水玉、壱
何となく。そう、何となく、だ。
深い意味などない(そうに決まっている)のだが、こう、
躰全体を使ってすり寄って、離れたくなくなることが、ある。
何故なのか、判るわけもなくて。
しかしそうしたいと思うときは、本当に一日中、くっついたまま離れられなくて。
我ながらどうかしていると思うのだけれども、
すりりとすり寄った相手も何も言わず好きにさせてくれるから。
だから。
笑っているのだろう。確認しなくても、そうと判る。
いつもは冷ややかな空気が、今はひどくまるいように感じる。
そしてそうと感じるときは、まず間違いなくその表情には笑みがあるのだ。
意地悪なそれではなくて、けれど慈悲深いという程ではなく。
静かな笑みを、ダンテはけっして嫌いではないのだけれども。
少し、居心地が悪いというか。
腰のあたりがむずむずとするとでも、言おうか。
顔を上げれば見ることが出来るだろうその笑みを、
しかしダンテはあえて確かめようとはしない。
下手に水を差して、機嫌が下降してしまっては困るからだ。
ダンテが現在陣取っているのは、世間の目から見れば飼い主にあたる男の膝だ。
が、実際には、この男は飼い主などでは断じてない。
ダンテの双子の兄――――名はバージルという。
その膝に躰を小ぢんまりと丸めて寝そべっているダンテであるが、
彼らの容姿からは、双子という要素はまるで拾うことが出来なかった。
もう三年近くになるか。
ダンテがある日突然(原因はもちろんある)、猫の姿になってしまってから。
ダンテは元は人間であり、容姿はバージルと瓜二つだった。
それがいまやこんな、銀の毛並みも美しい一匹の猫というのだから、
およそ信じられぬ話である。
実際、ダンテが元人間だということを知っているのは、
この兄と猫の姿に変化した原因と思われる黒い三つ首の犬だけだ。
他の人間にこんな話をしようものなら、まず間違いなく脳を疑われる。
それを恐れてのことでもないのだが、兄も世間に触れ回ることはしていない。
妙な実験動物にされるのも、ご免こうむりたいダンテである。
自ら、自分は人間だと叫ぶような真似は、したことがない。
そもそも、ダンテが声を上げれば、もれなく猫のそれにしかならないのだ。
しっかり人間の言葉として耳に拾うことが出来るのは、
やはり兄と黒い犬に限られるのだった。
まったく、面倒なことだ。
自分が猫の姿になったことを自覚したときは、文字通り頭が真っ白になった。
混乱しすぎると逆に何も考えられなくなるものなのだと、
ダンテはそのとき初めて知った。
それから、原因の追究と元に戻る手段の模索に奔走した。
三年、だ。
これが長いのかどうかは、ダンテには判らない。
しかし短くはないと、思うのだ。
何故ならこの三年、ダンテは兄と、戯れの接触以外何もない状態なのだから。
ほんの三ヶ月前のこと。
ダンテは元に戻る手段を手に入れた筈だった。
しかし今のこの状態を見て判るように、ダンテはまだ猫のまま、
人間にはいまだ戻ることが出来ないでいる。
ふぅ、とため息を吐いた。まったくの無意識に。
どうした、と頭上から声がかかり、額のあたりを揉むように撫でられる。
ダンテは問いの意味が判らず、何が、と素直に返した。
「物憂げなため息だったが?」
こちらも訝しげに、兄が言う。
ダンテは口許を手の甲で擦り、ため息などもらしていたのかと眉を寄せる。
その仕種で、無意識であったことを察したのか、兄が肩を竦めた。
「あまり物ごとを深く考えすぎるな」
元より、お前の頭は考えごとには向かぬ。
などと、別段揶揄するでもなく言われてダンテはむっとした。
「どうせ俺の頭は軽いですよ。アンタと違ってさ」
唇を尖らせてむくれると、兄が頭から背中にかけての毛並みをするりと撫ぜた。
少し強めに撫でていくのは、そうするほうが毛並みをよく味わえるから、だそうだ。
ダンテにはよく判らないこだわりを、兄はいくつも持っている。
とはいえ、兄にこうして撫でられることは嫌いではない。
ダンテは自分がうっとりしてしまっていることに、まるで気付いていなかった。
もっともこれは、いつも以上に兄に触れていたいという気持ちがあるから、
という理由が強いと言えなくもない。
いつもなら、尻尾の付け根を執拗に弄られると(これも兄の気に入りだ)、
どうにもくすぐったくて逃げたくなっていけないのだが、今日は違う。
ぞくぞくする感じが、ひどく心地好い。
頭がおかしいのではないかと、自分でも思う。
けれども「やめろ」という一言が紡げなくて、それよりも、
「もっと」などと口走りそうになるのを抑えるのに、必死にならねばならなかった。
おかしい、のだ。どう考えても。けれど、やめて欲しくなくて。
「気持ちが好いが?」
兄の低い声音にすら、ぞくりとする。
おかしい。こんなのは、おかしい。でも。
「うん……」
唇からこぼれた声は、嫌になるくらい甘ったるくて。
ダンテは自己嫌悪に駆られながらも、兄の膝から逃れることはしなかった。
こんなふうにおかしくなるのは、実は初めてのことではない。
月に一度、ダンテはこうしてひどく、接触を求めずにはおれないのだ。
何故なのかなど、知るわけもない。
理由があるとは、到底思えないのだから仕様のないことで。
兄の手は、どうしてこんなにも気持ち好いのかと、
朦朧と霞がかった頭でぼんやりと、そんなことを思った。
水玉、弐
三年。長いようで短かったように、バージルは思う。
幼い頃、長いと思っていた学校生活が思いのほか短かったような、
まぁ、それとこれとは随分状況も勝手も違うけれども、
ともかくバージルにとっては、この三年間を長かったとは感じない。
それはある意味、他人事であったからかもしれないが。
双子の弟は、おそらく三年という月日を長すぎると感じているだろう。
その身が猫の姿に変化して、最も苦悶したのは当然のことながら弟自身だ。
それはバージルとて判っているし、出来る限りのことはしてやりたいと、
そう思う気持ちに偽りはない。
しかし兄の苦労弟知らず、とでも言おうか。
バージルにはバージルなりの苦悩があるのだということを、
この鈍い弟はまったく気付きもしないのだから、少々腹立たしくもある。
仕事の帰り道、バージルは足許がやけに暗いことを訝り顔を上げた。
空に混じるような消える寸前の痩せた月が、細々と浮かんでいる。
明日か、明後日か、新月が近いのだと思い当たった。
薄手のコートの内ポケットから、なに、と不審げな声が上がる。
視線を落とせば、ひょこりと顔だけを出した小さな猫が、
こちらを上目遣いに見上げている。
この暗さではその澄んだ瞳の青を識別することが出来ないのが、少し惜しい。
「新月が近いと思っただけだ」
ぽつりと呟くと、はぁ? と心底訝しげな声。
バージルは内心で苦笑し、何でもない、とコートの上から猫――――ダンテを撫でた。
ほっこりと暖かい。動物の体温は意外に高いものらしいと、
これまで生きものを飼ったことのなかったバージルは三年前に初めて知った。
歩調を元通り早いものに戻すと、猫はつられるように口を閉じた。
このときに下手に喋り出して、舌を噛んだという経験がそうさせているに違いない。
バージルは笑みを浮かべ、帰路を急いだ。
魔力、という世間一般の人間からすれば胡散臭い響きであろうものを
保持しているものにとって、月の存在はおよそ小さくはない。
月の満ち欠けによって左右されるもっともたるものが、魔力なのだ。
満月の夜は魔力もまた満ち、逆に新月の夜は通常よりも魔力が落ちる。
そういった月に左右される存在を信じているものは数少ないが、
しかし確かに、それらはこの世に存在するのである。
バージルとダンテもまた、魔力なるものを保持する存在だ。
見目こそどこから見ても人間以外の何ものでもないが、
その身に流れる血の半分は、いわゆる得体の知れぬ存在のそれである。
それ故に彼らも、月の満ち欠けによって少なからず影響を受けるというわけだ。
その不可思議な現象に気付いたのは、もう三年前のことである。
ダンテが猫の姿に変わってしまって、ひと月程が経った夜――――
元々性欲はさして強いほうではないバージルだ
(日頃、バージルをして絶倫と言うダンテは疑うかもしれない)が、
さすがにひと月も交わらずにいると溜まるものだということを、
その日軽く頭を抱える程度に痛感していた。
それまで気付かずに来れたのは、日を置かずダンテを貪っていたからに違いない。
自身の浅ましさはある程度自覚してはいたが、こればかりはどうしようもない。
しかしダンテは猫だ。
いかにどんな姿であってもダンテはダンテでしかなくとも、
相手が猫では、戯れこそ出来ても交わることは出来ない。
いや、さまざまな意味でしてはならないだろう。いくら何でも。
その程度の常識は持ち合わせているバージルだ。
どれ程溜まろうと、ダンテの毛並みを手繰るだけで堪えねばならない。
性欲処理の為だけに商売女を買うことは出来る。
だがバージルはそうしなかった。
バージルが抱きたいと思うのはダンテ一人なのだ。
どんなに女を抱いても、この根底にある慾は満たされないということを、
バージルはよく知っていた。
疲れていたのか、早々とシーツに包まり眠ってしまったダンテの、
耳の付け根辺りの毛並みを指先でそっと梳いた。
敏感なダンテは、あまり強く撫ですぎると眠っていてもそれを感じてしまう為、
何度も文句を言われたことがバージルはあった。
だから、軽く、だ。不満なことこの上ないが、仕方ない。
どれくらいそうしていたか。
時計の針が日付の変わるのを報せたとき、それは起こった。
今日は、その新月だ。
月のない暗い夜空を窓越しに見やり、バージルは寝台に横たわったものに視線を戻した。
バージルの寝台、白いシーツに包まれたそれは、銀の毛並みの猫ではない。
紛れもないバージルの双子の弟が、しどけない寝姿をさらしている。
バージルは口の端に笑みを乗せて、ダンテの銀髪をそっと梳いた。
そう、この新月の晩にのみ、ダンテは猫からひとの姿へと変貌するのである。
新月の晩には必ず、いつにない眠気を訴えるダンテ。
早々にベッドに潜り込み、眠っているその間に元の姿へと戻るからか、
翌朝目覚めたダンテはこの三年間、そのことに全く気が付かぬままだ。
知っているのは、バージルのみ。
この状況を利用せぬ程、バージルはお人好しではない。
何かしらの魔力の影響で猫の姿に変化した、と考えると、判りやすい。
魔力が著しく低下する新月の晩、ダンテの躰に影響を及ぼしている魔力も
例に漏れず低下の一途を辿り、その為一時的にひとの姿に戻る。
しかしダンテ自身の魔力も下がるので、その間のことは記憶には残らない、か。
詳しい仕組みなど判るわけもないが、おそらくそんなところであろう。
バージルは寝着代わりのシャツの左袖をまくった。
右手には、どこからともなく姿を現したバージルの愛剣。
躰の一部と言っても良いだろう剣を鞘から抜き、何をするのかといえば、
おそらくは誰の口からも陰湿と言わしめるであろう、“遊び”である。
左腕の手首より少し手前を、愛剣の刃でついと撫ぜた。
当然、皮膚が裂け血が一筋、滲み出る。
黒みを帯びたその深紅を、バージルは親指の腹ですくう。
そして紅く染まったその指で、ダンテの滑らかな肌を辿るのだ。
強い刺激はダンテの目覚めを促してしまう為、そっと。
これがもどかしくてならないが、ようは馴れだ。
三年も、毎月こうしていれば馴れもしようというものである。
蒼白くすらあるダンテの白磁の膚に、己の血で彩色を施す。
頬に、首に、腕に、腹に、背に、脚に。それから爪、そして髪に。
全身に絡むそれは、あたかも弟を縛る鎖のように。
性的な行為は出来ぬまでも、
陰惨と言える遊戯はバージルの底に根付く何かを満たしていくようで、
何ごとにも淡白なバージルをたち悪く嵌まらせた。
「んん……」
吐息はもらしても、ダンテは目覚めない。
そのように、バージルが絶妙な加減をしているからだ。
脚の付け根、もう中心に触れるという際どい箇所にも一条、朱を施す。
己の血によって紅く染まっていくダンテはひどく、淫靡だ。
この遊びは時を忘れる。
バージルは喉の奥でくつりと嗤った。
柄にもなく遊びに夢中になっている自身を、嘲ったのだ。
そして同時に、ダンテが自覚もなく持つ麻薬めいたたちの悪さを。
時間はまだ、ある。
塞がりかかった腕の傷を指で割り広げ、新しく滲んだ血を直接、白磁の膚に落とす。
「これからだ、ダンテ。もっときれいにしてやろう」
新月の夜。月に一度の紅い遊戯。
バージルの表情は、昏く、しかし子どものように純粋な愉悦に満ちている。
水玉、参
脚の付け根、だろうか。何か毛が引き攣れるような感じが、ある。
ダンテはもぞもぞ躰を動かし、その部分を見ようと腰をねじった。
猫の躰というのは非常に柔らかく、どういう体勢にもなれるものだと、
ダンテが知ったのは三年前のことだ。
それまで、猫はもちろんのこと動物を飼ったことがなかったので、
知る機会がなかったのだ。
猫の生態、と言ってしまうのは何か躊躇を覚える。
それを自分の身で以て知ることになろうとは思ってもみなかったが。
床に座り込み、背中を丸めて小さくなると、本当に毛玉のように見えるらしい。
らしい、とは、自分の姿が見えないダンテにそれを教えたのは、
ダンテの兄であるバージルだ。
そのバージルが、他者から見ればダンテの飼い主に見えるのだと、
ダンテは知っているからこそ複雑な心境であるのだが、
それは今は置いておく。
ころりと丸まり、腰を捻って脚の付け根を覗き込むようにする。
これが人間の姿なら、ひどくあんまりな体勢だ。
しかし猫の姿になって三年、ダンテの感覚は少し、鈍くなっていた。
それはけっして“少し”ではないのだけれども、ダンテにその自覚はない。
股をひょいと開き、人で言う腿の裏辺りに注視する。
毛の引き攣れるような感じは、おそらくその付近からしていると思われる。
「ん……、ん?」
何か、ある。いや、こびり付いている、だろうか。
ダンテの銀色の毛並みとは全く違う色(茶色っぽい?)の何かだ。
この何ともいえぬ毛が引き攣れる感じは昨日はなかったので、
寝ている間に何か付いたと考えるのが妥当だろう。
しかし、何が。それはダンテには判らない。
ダンテは一度寝付くとそれまで、夜中に目を覚ますということがない。
むろん不審な気配があれば気付くが、昨夜はそんなこともなかった。
部屋にいたのは、兄その人だけだ。
「バージルなら知ってるかな……」
ぼそりと、躰を元に戻しながら、呟く。
そのとき。
「何をだ」
誰もいないと思っていたところへ、突然声を掛けられて、
ダンテは文字どおり飛び上がった。
一瞬床からちょっと浮いたダンテに、声の主は眉を顰めたようだ。
「何を驚いている?」
本当に判らないらしく不審そうに言うバージルへ、
べしゃりと猫にあるまじき無様な着地をする羽目になったダンテは、牙を剥いて喚いた。
「いきなり声なんかかけるからだろッ!?」
兄と、何故かここに棲み付いた黒い犬以外には、
ダンテの言葉は本当に猫のそれにしか聞こえない。
為に、この叫びもにゃあにゃあ喚いているとしか聞こえぬわけだ。
一度聞いてみたいと、バージルが思っていることはダンテは知らない。
ダンテから見ても少し感覚のおかしいバージルは、しれっとしている。
「足音で気付かなかったのはおまえだろう」
う、とダンテは詰まった。確かに、そうだ。
気配を消すなどバージルには簡単なことだが、
ダンテを相手にわざわざ気配を消すような手間をバージルはかけない。
何ごとにも細かい兄だけれど、意外に面倒臭がりな面もあるのだ。
「それで、俺に何を訊きたいと?」
不意に会話を転換させるのは、バージルの常套手段だ。
本人には全くそのつもりはないらしく、ダンテももはや慣れている。
といって、バージルのようにころっと気持ちを入れ替えられるわけではないが。
「……昨日の晩にさ、何か、なかった?」
ぼそぼそと、腰で座る形からきちんと座り直しながら言う。
いわゆるおすわりの恰好だが、ダンテは気にしないことにしている。
バージルがつと眉根を寄せた。
「昨夜、か? 何故、」
「脚の付け根にさ、何かついてるみたいなんだけど、覚えがないから……」
どれだ、とバージルは腰を折り、ダンテを片手で抱き上げた。
兄の掌にすっぽり納まってしまう小さな我が身を、ダンテはもう嘆くことはしない。
いつもいつもショックを受けていては、疲れてしまうだけだからだ。
ころりと兄の掌の中で裏返されたダンテは、手でその箇所を指した。
「そこ、そのへんに何かこびり付いてるだろ?」
何だソレ、と問うダンテへ、答えはなかなか返ってこない。
バージルはダンテの脚を凝視したまま、何をか考えているような表情だ。
じっと、ダンテの脚の付け根に見入るバージル。
その視線があんまり熱心なものだから、ダンテはいささか居たたまれなくなる。
これが人間の姿なら、とんでもない光景に違いない。
昼の日中に、弟の腿の根元を舐めるように凝視する兄。
しかも時折、バージルの指はダンテの指したそこに触れるのだから。
頬が熱くなるが、猫だから見た目にはそうと判らない。
猫の姿で良かったと思える、数少ない例である。
「バージル、なぁ、」
堪えられなくなって呼ばわるのと、バージルが視線をこちらに向けたのとは、
ほとんど同時だった。
「気になるか?」
毛の引き攣れる箇所を、バージルがつんと引っ張った。
ダンテはびくりとして背中を震わせる。
「ひゃっ」
思わぬ声も出てしまって、いっそう頬が熱くなる。
バージルが、人の悪い笑みを浮かべたからよけいにだ。
「なんだ、感じたのか?」
そうだが、それを臆面もなく言ってしまう兄の、
遠慮のなさがダンテを物凄く恥ずかしくさせる。
「ち、違ぇよ!」
声を荒げて否定する。
これも、他者にはみゃあと鳴いたとしか聞こえないのだ。
もしくは、フーッと威嚇したように、か。
実際、ダンテの長く垂れた尻尾は毛が逆立っている。
「そう昂奮するな。構いたくなるだろう」
構う。別段何ということはない言葉だが、ダンテはぎくっとせずにはおれない。
兄の構うとは、つまりダンテの毛並みを存分に堪能するというものだ。
そうされて、自分がどうなるか知っているダンテには、歓迎しかねる事態である。
途端に静かになったダンテの、
無防備な腹をバージルが指の先で押すように撫でた。
「ふふ、良い子だ」
面白がっている。確実に、遊ばれている。
しかし言い返すことも出来ない自分が不甲斐なくて、
ダンテの眦がじわりと涙で濡れた。
バージルの指が、目尻に沿うように動き、水気を拭う。
「気になるか?」
何のことか判らずきょとんとするダンテに、バージルの碧眼が動く。
件の、毛が引き攣れる箇所にまたも視線が注がれていることに、
ダンテはすぐに気が付いた。
「ちょ、ちょっとだけ……」
ふむ、とバージルが視線を床に落とす。と、
「なら、洗ってやろう」
「え?」
「何、この程度ならばすぐに落ちる」
「え、や、あ?」
言語障害に陥ったようなダンテは、ほとんど無視だ。
バージルは自分だけで納得し、ダンテを掌に乗せたまま踵を返す。
おろおろするだけのダンテだが、兄の行く先は判る。
洗面所、もしくは風呂場に違いない。
「ちょ、っと、バージルっ?」
茫然と見上げる先の、兄の顔は。
最近よく見かける、愉しげに輝くそれだった……。
水玉、四
順調に、日々は過ぎていたように、思う。
にゃあにゃあという、猫のそれ以外の何ものにも聞こえぬ声が、
玄関の向こうから聞こえてくる。
バージルは自宅スペースから事務所のドアを開け、訝しげに眉をひそめた。
猫の声は、内緒話でもするように小さい。それを聞き取ることが出来たのは、
バージルの聴力が常人よりも優れているからにほかならない。
にゃあ、にゃあ。少し気弱な声だとバージルは思った。
この辺りには、何故だか猫がかなりの数、いる。
その一匹だろうと無難にあたりをつけたものの、何か気になるものがなくもない。
バージルは無意識に、玄関先の鳴き声に耳を傾けた。すると、
「……快く、とは言うまいが……承知した、ということにしておいてやろう」
低くしわがれた声は、先日からこの家に棲みついている黒い犬のそれだ。
野良猫と会話をするところなど見たことはないが、そういうこともあるのだろうか。
猫に姿を変えてしまったダンテの言葉も理解するのだ、
ただの猫と会話が出来ても不自然ではないけれども。
それにしても、いったい何の話なのだろうか。
ダンテ以外の何ものにも興味と言うものを抱いたことのないバージルは、
まったく珍しいことに玄関先の会話に関心を持った。
扉のほうへ、脚を進める。
外で、何やら気配が動いた。黒犬が、バージルの気配に気付いたのだろう。
「行くなら、急げ。気付かれては、我が条件を呑んでやった意味がなくなる」
何を、この黒犬は言っているのだろう。
バージルが玄関扉のノブを掴むのと、猫のにゃあという声がするのはほぼ同時だった。
扉を開ける。少しの焦燥が胸にあることは、あえて無視をして。
拓けた視界から、小さな影が二つ、足早に走り去っていく。
その片方の影に、バージルの碧眼は釘付けになった。――あれは。
「ダンテっ……!?」
銀色の、猫。バージルの猫だ。いや、双子の弟であるのだが、それはいい。
バージルのものであるダンテが、バージルの知らぬ黒猫とともにどこぞへ駈けて行く。
ただの外出、にはバージルには見えなかった。
何故ならば、ダンテはこちらを一顧だにしなかったから。
バージルが名を呼んだというのに、足を緩める素振りすらしなかった。
追わねばならない。追って、連れ戻さねば――しかしそれは出来なかった。
「っ、何のつもりだ、貴様……!」
黒い犬が、本性である氷を纏った巨大な犬の姿になり、バージルの行く手を塞いだのだ。
ただの犬の姿ならば、閻魔刀の一閃でどうとでもなる。しかし。
暗い路地に、この氷の化身の巨体はいかにも狭さを訴えている。
しかしそんなことは、バージルの頭の片隅にも浮かばなかった。
犬が道を塞いだこと――ダンテを追わねばならぬ自分を遮ったことだけが頭を占めている。
「貴様を行かせるわけにはゆかぬ。あれとの、約定でな」
三つ首の犬。毒々しい紅眼の首が口を開いた。
「約定、だと。そんなものは俺には関係ない。退け」
「ゆかぬと言うた。我はあれを元の姿に戻してはやれなんだ。
故に、あれとの約を結ぶことを諾としたのだ」
がちりと音がし、緑眼の首が白い息を吐き出した。
「あれはここへは戻らぬ。貴様と、再び相見えることはなかろう」
不快な声は不快な言葉を紡ぎだす。戻らぬだと? そんな馬鹿なことがあるわけが。
「貴様に言伝を預かっている。これもあれとの約定だ」
「探すな、と」
それまで黙していた青眼の首が、ふぅうと息を吐きつつ言葉を紡いだ。
それらは無論、不快極まりないものに違いなく。
「あれは最早人間の言葉を紡ぐこと叶わぬ。人間の姿に戻る兆候もない。
あれは絶望したのだ。望みを抱き続けることの無意味さに気付き、絶望した」
言葉をなくした猫は、自分をただのごくつぶしであると思い込み、
その思考から逃れられなくなったという。
そんな素振りを、バージルは全く知らなかった。気付きもしなかった。
何故、この第三者である犬が何もかも知ったふうに語っているのか、
それが不思議でならなかった。
「あれは戻らぬ。もう、二度と。畜生として生きる道を選んだのだ」
「己を導く者は、先んじて見つけていたようだ。先程の黒猫がそれであろう」
寄り添うようにして駈ける二匹。その影を思い出し、バージルは拳を握り締めた。
この連中(正しくは一匹であるが)の話を、理解してはならないと本能が告げている。
警告、と言っても良いかもしれない。理解してはならない。納得などもってのほかだ。
理解すれば最後。自分はあの半身を諦めることになる。
そんな馬鹿な話はなかった。そんなことを認めてなるものか。
「理解も納得も出来ぬであろう。が、これが真実」
「これが現実」
「あれが絶望した、紛れもなき現実よ」
重なるように、歌うように声が繰り返す。これが現実なのだと。受け入れろ、と。
「黙れ」
「受け入れよ。あれは最早此処には戻らぬ。貴様の許へは……」
「黙れ!!」
ダンテは俺のものだ。俺のものなのだ。勝手にどこかへ行くなど、赦さない。
赦すことなど、出来るわけがない――!
「ダンテ……っ!」
「わわっ!?」
ぼすんと、衝撃。下腹部のあたりだ。瞬きをして視線をやると、
珍しいとよく言われている銀の毛並みの猫が、ぷるぷると頭を振っている。
「、んなんだよ、バージルぅ〜」
恨みがましい声と、見上げてくる真っ青な瞳。少し毛並みの逆立った尾。
もはや見慣れてしまった姿に、バージルは無意識に安堵の息を吐いた。
バージルが躰を起こすことで転げ落ち、目が回ってしまったらしいダンテを、
両手ですくい上げるように抱き上げる。
どうやら眠っていたようだ。そういえば、ベッドに腰かけていた覚えがある。
そのまま躰を倒し、眠り込んでしまったらしい。
そのバージルの胸のあたりで、ダンテは丸くなっていたのだろう。
「ダンテ、」
「なに」
「……いや、今は――」
時計を見やれば、夜の十時を指している。
「もう寝るか、ダンテ?」
先ほどまでうたた寝をしていたことは棚に上げ、
ダンテを肩に押し付けるようにして抱き寄せる。
ダンテは慣れた仕種でバージルの肩にしがみつき、そうだなぁ、と呟いた。
「寝るのは良いけど、さっきみたいなのはもうヤだぜ」
よほど驚いたのだろう。むうっとむくれているらしいダンテに、
バージルは苦笑して快諾してやった。
「判った、判った。怖いなら、次は俺の肩あたりにいろ」
「こわくねぇっ! びっくりしただけだろ!」
にゃあにゃあ喚く愛猫の背中を、ゆったりと撫でつつバージルは一瞬、笑みを消した。
「……どこへも行くな」
その呟きは、ダンテの耳には届かなかったようだ。
(もし、どこかへ行こうとするならば、)
足の腱を切ることをせずとも、上位の錬金術を使役する自分にかかれば、
彼を歩けなくすることなど造作もないことなのだ。
水玉、伍
ちょっとした段差に足を引っ掛けて、転びそうになったときのような。
わっと驚いて声を上げる、そんな何でもないことと何も変わらぬように。
ダンテは、何かしらのきっかけで、人間の姿に戻っていた。
「……あれ?」
一番戸惑っているのは、自分。それはそうだと言い訳のように思う。
いつものように兄の肩の上に陣取って、こくりこくりと舟を漕いでいた。
そんな、いつもの昼。そして懲りずに兄の方から転がり落ちて――
咄嗟にくるりと躰をひねって着地した、そこまでは本当にいつもと変わらなかった。
が、しかし。
顔を上げたとき、目の前に兄の顔があることに、彼は純粋に疑問に思った。
兄が目を瞠っていた。そんな表情を見るのは初めてかもしれなくて、
ダンテはそのことに驚いた。自身の異変に気付いたのは、それからだ。
「……何をした?」
心底訝しげな、兄の声。それはこちらが訊きたいことだとは、ダンテは言わなかった。
代わりに、とはまったくゆかぬけれども。
「……何だと思う?」
疑問を、兄に投げ返した。実際、何が何だかまったく判らないのだ。
いくら聡明な兄だからといって、この不可思議な現象の解明を瞬時にするなど不可能だ。
しかし兄を盲目的に信じているところのあるダンテは、
兄ならば、とどこかで思ってしまっているのだった。
だから、当たり前のように兄に問う。これは一体全体どういうことなのか、と。
「……、とりあえず、だ」
「うん」
「服を着るところから始めるというのはどうだ」
「――ッ!?」
ダンテは一糸纏わぬ姿――いわゆる全裸だった。
全速力で自室に駆け込み、ダンテは半泣きでクロゼットの扉を開け放った。
しかしここでまた新たな涙が溢れそうになる。服が、ない。
なんで、と喚くダンテの後ろから、ゆっくり追いついたバージルが肩を竦め、
「引っ越す際に処分したからな」
さらりととんでもないことを言ってのけた。
ダンテは無論、兄を睨みつけて食って掛かった。
「なんでだよッ!? 俺の服……!!」
「要らなかっただろう、猫の姿では、服など」
ダンテは絶句した。いつもとの姿に戻ることが出来るのか、確かに誰にも判らなかった。
しかし裏を返せばすぐにももとの姿に戻っていたかもしれないのだ。
それなのに、バージルはしれっとして、言う。服など不要だった、と。
唇を噛み締めてわなわなと震えるダンテの顎を、バージルの長い指がついとすくった。
ダンテは目を逸らした。それがいけなかったのかもしれない。
けれども兄の顔を見ていたら、憤りと困惑とで何を喚き散らすか判ったものではなく、
ゆえに自ら視線を外すことで、自身をどうにかコントロールしようとしたのだ。
その、なけなしの努力を、バージルはその横暴さでもって打ち壊した。
「服なら俺のものを着せてやる」
着ろ、ではないことに、ダンテは不審を覚えなかった。
バージルの言葉を脳裏で反芻するより先に、兄によって唇を塞がれた。
んん、と紡ごうとした言葉が喉の奥でくぐもった音をさせる。
なぜこんなことになったのか、理解できぬまま唇をいいように貪られる。
「ん、んっ……ふ、くぅん……ッ」
甘えたような、鼻に抜ける吐息。混乱していたのは初めだけのこと。
バージルの巧みな舌使いによって、思考はすでに霞ががってしまっている。
角度を変え、互いの唾液を飲み込み、舌を擦り合わせ。
久しぶりの――そう、実に久方振りのキスに、ダンテは文字どおり溺れた。
長いキスだ。呼吸などまったくままならず、ただ兄にしがみつくばかり。
腰にはバージルの腕。その強さにすら陶然とするしかなく。
「、っは……」
ようよう開放されたときにもれた吐息は、我知らず切なげなそれになってしまって。
くっくと笑う声が耳許に響き、ダンテはぞくりと背が震えるのをどうにか堪え、
笑うなよとどうにか言いはしたものの、思いの外弱弱しい声音に舌打ちしたくなる。
けれどもバージルは、そのことには一切触れてこなかった。
むしろ、触れてほしくないほうへ矛先を向けて。
「このまま放置してほしいか、それとも……」
言いながら、ダンテの尻をいやらしく撫ぜる。
ダンテの中心はすでにどうにもならぬほどに張り詰めている。
キスだけで、だ。こちらは全裸なのだから、ばれぬわけがないのだけれど。
けれども、あまりの恥ずかしさに死にそうになる。
バージルの表情は見えないが、きっと笑っているのに違いない。
ダンテ以外には、けして見せることのない好色そうなかおで。
ベッドに行くかと、低い声音で問うてくる。
本人としては、別段ベッドでなくとも構わないのだろうけど。
ダンテとしては、大いに構う。詰まらぬ意地のようだが、それでも。
「ばかバージル、」
そう恨みをぶつけることぐらい、ゆるしてほしい。
わけの判らぬまま躰を繋げたのは、まだ陽も高い日中のこと。
それから、飲まず食わずでひたすら互いを貪り、気付いたころにはすでに辺りは暗く。
途中何度も失神してしまったダンテは、暗くなったことにも気付かずに。
兄の絶倫ぶりは、久方振りのセックスにも全く衰えを見せることはなかった。
手加減ぐらいしてくれよ、と恨みがましく思いながら瞼を持ち上げる。
視界には、バージルの肩。意外にも厚みのある兄のそれを、じっと見つめる。
この肩に、ぎりりと爪を立てたことを思い出す。
バージルは痛みなどものともせず、むしろ笑みを深くしていたように思う。
あぁ、恥ずかしい。死ぬほど、恥ずかしい。
両手で顔を覆う。どこの女の子かと自分で突っ込み、そしてふと、気付く。
バージルは眠っているのだろうか。それよりも今は何時なのだろう。
「バージル……?」
自分でも判る、かすれた声。嫌になるくらい、恥ずかしさが増す。
しかしすぐに返答があって、顔を覆う暇はなかった。
「どうした。腹でも減ったか」
子どもにでも問いかけるような声だとダンテは思った。
バージルが寝返りを打つように躰をダンテのほうへ向ける。と、
「……ダンテ?」
訝しげな声音に、ダンテは首をかしげた。どうかしたかと、兄に問う。
兄はダンテの頭をするりと撫ぜた。頭、全体を。掌のひと撫でで。
ダンテもまた、怪訝に思った。兄の掌の感触はいつもと同じ。
おかしいのは、自分の……
「え、え?」
困惑するダンテの頭を、なだめる意味も込めてかバージルはすりすりと撫でて。
「……気にするな」
なんて。言われても全然気休めにもならない。
ダンテは絶句し、愕然とした表情で兄を見つめるしかない。
バージルはそれ以上慰めることなく、ただダンテの躰を撫ぜるのみ。
その掌から伝わる低い体温を、こんなときにも心地好く思ってしまう自身を、
ダンテは馬鹿だと思わずにはおれない。
それ以来、ダンテはふとしたことで人間の姿に戻るようになり。
しかしやはりふとしたことで猫の姿に逆戻りし、を繰り返すようになった。
[08/11/12]