真水、壱
ふらふらと、視線が左右に揺れる。同時に首も揺れているのだけれど、
本人にはその自覚はまるでない。
無意識に、目で追っている。何をか、と言えば……
黒い、大きな刷毛のようなふさふさした――――犬の、尻尾だ。
「……何だ」
低い声は、しかし聞きなれた声とはまた別のもの。
ダンテの揺れていた視線がぴたりと止まり、声の主を見た。きょとんとして、言う。
「何が」
無自覚にしていたことを指摘されても、判らないのは当然と言えば当然だ。
しかし、あからさまに視線を寄せられていたものからすれば、
気になって仕様がないことも当然である。
ことりと首を傾げているダンテに、我知らずため息が出る。
するとダンテが、何やら「ひゃっ」と声、というよりも悲鳴を上げた。
「寒ッ! 息寒ぃよ、お前!」
と、言われてもどうしようもないことだ。
「我は凍てつく氷を司る。当然であろう」
三つ首の犬――――ケルベロスはこともなげに言った。
今は真っ黒い大型犬程度の姿を取っているが、本性は魔界に棲む凶暴な魔犬である。
ダンテとは、かつては敵であった。それが何故今、こうして同じ空間にいて、
こうして言葉を交わしているのか――――少しばかり事情があるのだが、説明は割愛する。
ともかく、ケルベロスは今のところ、ダンテを敵として認識していないことだけは確かなことだ。
もっとも、こんな姿のダンテを相手取ろうとは、さすがに思えぬケルベロスだ。
唇を尖らせて、ダンテはもそもそとケルベロスの腹の辺りに潜り込んできた。
脚に隠れるので、そこならケルベロスの息もかからないと踏んだようだが……
手足を折り曲げ、ちんまりと丸くなる姿がどうにも可愛いと、ダンテは自覚していない。
ケルベロスは赤い眼をした首をダンテに向け、肩を竦めた。
この自分がダンテを可愛いなどと思うことがあろうとは、思ってもみなかったことだ。
ダンテは今、小さな猫の姿になっている。元は、人間だ。
自分が噛んだことが原因らしいが、何故なのかはケルベロスにも判っていない。
つまり元に戻す方法など知らぬわけだから、ダンテは今も猫の姿のままなのだ。
ケルベロスの懐に身を寄せたダンテは、心地好いのか目を細めてうとうとし始めている。
氷を操るくせに何故毛皮が暖かいのかと、数日前に問うたのはダンテだった。
知らぬ、と素っ気なく答えたのはケルベロスで、ダンテはしきりに首を傾げていた。
それから、ダンテはことあるごとにケルベロスの毛並みに躰をすり寄せて来るようになった。
どうやら気に入られてしまったらしい。
「眠いのか?」
問えば、むぅ、とよく判らない返事があった。
もう寝入りそうだな、とケルベロスは経験上察して苦笑する。
たかが仔猫程の小ささの毛玉が、懐にあるというだけのこと。
ケルベロスには何の支障もない。
むしろいかにも心地良さそうに眠るダンテのさまを、気に入ってすらいるケルベロスであった。
この家に来た当初こそ、ダンテはケルベロスに噛み付いたり引っ掻いたり、
暴られるだけ暴れて手を焼いていたのだが。
喉元を過ぎてみれば、こんなものだ。
「人間とは、判らぬ生き物よ」
蒼い眼を持つ首がぼそりと呟き、その横で、緑の眼をした首が視線を巡らせた。
ダンテが自分に懐くことは、良い。もう慣れた。しかし、だ。
「面倒なことだ」
蒼と緑の眼の首が、同時にため息を漏らした。
視線の先には、ダンテの飼い主……もとい、双子の兄である男の姿。
やけに不穏な気配を纏っていることに、ケルベロスはうんざりせずにはおれない。
ダンテだけが、何も知らず仕合わせそうに眠っている……。
真水、弐
行きたくないと思っているとき程、何故か用事が出来てしまうものだ。
エンツォは相も変わらず辛気臭いスラムの路地を歩きながら、
アスファルトの上に盛大なため息を落とした。これでもう、三度目のため息だ。
どうしてこのエンツォ様が、わざわざ来たくもないスラムへ足を運ばねばならないのか。
原因はもちろん、この先に住む一人と一匹が、依頼主らにやたら受けが良いからだ。
あんな無愛想で物騒な男と、全く懐かず威嚇ばかりする猫のどこが良いのか、
エンツォには皆目見当もつかない。
ただ、男の見目がたいそう良いということは判っている。
それだけで選ぶ人間も確かにいるのだから、あの男は食いっぱぐれがない。
まったく、羨ましいことだ。
昼でも薄暗く陰気なスラムの奥に、男の事務所兼自宅がある。
エンツォは入口に立ち、いつものように扉を数度、叩いた。
「おい、バージル、いるか?」
先にアポイントを取っておいても、ここの住人はそれを無視して出掛けることがままある。
腹が立つので、エンツォは一切、アポは取らないことにしている。
二度もアポイントをすっぽかされて、三度も同じことをしようとは思わなかった。
どんどんと扉を叩くが、応答がない。不在なのだろうか。
在宅であろうが不在であろうが、鍵は掛かっていないと確信出来る。
が、エンツォは命が惜しいので、勝手に入り込むことはしない。当然の選択だ。
「おーい、いねぇのかぁ?」
いつもなら、バージルの連れている猫が顔を出すなりするのだが、
それもないということは、やはり不在なのだろう。
肩を竦め、踵を返そうとしたとき、不意に扉が内側から開いた。
なんだ、いるなら早く出てくれば良いものを。
内心で文句を言ったエンツォは、じわじわと目を見開いた。
扉の向こうから顔を出したのは、バージルでも猫でもなく、
見たことのない黒い大きな犬だったのだ。
「へっ?」
思わず間の抜けた声を上げたエンツォを招くように、黒い大型犬が扉を開け放つ。
こちらをじとりと見上げてくる犬の、目が血のように紅い。
一目で獰猛だと判る犬に迎えられて、全身が凍りついたように動かなかった。
と、
犬がふいとエンツォから視線を外し、エンツォの背後を見やった。
何かあるのか、確認しようと振り返るより早く、背中にどんと衝撃があった。
「わっ、何だ!?」
さして大きくないものだとは、すぐに判った。
エンツォの肩にしがみついたそれが、うにゃあとどこか不機嫌そうな声を上げる。
「な、んだ、ダンテかよ。驚かすなって……」
はぁっと息を吐いたエンツォの肩から、猫――――ダンテがひらりと飛び降りる。
ダンテは肩越しにこちらを見上げ、悪びれたふうもなくぺろりと舌を出して見せた。
よく見れば、ダンテの珍しい銀の毛並みはひどく汚れている。
あれで乗られたのだから、自分の背中や肩も汚れたのに違いない。
「おま……、……バージルはいんのか?」
猫に訊いても返事は期待できないが、この恐ろしい犬に尋ねるよりはましだ。
ダンテは尻尾を振り、黒犬を見上げた。にゃう、と何やら話し掛ける。
動物の言葉など判るわけもなく、エンツォはただ突っ立っているしかない。
ダンテがこちらを振り仰いだ。
「にゃあう」
だから、言葉など判らないというのに……
エンツォはため息を吐いたが、しかし猫の言わんとしていることは察せられた。
「いねぇのか。なら、しょうがねぇ。出直すとするかな……」
どこに行っているのかは知らないが、待つことも選択肢の一つではある。
エンツォは少し考え、ふと、ダンテのくしゃくしゃになった毛皮が気になった。
「ダンテよぉ、お前どこで何してたんだ? せっかくの毛皮がぼろぼろだ」
いつ見掛けても、ダンテの毛並みはつやつやなのだ。
想像も出来ないことだが、バージルが毎日手入れなりしているのだろう。
バージルに風呂でも入れて貰え。
そう言うと、ダンテは不服そうな顔をした。人間のように、ダンテは表情豊かだ。
そんなに風呂が嫌いなのだろうか。エンツォが首を傾げていると、
ダンテの首根っこを、黒犬がひょいと咥えた。
にゃっと、驚いたらしい声が上がるが、ダンテは大人しく運ばれるまま……
エンツォは茫然と、ダンテが黒い犬によって丹念に毛繕いされるさまを眺めていた。
汚れてぼろぼろだった毛並みがすっかり綺麗になり、
仕上げとばかりに犬が猫の鼻面をべろりと舐める。
立ち尽くすエンツォの背後から、恐ろしく寒い気配がしたのはそのときだ。
こんな物騒で剣呑極まりない気配を纏わせた人間など、エンツォは一人しか知らない。
「ば、バージル……邪魔してるぜ……」
何とかそれだけ、言う。
しかしバージルはエンツォなど完全に無視だ。
絶対零度の視線は、真直ぐに黒い犬に据えられている。
犬の傍らで、毛並みに艶の戻ったダンテが、
何ごとかとばかりにきょときょとと、飼い主と黒犬とを交互に見比べていた。
何も知らぬというのは、本当に強いとエンツォは思った。
真水、参
最近、ダンテには悩みがある。
銀色の、エンツォ曰く珍しい毛並みを、ダンテ自身はさほど大事にはしていない。
手触りは手放しに良いらしい。
兄が日々、飽きもせずダンテを撫ぜては、満足そうにしているのが証拠だ。
が、自分の毛並みの手触りを、ダンテは自分では確かめられないのだから、
良さも価値も判るわけがなかった。
ひとでいう掌に埋まった肉球では、そこまでの感覚を本体に伝えてはくれないのだ。
ふと視線を落として、手の甲が汚れていることに気付く。
ダンテは自宅のドアを目の前にして立ち止まり、腕を持ち上げて手の甲を舌で……
拭おうとして、はたと思いとどまった。
今、自分は完全なる猫になっていたのではないか。
愕然たる思いで、ダンテは己の手を見つめて蒼白になった。
ただし、銀色の毛並みに覆われた顔は驚き顔でこそあるものの、
人間のように顔色までは変わりようがない。
「くそっ……」
小さな悪態は兄(と件の黒犬)以外の耳には、
「にゃぅ」としか聞こえないのだということが、どうにも悔しい。
地団駄を踏むようにアスファルトをたしたしと蹴っていると、
不意に背後から声が掛けられた。
「また、随分と汚れて来たものだな」
覚えのある声音に振り向くと、ダンテが猫の姿なぞになった原因である、
大きな黒い犬がそこにいた。
「煩ぇな。放っとけよ」
ダンテが唇を尖らせると、黒犬――――ケルベロスの青い瞳が、つと細められた。
「毎度、よくも飽きずに毛皮を汚して来るものだ」
素行が悪いからだとばかりにため息など吐かれ、ダンテはむっとして黒犬を睨みつけた。
「放っとけっつってんだろ!? どこで何してようが、俺の勝手だ」
ぷいっと顔を背け、さっさと立ち去ろうとしたダンテだが。
何故か前脚が空を蹴り、次いで後脚も地面から離れてしまう。
何ごとが起こったのかといえば、黒犬がダンテの首根っこを口で咥え、
その小さなからだを軽々持ち上げたのだ。
親猫が仔猫にするような体勢に、ダンテはしかし抗議の声もない。
前脚を行儀良く折り畳み、じっと大人しく黒犬の口にぶら下がっている。
首の後ろには何か弱いところでもあるのか、黒犬にこうして咥えられると、
途端に大人しくなってしまうダンテである。
黒犬がしたり顔でほくそ笑んでいるようで、ダンテは不愉快極まりない。
が、こうして運ばれること自体は嫌いではなくて……
要は恥ずかしいだけなのである。
黒犬に咥えられて自宅に入ったダンテは、事務所の黒檀のデスクのそばで解放された。
と思うと、べろり、と長い舌に鼻面を舐め上げられる。
「やっ……何するんだよっ」
ダンテが身を捩ると、黒犬は咎めるようにダンテの首に噛み付いた。
無論、甘噛みだ。牙の感触こそあるが、痛みはまるでない。
「汚れを落としてやろうと言うのだ。大人しくしていろ」
感謝しろ、とばかりに宣う黒犬。
気付けば黒犬の頭が、一つから三つに増えている。
ケルベロスは地獄の番犬として知られる三ツ首の悪魔だ。
外を歩き回る際は、さすがに頭の数を一つに減らしている。
苦しくはないのか、黒犬の頭が三つ、小さなダンテを総掛かりで舐めにかかる。
毛繕い、のつもりなのだろう。
顔や腹や背中を、満遍なく黒犬の舌が這い、汚れを拭っていく。
普通の猫ならば、毛繕いをされても何ら問題などないだろう。
が、ダンテは違う。もとは、人間なのだ。
耳の後ろをくすぐられると、ぞくりとする。
腹の、毛がつんと立った箇所をなぞられると、びくりとなる。
足の付け根を執拗に擦られては、情けないことだが堪らなくなって……
「ぁッ……やぁ……も、やめ……ひゃんっ……!」
びくびくとからだを震わせて、黒犬の下から逃れようと藻掻くけれども。
黒犬は三つの首を器用に使い、ダンテを押さえ込んで逃がしてくれない。
それどころか、ダンテの長く細い尻尾の付け根を、犬の舌がぺろりとなぞって、
ダンテは思わず高い嬌声を上げてしまった。
「ひぁあんッ!」
慌てて口を両腕で押さえるが、もう遅い。
拙い。背筋を嫌な寒気が這い上がり、
「また貴様か……!」
ダンテの声を聞きつけたらしい兄の、凄まじい殺気と怒気とが、
妖しげな雰囲気に満ちていた事務所を一瞬にして塗り替えた。
ダンテはへにゃり、と床にくずおれる。
(またかよ……)
そう、ダンテが全身を汚して帰って来るのも初めてではなければ、
それを見咎めた黒犬がダンテを毛繕いするのも初めてではなく、
ついでに黒犬に毛繕いされるダンテの有様に、兄の怒りが爆発するのも始めてではない。
「こちらへ来い、ダンテ」
静かにダンテを呼ばわる声は低く、
ダンテは怯えながらも兄に逆らうことなど出来そうもなくて、
柔らかな肉球で床を踏みしめるのだった。
真水、四
ぱたり、と刷毛のようなものが頬に触れた。
何が、と考えるまでもなく、バージルにはそれの正体が判っている。
尻尾、だ。
刷毛というよりも太い絵筆と表現したほうが合っているそれが、
バージルの頬を叩くようにしたのである。
何の尻尾かといえば、バージルが日々可愛がっている小さな猫のもの以外にない。
猫の名は、ダンテという。
バージルの双子の弟だ。
何かの間違いで猫の姿などに変化してしまった、元人間である。
元の姿に戻れるよう尽力はしたが、今現在、ダンテはまだ猫のままだ。
苛立ちと鬱憤が溜まっているのか、
ダンテは気付けばバージルの肩にひょこひょこと登ってきて、
尻をこちらに向ける恰好で座り心地の好い位置に腰を据えたかと思うと、
尻尾をふわりと揺らしてバージルの頬や肩をぺもぺもと叩いてみせるのだ。
本人は嫌がらせを兼ねた当てつけのつもり、なのだろう。
しかしバージルがいっこうに堪えた様子がないことに、気付いていないわけがない。
尻尾がまた、バージルの顔に当たった。
毎日ブラッシングを欠かさない毛並みは、叩かれても痛みなど感じないのは当たり前で、
むしろ心地好さを感じる程の滑らかさだ。
思わず笑みを浮かべると、それに気が付いた猫が尖った声を上げた。
「何笑ってんだよ」
バージルが「何もない」とあっさり答えれば、
当然ながらダンテは納得などせず、拗ねてしまったらしい。
「どうせ、……」
不貞腐れた呟きに、バージルは肩を竦めた。
もちろん、ダンテが転がり落ちぬ程度に、そっとだ。
「お前が可愛いことをするからだ」
などと本当のことを口にすれば、ダンテが本格的に臍を曲げて、
バージルの肩から離れてしまうことは判りきっている。
だからバージルは、ダンテに言葉はやらなかった。
ダンテの尻尾をおもむろに掴み、肩から膝の上へと引き摺り下ろす。
思い掛けないことだったに違いなく、ダンテが「ひゃっ」と高い悲鳴を上げた。
バージルの腿に転がったダンテが、くるんと躰といわず尻尾まで丸めて小さく小さくなり。
こわかったのかもしれない。
目をぎゅっと瞑って、まったく可愛いものだとバージルを苦笑させた。
「痛かったか?」
ぬけぬけと問うてやれば、ダンテがそろりと瞼を持ち上げ。
何かを探すようにキョロキョロとした後、
ようやく自分がバージルの膝に移動させられたのだと気付いたらしい。
バージルを見上げ、ぷくっと頬を膨らませた。
「何するんだよッ!」
よほど驚いたのだろう。
大袈裟な程喚くダンテの、逆立った毛並みをするすると撫ぜてやる。
こうされることが、ダンテは好きなのだとバージルは知っているのだ。
誤魔化されたとでも思ったのか、ダンテは身を捩ってバージルの手を振り払おうとする。
やめろ、と喚く。
無論、バージルがそう易々とダンテを逃がすわけはない。
「大人しくしていれば、お前の好きなケーキを焼いてやる」
もので釣ることも、一つの誤魔化しに違いない。
ダンテもそれは判っているだろうが、怒りに任せてバージルの言葉を突っ撥ねるには、
ダンテは甘いものに目がなさすぎた。
両耳をぴんと立たせ、しかしバージルを見上げる瞳は複雑な色を浮かべている。
あっさりケーキに釣られるのは癪だが、
しかしケーキを蹴ることが出来るようなダンテではなく……
内心の葛藤が手に取るように見て取れて、
バージルは微笑を浮かべぬわけにはいかない。
ダンテが可愛いのが、そもそもいけないのだ。
「どうする」
重ねて問えば、ダンテはむぅっと眉をしかめた。
迷っているということが、ありありと判る。
ダンテが呻くこと、数秒。意外に、時間が要った。
「……タルト」
ぽそ、と、ダンテがもらした。
苺の、と付け加えたダンテはそっぽを向いている。
バージルから、無理に視線を逸らしているというふうだ。
「苺のタルトか。……判った」
甘いものの中でも、とくに苺が大好きであるダンテらしい選択だ。
バージルはダンテの背中から尻尾の先まで、少し強めに撫ぜた。
銀色の毛並みは、今し方よりもいっそう柔らかくなっている。
ダンテの気分が滅入っているときや、機嫌が悪いときには毛並みの状態も悪い。
逆にダンテが上機嫌のときは、このように毛並みの艶やかさが変わってくるのだ。
ダンテは今、非常に機嫌が良いのに違いない。
拗ねていたのはいつのことやら。
自覚があるからこそ、バージルのほうを見ないようにしているのだ。
猫には顔色など表れないが、これが人間ならば、頬を赤くしている筈である。
バージルは口を閉ざしたダンテの毛並みを、こちらも黙って撫で続けた。
心地好い感触を味わうように、掌と指とで毛並みを辿る。
尻尾の付け根などをくすぐるようにしてやると、
ダンテが蕩けたような吐息をもらすのがバージルの気に入りだ。
このところ、ダンテはよくあの黒犬に毛繕いをされている。
バージルにとっては忌々しい光景だ。
思い出すだけで苛立ちが募り、ダンテに怒りをぶつけてしまいそうになる。
ダンテはバージルのものだ。
爪の先から尻尾の先まで、無論銀毛の一本にいたるまで、総て。
ダンテに触れて良いのはバージルただ一人で、黒犬には何の権利もあるわけがないのだ。
もっとも非があるのは、黒犬に毛繕いをさせてやるダンテだ。
ダンテは、己がバージルのものであるという自覚に欠ける。
もっと、しっかり躾けてやらねばならないらしい。
自分がおらねば生きられぬ躰に、ダンテを調教してやらなくては。
その為の餌付け、というわけでは、別段ないのだけれども。
利用できるものを最大限に利用せぬ手はない。
バージルは自分の膝で丸くなっているダンテを見下ろし、微笑した。
眠くなってきたのか、頭をバージルの腿にすり付けるようにしている。
尻尾など、へにょりと力なく垂れたままだ。
「眠れ」
耳の後ろを掻いてやりながら、囁く。
ダンテの返答はまるで吐息と変わらず、バージルは笑みを深くするのだった。
可愛い仔猫へ。
真っ赤な苺がこぼれんばかりに載った、甘い甘いタルトを。
真水、伍
物凄く、気になって気になって仕方のないものが、ある。
それは今もダンテの目の前にあって、じっとこちらを見つめ返している。
と言って、いきものではない。
無機質なそれは、テーブルの上にただ鎮座しているだけ。
つまりはダンテが、自らそれに近付き、一方的に睨めっこをしているのだった。
これがダンテの前に姿を現したのは、つい昨日のことだ。
ダンテの兄であるバージルが、こういうものを買ったと言って見せてくれた。
それが何に用いるものなのか、料理を一切しないダンテには判らなかったけれど、
バージルがどことなく上機嫌であることは判り。
ふぅん、と興味があるような顔でそれを見上げていたのだ。
まさか、こんなにも気になりだすとは、思ってもみずに。
「うぅ……」
睨めば睨む程、気になる。
ならば背を向けてどこかへ行けば良いだけのことなのだが、
それが出来ていれば苦労はしない。
ダンテはもう三十分も、こうして時折唸ってはそれを睨みつけるばかりだ。
どう、気になるのかと言えば。
本当に、誤解があるといけないので念を押して言うが、
本当に衝動的に、それの中へ入ってみたいという衝動に駆られているのだ。
何故かなど、ダンテに判るわけもない。
それが中に入ってどうこうする為のものではないということは、
まるで料理をしないダンテにすら判っているのだから。
しかし、入ってみたい。
と思わずにおれないのは、きっと、
中は居心地が良いのだという確信があるからだ。
「……んん……」
唸る、視線の先には、それが静かに鎮座して。
何故だか蓋が開いていることも、おそらくダンテの衝動を駆り立てる要因の一つで。
(ちょっとだけなら……)
バージルが戻ってくる前に出て、何もなかったような顔をしていれば、
きっとダンテの行動が露見することはないに違いない。
そうすれば、怒られることもないだろう……。
決まった。ダンテは腰を上げ、そろりとそれの縁に手を乗せた。
買い出しから帰宅したバージルは、
リビングのテーブルに見慣れぬものを見つけ、器用に片方の眉を吊り上げた。
それが、バージルが昨日購入した調理器具であることは判っている。
日本、という島国で専ら使用される、金属製ではない独特な鍋だ。
バージルは日本という国に興味を持っており、これもその一環で購入したのである。
その、鍋が。小一時間程見なかっただけの間に、
奇妙な光景を生み出していようなどと誰が想像し得たでだろうか。
「……ダンテ、か……?」
鍋の中に、鮮やかな銀色の毛並みがちんまりと納まっているのだ。
珍しい毛皮の持ち主は、バージルの弟であり今は猫の姿になっているダンテ以外にない。
が、そのダンテが、何故また鍋の中で丸くなっているのか。
しかもやけに居心地が好いらしく、ぐっすり眠っているようなのだ。
猫が鍋を好むなど、聞いたこともないのだが……
狭いところを好むのと、似たようなものなのだろうか。
ダンテはよく、バージルの外套の内ポケットに入りたがる。
狭すぎはしないかと思うバージルを尻目に、眠り込むこともしばしばだ。
それとこれとは同じ、とは言えないように思うのだけれども。
とにもかくにも、ダンテが気持ち好さそうにしていることだけは、確かだ。
それに、これはこれで……とバージルは思う。
さして大きくはない鍋に、すっぽりと納まりくるりと丸くなって眠るダンテ。
心地好いと躰全体で表現しているようなさまに、笑みを誘われずにはおれない。
(可愛いことをする)
調理器具の中に入ることは、断じて褒められたことではないけれど。
愛らしい姿に免じて、今だけは赦してやるとしよう。
バージルは思い、ふと、鍋の横に置いてあった蓋に目をとめた。
こう、蓋を閉じてやったら、目が覚めたときこの猫はどうするだろう。
めったに顔を出すことのない好奇心が、むくりと起き上がる。
(空気穴も、ある)
間違っても窒息死することはない、筈だ。
バージルは重さのある蓋を片手に、ふむ、と一人ごちる。
この重さでは、ダンテは目覚めても自分で這い出すことが出来ないかもしれない。
それは……面白い、とバージルは実に酷薄な笑みを浮かべた。
決まりだ。バージルはそっと、銀色の猫が納まった鍋に、蓋をかぶせた。
それから、しばらくして。
土鍋、という名の鍋の中から、きゅうきゅうと鳴く声が漏れ出してきて。
さらには鍋の内側を爪でかりかりと、ひっきりなしに引っ掻く音もする。
あまりにも切羽詰った、それでいて悲壮感の漂う鳴き声と爪の音に、
バージルはにこりと笑んだまま、蓋を外して救い出してやろうとはせず。
しばし放っておくという非道を、何と言うことはない顔でやってのけたのだった。
[08/05/29]