって?」
黙りこくってどこかを睨んでいたネロが、初めて口を開いた。
ダンテはにやりと口端を吊り上げ、いたずらっぽく笑って見せた。
「仕事だよ。――悪魔がらみのな」
胡散臭い仕事、とエンツォはいつも言う。それも仕様がないとダンテは思う。
悪魔、など存在を信じていないものにとっては胡散臭いことこの上ない。
しかもそれを狩ることを生業としている、など、笑い話にされそうなものだ。
それを厭っているわけではないが、ダンテの表向きの肩書きは“便利屋”である。
そう名乗っているほうが、いろいろと都合がいい。
父の形見である両刃の大剣を背に負って、腰には色違いの銃が二挺。
裾の長い赤いコートをまとい、足には踵の分厚いブーツ。
いつもの、身に馴染んだ姿だ。
コートの裾に宵の風を孕ませ、悠々と歩くダンテの隣には、
濃い藍のコートを羽織った青年が付き添っている。
こちらも背に厚みのある剣を背負い、腰にはいかつい銃が一挺。
剣も銃も改造が施してあるらしく、同じ型のものはこの世に二つとないだろう。
ダンテははぁ、と息を吐き出した。
「なんでお前も来るんだ……」
ため息混じりのぼやきを、ネロは耳ざとく拾ったようだ。
「迷惑だったか?」
拗ねた、というふうでもない声色に、ダンテはやはりため息を交えて首を振る。
「いいや、べつにかまやしねぇけどな……」
「けど?」
「分け前が減る」
「? 俺は報酬なんかいらない」
「そっちじゃねぇよ。獲物のことだ」
悪魔がらみの依頼は、報酬が雀の涙ほどであろうとも引き受けるダンテである。
ダンテの目的は狩りそのものだ。
ネロはちょっと驚いたように言う。
「仕事だろ」
「これに関しては、金は二の次だ。わかったら、邪魔はするなよ」
笑う、ダンテの視線の先には、黒い影。
宵の波間にあってすらその闇の衣は色濃く浮き上がり、あたりに溶け込むことがない。
悪魔を殺戮すること。
ダンテにとって、ある意味で最大の快楽がこれにあたる。
それ、は。
ダンテにとっても、ネロにとっても、まったく想定外の、思いがけぬ失態。
「目、開けろよ」
冷めた声音は、あの男とよく似ていて。ダンテは目を開けることをためらった。
口調が違う。夢に片足を残した状態で、ダンテはその違いを冷静に聞き取っていた。
覚醒を躊躇する理由は、自分自身にある。
ことごとくあの男を思い出そうとする自分を、
ことあるごとにあの男とあの青年とを重ねようとする自分を、ダンテは心底嫌っているから。
「なんで……、なんであんなことしたんだ」
俺のことなんか、と。
青年はつぶやく。ダンテが気が付いていると知ってか知らずか、自分を責めるように、ネロは言う。
なぜ自分のことなど庇ったりしたのか、と。
「勝手に躰が動いた」
知らず、口をついていた。
聞かずにはおれなかったのだろうが、ダンテ自身驚いている。
ネロもさぞかし、と思ったけれど、意外にもその反応は冷静そのものだった。
「あれぐらい、自分で何とでもできたのに」
だろうな、とダンテは思った。自覚はしていないが、言葉にもしていたのかもしれない。
不意に黙りこんだネロが、深く息を吸い込む気配がした。
「――――」
続く言葉はなかった。
目を瞑ったままだったのダンテは、その瞬間、目を見開いた。間近に、ネロの端正な顔。
キス、されている。
触れるだけの、若いキス。けれどもネロの顔は離れない。
触れ合ったままの唇が、震えているような気がした。
(……あぁ――、)
逃げられない。
逃げ道など、はじめからなかったのだ。
春霞、伍
ダンテの傷が癒えるのに、たいした時間は要しなかった。いつものことだ。
普通の人間と同じかたちはしているが、この躰には、確かに人間ではないものの血が流れているのだ。
それでも丸一日、動けなかった。
ほぼ寝たきり状態でいたために、肩や腰がいたむ。
首をぐるりと廻らせると、ごきごきと鈍い音がした。
なまっている。間違いなく。
仕事でこんな怪我を負ったのは、本当に久し振りのことだ。やってしまった、とは思う。
しかしそれは、怪我そのものにかかわる後悔ではない。
「もう大丈夫なのか?」
この、青年のことだ。
「ああ。動けるし、寝てばっかりもいられねぇからな」
本当はもっと早くに動けたのだけれども、この、彼によく似た青年が止めたのだ。
仕方なく、ダンテはその言葉に従った。
負い目。などというのもを感じるのはおかしなことだけれど、青年の、思いつめた目を見てしまったから。
もう何も言えなくなった。
青年の気の済むようにさせてやろう――そうさせてやらねばならない。そんな気がして。
「……、なぁ、坊や」
「……、なに」
何を言おうとして呼びかけたのか。わからない。
沈黙が重い。こんなはずではなかったのだが。
こんな空気を作るために、自分は青年を庇ったのではない。
いや、何を考えてあんな行動に出たのか、自分が一番わかっていないのだ。
少なくとも、後悔はしていない。そう、あれは間違いではなかった。
「大丈夫だ」
ぽつりと、つぶやく。大丈夫。大丈夫だから。
「もう二度と、あんな真似しねぇよ」
もしまたあんなことが起こったとしたら。
おそらくまた、同じ行動をするのだろうと、予想はできるけれども。
嘘でも、こう言っておかねばならないに違いない。
この、とてもとても純粋な心を持つ青年には。
「だから、大丈夫だ」
理解したか。納得いったか。彼には青年の内心など見えないし、読むこともできない。
しかし理解し、納得してもらうしかないのだ。こぼれた水は、二度ともとには戻らないのだから。
彼の身に、もう、傷跡はない。
「……、なら、いい」
吐息のようなつぶやきを、彼の耳は違わず拾い上げた。それが本心か偽りかはわからないけれど。
青年の目は、もうあのときのような思いつめたそれではない。
「もう歳なんだから、無茶するなよ」
そんな軽口を叩けるのなら、上等だ。
「言ったな、坊や。旨い飯はいらねぇらしいなぁ」
彼が寝ている間、食事もすべて青年が自ら用意していた。
案の定、とでも言おうか、ダンテの作るものに比べ、質はだいぶ劣る。
けっしてまずくはないし、充分食べられるものなのだけれど。
青年が苦虫を噛み潰したように渋面を作った。
「なんかあんた、そればっかりだ」
「そうか? でも、俺の作ったもんは旨いだろうが?」
言い返せないらしく、青年の眉間に皺が増える。ダンテはくつくつと笑った。
大人びた青年の拗ねた顔というものは、いつ見ても快いものだ。
それから三日後、ネロは唐突に島に戻ると言い出した。
頃合だ、という青年の言葉の意味はわからなかったが、ダンテにはネロを止める権利も理由もない。
ネロはそもそも、帰るところのある人間だ。
港まで見送りに行くことはしない。ダンテが青年の暮らす島を訪れたときもそうだった。
玄関先で、しかし別れの言葉も告げることなく。
「気をつけてな」
白々しい言葉を、青年が求めているとは、さすがに思わぬけれども。
「べつに、何が起こるってわけでもないし」
そんなふうに、ひねくれた言葉が返ってくるから。こちらもそんなふうになってしまう。
と、これは言い訳であるが。
青年の口からこぼれた、頃合、という言葉が気になりつつも、ダンテは問いただすことはなく。
玄関を兼ねた事務所のドアを開けるネロの背を、ぼんやりと眺める。
また、しばらく。この実直な青年と合うことはない。
ダンテがあの島を訪ねるか。
ネロがこのまちに訪れるか。
合えないことは、悲劇ではない。
生きていればどこかで廻り合うことはある。
その点で言えば、彼らに限って言えば死に別れる可能性はとても低い。
それは幸福といってもいいだろう。
そんなことを考えていることに気付いて、ダンテははたと思考停止した。
(なんだ、今の)
まずい、と思った。ネロの背は、まだすぐそばにある。今、ネロが振り返ったら。
自分はどんな顔をしているのか。まったく、わからないから、こわい。
ダンテの内心を裏切るように、何も知らぬネロが肩をひねった。こちらを、向こうとしている。
「っ……」
咄嗟に。
ダンテはネロの肩をつかみ、押した。きびすを返させぬように。
「な、んだよ、おっさん?」
不審がる声。当然のことだと、思う。自分でも何をしているのかと、思う。しかし。
頭ではなく、躰が勝手をしているのだ。
だから、
「次、は」
紡ぎだされる言葉もまた、口が勝手にしていることに違いない。
「次?」
「俺のほうから、そっちに行ってやるよ」
「え、」
にぶい反応に焦れる余裕は、彼にはなかった。
直截的な言葉を口走らなかったのは、幸いだったのか、どうか。
いまだ揺れる彼の心を知ってか知らずか、青年はふと、肩の力を抜き。
「……、待ってて、いいんだな」
その声は静かで、しかし、強い。
「絶対に来るって、言えよ」
言葉は、言霊。紡がれたその瞬間から、力をもってひとを縛る。
「……行くよ、そのうち、な」
「……、まぁ、合格かな」
「なんだ、それ」
「べつに。こっちのこと」
肩をすくめるその背中に、言いたいことはあったのだけれど。ダンテはあえて、口をつぐんだ。
またな、とだけ、ぶっきらぼうに添えておく。事実、また遠くないいつか、合うのだから。
ネロは背を向けたまま、彼の家を発った。安堵とともにダンテの胸にこみ上げてきた感情は。
(もう、だめだな)
逃げられないことは、もうわかっている。あとはどう、それと向き合うか。
ネロの姿はもう見えないけれど。
ダンテはいつまでも、玄関先に佇み、風の吹き抜ける路地を眺めていた。
春霞、独白
妙な態度だった。
港に向かう道すがら、ネロは腑に落ちぬものを持て余していた。妙な、とは、ダンテのことだ。
ここのところ、ネロは暇があればいつもダンテのことを考えている。
今、何を思っているのか。
今、何をしているのか。
どうすれば喜ぶのか。
どうすれば怒るのか。
自分のことを、どう思っているのか――
考え出すときりがなくて、埒が明かない。
自問自答を延々と繰り返して、いつも、結論はでなくて悶々として。
いてもたってもいられなくて、このまちに足を運んだのだった。
顔が見たくて。
声が聞きたくて。
彼の傍らにいたくて。
ただ合いたいという衝動に突き動かされて、船に飛び乗り、島を離れた。
交わしたいと思っていた言葉は、彼の顔を見るなり霧散して。
こうしようと思っていた行動は、やはり何もできなかった。
けれど。
彼とともにいるだけで満足だった。
けれど、
彼とともにいることで、心の底にはいつも靄が渦巻いていた。
彼が自分のことをどう思っているのか。少なからず好いてくれているのだろうことは、わかる。
けれども底の見えぬ慾は、ネロの心を黒く染めていくのだ。
もっと、もっと――。
彼に触れて、抱き寄せて、唇を重ね、そして。
けたたましいクラクションの音で、ネロははっと我に返った。
自分に向けられた警笛ではないようで、クラクションを鳴らした車はすでに走り去っている。
が、ネロの心臓は奇妙なほどがなりたてていた。
今の今まで自分が繰り広げていた、妄想のひどさといったら。
(これは願望、だな)
ゆっくりまばたきをして、ため息を吐く。ネロの、彼に対する感情は、確かに慾に由縁するものなのだ。
彼はきっと、知らない。
まだ、気付かないでいてほしい。
これもまた、ネロの慾だ。
先ほどの、彼の態度はやはり、腑に落ちない。何か、感じ取られただろうか。
このどす黒い慾の片鱗が、彼に見えてしまったのだろうか。
そうだとしたら、それでもあえて、彼はあんなことを言ってくれたのだろうか。
次は彼のほうから、ネロを訪ねてやってくるという、単純な、大切な約束。
そのうち、なんて曖昧な言葉は使っていたけれど、彼はきっと来るだろう。
そういう約束を反故にすることは、彼にはきっとできないはずだから。
あれでいて、真面目なところのある彼のことだから。
嬉しい。けれど、不安もある。
彼は本心から、自分に合いに来てくれるのだろうか。
妙な態度を取ったことを隠すために、咄嗟に口をついたのではないか。
ならばいっそう、あの態度の根拠が気になってくる。
彼が触れた肩のあたりに手をやって、ネロの眉間には深い皺が刻まれた。
ダンテはネロのことを、本当はどう思っているのか。
詮ないことをぐるぐると考えながら、足は黙々と港へ向かう。
きびすを返し、ダンテの元に戻る勇気はないのだ。
だからくどくど、考える。後ろ向きに。
強い風が吹き抜けて、ネロのコートの裾を巻き上げた。
不甲斐ない、どうしようもない自分を嘲弄しているようだと、ネロは思った。
[12/01/21]