足枷
どうしてこんなことになったのか。自問するのはもう何度目のことか。
ネロは途方に暮れていた。何にかといえば、今この現状に。
何があるのかといえば、ネロの隣で気持ち良さそうに寝息を立てる、一人の男だ。
男の名はダンテという。良い名前だと、ごく自然に思うその名の人物は、
現在なぜかネロのベッドの半分を占領し、当たり前のように熟睡している。
このような不可思議な状態に陥った経緯はといえば、ほんの半日前のことに辿りつく。
ダンテがまさしく突然に、ネロの住むアパートメントを訪ねてきたことだ。
(……なんでこんな、馬鹿みたいに熟睡できるんだよ)
ネロには無理だ。
だから、ベッドに入ってもう二時間にもなろうというのに、一睡もできていないのである。
この状況で眠ってしまうダンテが恨めしいと同時に、当たり前かと自嘲も浮かぶ。
ダンテがネロを、そういう意味で警戒などしていないという判りやすい証拠がこれだ。
だから、複雑な気持ちになる。
ネロがダンテを意識し始めたのは、件の出来事のさなかであった。
意識せずにはおれなかったと、今振り返ればそう強く思う。
ダンテはこれでもかとばかりの強烈な印象をネロに与えておきながら、
自身は飄々として掴みどころがなく、捕まえたと思えばいつの間にか目の前から消えているのだ。
気にならぬわけはなく、ネロは教団の命令でなくとも彼を追わずにはおれなかった。
捕まえて、触れて、言葉を交わして。そして――
あのとき自分が何を考えていたのか、今となってはよく思い出せないけれども。
あれからネロはずっと、ダンテを追い続けているのだ。
教団がなくなった、今も。
その、追っても追っても捕らえることのできない彼が、
今自分の真横で無防備な姿をさらしている。
これは何かの罠なのか、そうネロが思うのも無理はない。
ネロが彼に会いに行ったことはあっても、
ダンテからネロへ会いにきたことなど、今まで一度もなかったことなのだから。
(試されてる、のか)
自制心を? それとも男としての何かを?
ネロの脳裏に、据え膳、という言葉がよぎる。
幼いころからともにそだったきょうだいと呼ぶべき間柄の兄と妹は、
ふたりともそういう方面の話にはとんと奥手だった。
そのためネロも、そういったことには積極的でない。
しかし、男だ。興味がないわけもなく、単語として知っていることは少なくない。
据え膳という言葉は、野暮な教団員からの入れ知恵だった。
彼を起こしてしまわないよう尻の位置を少しだけ変え、ネロはじっと彼の寝顔を見つめた。
何のつもりか、彼はこちらに躰を向けて眠っているのだ。
ただの寝返りの結果と言ってしまえばそれまでなのだが、
現在相当混乱しているネロは、そうした通常の答えすら導き出せない状態にある。
自分と似て非なる銀の髪。透き通るような白い肌。紅い唇。
ネロよりも随分と年かさである彼は、顎に無精髭など生やしているのだけれども。
女性的なものは、この彼からは一切感じられるわけもないのだけれども。
なぜか。どうしたわけか。ひどくネロの中の雄を惹きつけてならなくて。
目が、離せない。
少し開いた彼の唇。ネロよりも幾分肉厚なそれを。
吸ってみたらどんな感触なのだろうか。
どんな味がするのだろうか。
試して、みたい。
少しだけならきっと、彼も目を覚ますことはないはずだ。
だってこんなにも、こちらに気を許しきったさまで寝こけているのだから。
(……あんたが悪いんだ、……)
喉が、無意識に上下する。
ネロは背中を丸めるようにして、少しずつ彼へと顔を近寄せた。
間近で見つめる彼は、確かに男らしい容姿をしているが、同時にどこか妖艶でもある。
目の錯覚、かもしれなくとも、今のネロにはそう見えているのだから仕様がない。
(すき、だ)
幼馴染の女性とは違った意味での行為に、ネロは初めて名前をつけた。
そうしてしまえばもう、ネロの中にぐるぐると渦巻いていたものが止めどなく溢れ出て――
「……ダンテ、」
知らず、名を呼ばわっていた。彼との距離は、
すでに息も触れようかというほどになっており。
(……、……)
触れた。のは、唇と唇、ではなくて。
ネロは彼のこめかみに、優しく触れるだけのキスを落としたのだった。
(――どうしようもない、臆病者)
きらわれることを恐れすぎて、何もすることのできない自分が、一番、嫌いだ。
手枷
なぜあえてそれなのか、ネロはとてつもなく問いただしたかったが、
相手が相手であるだけにぐっと堪えて飲み込んだ。
優しいが芯の強い幼馴染に対し、批判的な言葉を投げることがネロにはできない。
まかり間違って彼女の怒りを買ってしまったらと思うと、
恐ろしくてネロにはもう何も訊くことができなくなるのだった。
ネロは、騎士団に所属する人間の中でもかなり特異な存在だった。
変わり者の一匹狼。誰に尾を振ることもせず、その孤高ゆえに皆から敬遠されていた。
心を許した人間はただ二人。
孤児であるネロが、きょうだいのようにともに育った兄妹のみだった。
そのネロに、昨今接近している奇特な男が一人、いる。
彼は、何かしらの下心があってネロに近付いたのではけっしてない。
むしろ彼はネロのことなど眼中にないようだった。
事実、ネロは彼に敵わない。実力にしても、そのほかの要素に関しても。
年齢が違うのだから当たり前なのかもしれないとは、
理解はしても納得はできないのだけれども。
剣を交え命の取り合いすらした相手である彼とは、
紆余曲折を経て現在友人のような間柄にある。
そのあたりの経緯は話せば長くなることうけあいにつき割愛する。
とのかくもその友人である彼は、先日唐突にネロの自宅を訪れたのだ。
ネロのほうから、彼の自宅兼事務所を訪れたことはあった。たった一度、だけれども。
彼に対し友愛以上のものを秘めているネロからすれば、
彼の住まいを訪れることは自然な発想と言えた。
想いを寄せる相手の私生活を見てみたいと、思わぬ人間はいないだろう。
そう、ネロは思うわけだ。
しかし彼からネロを訪ねることには、いったいどんな理由があるというのか。
悩むネロに、幸か不幸か彼は気付く様子もなく。
曖昧な状況のただ中で、その事件(と言ってしまっていいものか判らぬが)は起こった。
基本的に有効活用されることのない、キッチンに。
上機嫌で向かい合い優雅に動く一人分の影。
それが恋人だったなら、ネロとて笑みを浮かべて見ていられただろう。
その影が女性のものではなく、体躯のよろしい男だとしても、だ。
だがしかし、それでも目を背けたくなる理由が、その影には加わっていた。
「おい、坊や」
名前で呼べ、と。いつも言うのだが改められたことのない呼び名。
ネロはなるべく視線を逸らしたまま、何、と無愛想に応じた。
実際、愛想の良いたちではないし、今現在は無理矢理にもそんな反応はできない。
「なんだ、腹が減りすぎてご機嫌斜めか? もうすぐだから、良い子で待ってな」
なんて。どれだけガキ扱いすれば気が済むのか。
ネロは眉間に皺を寄せ、深々とため息を吐いた。
彼が、自分の姿に何の疑問も抱いていないのがよく判る。
疑問など感じていれば、こんな恰好でキッチンになど立たないだろう。
そうだと信じたい、というのが素直なところなのだけれども。
「そんなんじゃない。……さっき、俺のこと呼んだのは何だったんだよ」
半ば独り言のように恨めしげに呟けば、ごくまれによく聞こえるらしい彼の耳は、
ネロの言葉をきっちり聞き取ったらしい。
ふりふりのレースが無駄なほどふんだんに使用された、
かなり可愛らしいピンク色のエプロンを身に着けた彼が、ちょっとこちらに視線を呉れた。
とてつもなくシュールな光景だ。しかし本人は、至って普通。
「あぁ、それな。ちょっとこっち、来てくれるか?」
「はぁ?」
「良いから、早くしな」
催促するので、仕方なくソファから腰を上げる。
のろのろしていても、キッチンなど目と鼻の先。本当に狭いアパートメントなのだ。
「何だよ?」
ふりふりをなるだけ見ないように、視線を外しながら彼に問う。
彼はそんなネロの努力には気付かないのか、これ、と何やら顔の前に突き出してきた。
ちろと見遣れば、彼の手が間近にあって。
「ほら、味見」
彼の手には、今調理したばかりであろう、蝶の形をしたパスタがひとかけら。
それは良い。パスタは好きだ。彼にそのことは話していないが、そのことは置く。
(直接、喰えって?)
まさかだろう。まさか、こんなふりふりのエプロンを着けた彼の手から、
直接パスタのかけらを食べろというのか。
ネロの幼馴染であり、姉のようでも妹のようでもあるキリエが、料理を教わる代わりにと、
彼へ(善意で)プレゼントしたエプロンを着けたままで。
……いや、この際エプロンは関係ないが。
しかしだ。しかし。
ネロは彼に、友愛ではない想いを抱いている。
それははっきりいってしまえば、愛情に近いそれであるのだ。
その彼の、手から。
まかり間違えば指に触れてしまうかもしれないというのに。
こんな発想をして、心臓を破裂しそうなほどに鳴らしているこの自分は、
ひょっとすると変態なのだろうか。
そんな疑惑に苛まれるネロに、彼は残酷にも早く食えと促して。
それでも動くことのできないネロの口に、あろうことかパスタをぐいと突っ込んだ。
もちろん、自分の指ごと、だ。
「まったく、手のかかる坊やだな」
などとのたまい、苦笑する彼。パスタをつまんでいた指を、舌でちろりと舐めて。
ネロは顔が真っ赤に染まっていくのを、自覚しながらも止めることができなかった。
彼が不審に思うに違いなく、できるならば平常心を装っていたいのというのに。
彼が舐めたその指は、当たり前だがネロの口に突っ込んだそれ。
(このオヤジ、俺のことを殺す気なのか?)
馬鹿なことを考えているとは、よぅく判っているのだけれども。
彼がここに滞在している間、ネロは心臓がいくつあっても足りないのではないかと、
本気で心配をせねばならなかった。
それでも彼に、自分からは触れることもできぬ自分が、やりきれぬほどに情けない。
首枷
悩むことに、金は一セントたりともかからない。
自分の中だけで、ぐるぐると考え込むだけならば他者に迷惑もかけずにすむ。
ぐるぐる、ぐるぐる。
あまりにも考えすぎて、時折酔いそうになっていることにも気付かずに、
少年は一人、悶々と悩み続ける。
「じゃあな、坊や。世話になった」
まったくそうは思っていないだろう、いつもの人を食ったような表情で彼は言った。
ネロは唇を尖らせ、よく言うよ、と悪態を吐く。
今日は定期船が島へ来る日だ。それに乗って、彼は帰る段取りをつけている。
以前、ネロが彼の事務所兼自宅を訪れた際もそうしたように。
ネロの住むこの島には、本土からの定期船が数日置きに一本、ある。
それだけが本土へ渡る手段で、島の人間のほぼ九割は島で一生を終える。
ネロも、その一人となるべく島で育った。
島で一生を過ごすことについて特段疑問を覚えたことはない。
が、今は。
「……気をつけて」
それ以外に言うことの見つけられなかったネロだが、
彼がにやりとしたのを見て言わなければ良かったと後悔する。
彼に、自分をからかうネタを与えてしまったと察したからだ。
「坊やからそんな科白が出るとはなぁ? 俺が帰っちまうのが寂しいのかい?」
にやにやして、ネロの頬でもつつきたそうにしている彼へ、ネロは盛大にため息を吐いた。
ついでに大袈裟なくらい肩を竦める。
「んなわけないだろ。いくつの餓鬼だと思ってるんだよ」
恨みっぽく彼を睨む。
彼はくくっと笑い、腕を伸ばしてネロの頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
髪型を整えるということをしないネロだが、頭が鳥の巣になるのは御免被りたい。
やめろよ、と。彼の手首を掴んで頭から外させる。その瞬間に。
(っ、つ……)
痛みを覚えるほどに、右腕が軋んだ。
表情には出さぬよう咄嗟に堪えたはずだが、彼に気付かれただろうか。
「そうやってむきになるところが、餓鬼なんだよ」
彼はにっと、きれいに歯を見せて笑っている。
気付かれていないらしいと、ほっとしたような落胆したような、
複雑なものが腹の底にぐるるととぐろを巻く。
「ちぇっ」
ふてくされたように舌を打つと、彼はいっそう嬉しそうに破顔した。
ネロを子ども扱いする彼のほうこそ、悪戯小僧のようなところが多々、ある。
それを可愛いとも思うし、時折首を絞めてやりたいと思うこともある。
ネロの彼に対する感情は、実に複雑なものだ。
自分自身ですら、はっきりとは理解できていないのだから。
けれども、彼に触れたいと思う、この気持ちだけは明瞭たるもので。
その気持ちの根底には、おそらくは性的な何かがあるのだろう。
育った環境からか、ともに育った兄妹の影響か、それともネロ自身の性格か。
かなり奥手なたちのネロには、ひどく慣れぬ感覚である。
「またそのうち来るよ。坊やが寂しくて泣いてないか、見物がてらな」
どこまでもおどける彼の、手首を掴んだままであることに気付いて、ネロはっとして手を放した。
右腕が、またしてもぎしりと軋む。
望んでもいないというのに悪魔が宿ったように変形した、右腕。
彼が傍らに在るとき、この腕は妙に疼くのだ。
いったい何だというのか。何か不満なのか。己の意志などないだろうに、いったい。
「いつ、」
気付けば口を衝いていた。彼が、色の淡い碧眼をぱちりとさせる。
ネロは焦ったが、一度紡いでしまった言葉を口に戻すことはできない。
半ばやけになって、彼を睨むことで羞恥をごまかそうとした。無論、口調は喧嘩腰だ。
「だから、そのうちって、いつだよ」
彼は一つ瞬きし、次いでふっと笑みを浮かべた。
それは、彼の見せる表情の中ではかなり珍しい、揶揄の色のないいたく穏やかな微笑で。
思わず見とれたネロの耳に、やはり穏やかな(優しげな?)声音がするりと入ってくる。
「逢いたいと思ったとき、だな」
日は決めぬほうが、楽しみがあって良い。
悪戯っぽく片目を瞑って見せた彼の、少しばかり肉厚の、唇、を。
ネロはいつも、気にしていて。
一瞬、意識が飛んだ。
気付いたときには彼が息の触れるほど間近にいて。
何ごとかと思うのとほぼ同時に、自分がしでかしたことに遅まきながら気付く。
慌てて、彼から離れた。
顔が熱い。心臓がうるさい。右腕が、
「っ……もう、船の、時間だろ」
「、あぁ……それじゃあな。また」
「……うん、また」
何とも気まずい空気の中、彼は一人去っていく。
ネロは顔ごと視線を狭い玄関の床に縫いとめたまま、彼の背中を見送ることもできなくて。
(次、どうやって顔を合わせればいいんだ)
なぜあのタイミングでキスなどしてしまったのか。
後悔ともつかぬ悔恨に見舞われながら、
顔を真っ赤に染めた少年は一人、ひたすらに悩み続ける。
独言
まさか、というところか。
ダンテはカエルラ港までの道のりをゆったり歩きながら、
先ほどのことを思い返していた。
うぶな子どもだとばかり思っていたネロが、思いがけずキスなどしてきたことについて、
ダンテは少々頭を抱えねばならなかった。
ダンテの肩に触れることですら、
躊躇し結局は果たせずに手を引っ込めてしまうようなうぶさが、ネロにはある。
それは見ていて楽しいもので、悪戯好きなダンテはついついからかってしまうのだけれども。
ごくまれに、焦れったく思うこともある。
例えば、そう。
ダンテが眠っている間に、そっと触れるだけのキスしかできないほどの、うぶ。
(かと言って、)
実際に、先刻のようなキスをされてみると、どうにも困ってしまうものだと、
ダンテは今初めて思い至った次第で。
さてどうしたものかと、歩きながら頭を抱えているのだ。
ネロのことは、無論嫌ってなどいないダンテである。
どちらかといえば、好意的であると言って良い。
しかしそれは、どの類の好意であるのか。ダンテは今さら判らなくなっていた。
ネロは、おそらく自分のことを好いている。
嘘を吐けぬ少年の、自分を見つめる双眸を見ればすぐに気付くことだ。
ダンテをして恋愛巧者と言わしめる人間が何人いるかは知らないが、
少なくともネロより長く生きているぶん、察せられる部分も多い。
年の功を笠に着ていたわけでは、おそらくないのだけれども。
坊やとばかり思っていたネロに、ダンテはすっかり悩まされている。
(良いのか悪いのか)
気に入りの坊やの成長を見るのは、年長者として喜ばしいことだ。
しかしその成長の先に自分が置かれているとなると、何とも、はや。
(ま、のんびり考えるとするか……)
いかに考えたところで、答えの出ないこともある。
そういうときは、長期戦に持ち込むのが定法というものだ。
下手な冒険に踏み出すことができるほど、ダンテはもう若くはない。
だがその結論が、うら若いネロへの対策として本当に適当であるかどうか。
若さゆえに、追い込まれれば何をしでかすか判らぬという危うさを、
ダンテはすっかり失念している。
港では、まさに船が出港しようとしているところだった。
ダンテは軽やかな足取りで船に飛び乗り、
吹き付ける潮風に目を眇めつつフォルトゥナの土地を離れた。
自宅に帰り着いたなら、キリエ嬢に教わった方法でアップルパイを作ってみようか、
そんなことを思いつき、一人鼻歌なぞ口ずさみながら。
ひたすら悩み続ける少年と、悩みを横へ置いてきた大人。
彼らの焦れったい関係に変化が現われるのは、もう少しばかり先のこと…。
[09/05/15]