水銀、壱
貧困街の一角、治安の悪さでは随一と言えるだろうその場所に、彼はひとりで暮らしている。
蒼味を帯びた銀髪に、静謐たる湖面を思わせる碧眼、高くすっきりとした鼻梁、
それらが綺麗に配置された完璧な顔立ちを、彼自身は何ら自慢するでもなく、
むしろそれが何の自慢になるのかと眉を顰めるものだから、
羨むものからすれば腹立たしいことこの上ない。
エンツォ・フェリーニョは薄暗いスラムを歩きながら、ひょいと肩を竦めた。
この辺りを歩いていると、必ず浮浪者に金をせびられる。もちろん渡す金などない。
こちらの懐もままならないというのに、人に施しを与えられる程、エンツォは善人では
なかった。
スラムには、来たくて足を運んだのではない。
仕方なし――――ここに好んで住んでいる人物に会う為に、嫌々来ているのだ。
目的の人物を、エンツォは正直に言えばあまり好いていない。
ちょっと息を飲む程の美形ではあるが、男だ。これで女ならばまだ許せるのもがあるが、
相手は男――――しかも性格は、はっきり言って悪い。
エンツォは情報屋などという堅気とはいえぬ仕事をしている。
これから会う人物もまた、堅気の人間ではなかった。
真っ当な人間であれば、金を持っているのにこんなスラムに居座ろうとは思わない。
その点からしても、エンツォには理解の出来ない人物であることは間違いなかった。
情報屋を兼ねて仲介屋を始めたのはもう随分昔のことだ。
依頼人から持ち込まれた仕事を、やはり堅気からは程遠い荒事師どもに紹介してやるのである。
荒事師どもは物探しから殺人まで、金になることなら何でもやってのける無法者だ。
彼らの腕の良し悪しを見極め、確実に仲介してやるのがエンツォの仲介屋としての顔だった。
普段は決まった酒場で仕事を割り振るのだけれども、ほとんど唯一と言って良い例外が、
このスラムに住まう人物なのだ。
名は、バージル。
エンツォの知る中で、もっとも腕の立つ男だ。同時に、もっとも扱いにくい男でもある。
持ち込んだ仕事はどれも完璧に(しかもそつなく)こなす。
様々な依頼があるが、そのどれもをバージルは断ることをしない。
荒事師としては、まさに完璧だ。だからと言って、人間まで完璧かどうかは別問題である。
真っ当な人間が荒事師などという稼業に手を染めるわけはない。
それはエンツォとて判っているのだが、しかしだ。
「バージル、いるか?」
建付けの悪い戸を叩き、反応を窺う。もう一度戸を叩こうとしたとき、不意に、
「にゃあぅ」
足許で猫の声がして、エンツォは「おっ」と声を上げた。
見下ろすと、珍しい銀色の毛並みをした猫がこちらを見上げている。
「おまえか。おい、ご主人サマはどこだ?」
言えば、猫の眉間に皺が刻まれたような気がした。猫はエンツォを睨み、フーッと威嚇して
見せる。エンツォは片眉を上げて肩を竦めた。
「あぁ、悪かったよ。バージルは中かい?」
“バージル”の部分をわざとらしいまでに強調して言い直してやれば、
猫はそれで良いとでも言うように「にゃあ」と鳴く。
この猫はバージルの飼い猫で、しかしバージルを飼い主として認めていないらしい。
エンツォがバージルを指して「おまえの主人」という発言をすると、決まって怒り出すのである。
それにしては、バージルにしか懐かないというのが不可解でならないが。
猫はエンツォの足許をすり抜け、玄関と呼ぶには粗末すぎるドアをカリカリと掻いた。
するとドアが独りでに内側から開いた――――わけではなく、中からバージルが音もなく姿を
現わした。猫を見下ろし、それからエンツォの姿を確認すると、バージルはドアを開け放って
くるりと背を向ける。入れ、ということなのだと、エンツォは経験上知っている為、内心で
ため息を吐きつつドアをくぐった。
銀色の猫はといえば、軽い足取りでバージルの後を追っている。
バージルが黒檀の机の椅子に腰掛けると、猫は慣れた動作で机の上に飛び乗った。
「ダンテ、そこに座るな」
低い声が猫を咎める。そう、この銀色の猫の名はダンテという。
ダンテという名の猫は、尻尾をひょいと振って見せただけで、机の上から降りようとは
しなかった。
バージルがこの街に腰を据えたのは二年と少し前のこと。
そのとき既に、バージルはダンテを連れていた。
どこかで拾ったのか、それとも猫が生まれたときからともにいるのか、
エンツォは知らないし訊こうと思ったこともない。
気になるのは、バージルがやけに、ダンテに人間に対するような言葉遣いをすること――――
それくらいだろうか。
水銀、弐
バージルがこの街に腰を据えた理由は、ただ一つ。
「用件は」
黒檀の机に座るダンテを睨みつつ、バージルはどこか落ち着かない様子の男を促した。
エンツォはそれなりに名の知れた仲介屋だ。
顧客の数も他の仲介屋に比べ群を抜いているのだとか。
そのエンツォを薄汚れた貧困街に呼びつけているバージルに、
怨嗟の目を向けるものは少なくなかった。
が、バージルは別段、エンツォを事務所へ呼びつけているつもりは毛頭ない。
わざわざここへ足を運んでまで、エンツォはバージルに仕事の打診をしに訪れる。
それだけのことだ。
「あぁ、前回の依頼主がいたくあんたを気に入ったらしくてな。
また頼む、と言って来たんだよ」
エンツォは羨ましいとばかりにバージルを見やり、それからダンテへ視線を移した。
「そいつも、えらくお気に召したみたいだぜ?」
突然自分に話が向いたからか、ダンテが銀色の毛並みをふるりと震わせた。
怖がっているわけでは、当然ない。件の依頼主を思い出した所為だとバージルには判った。
「ふん、それで?」
面白くもなさそうにバージルが鼻を鳴らせば、エンツォは鼻の頭に皺を寄せた。
「おい、まさか蹴るつもりか、あんたが?」
バージルは基本的に、どんな依頼であっても撥ね付けることをしない。
選り好みをしないといえば無節操な印象だが、バージルにとって、
好き嫌いをあらわにすることすら面倒だという、ただそれだけのことだ。
むしろ選り好みのはバージルではなく。
「あんな野郎の仕事なんざ、二度とご免だ!」
艶やかな毛並みを逆立て、ダンテが吼える。
それもバージル以外のものには、フーッと唸ったようにしか聞こえなかった筈だ。
「何でおまえが威嚇するんだ?」
まるで判っていないふうに、エンツォが首を捻る。やはり聞こえていないのだ。
ダンテの言葉はバージルにしか理解出来ない。何故かは判らないが、初めからそうだった。
「これのことは気にするな」
バージルは言い、今度はこちらを睨みつけて来たダンテの尻尾を無造作に掴んだ。
ひゃっ、とダンテがバージルの思わぬ行動に悲鳴を上げ、半ば飛び上がる。
「やっ、ちょ、離せよ、バージルッ」
尻尾はダンテの弱い部位だ。それを知っているからこそ、バージルはすげもなく言った。
「こちらの話が済むまで、大人しくしていろ」
そんな、とダンテがどうにかバージルの手から逃れようともがくが、焼け石に水だ。
バージルはじたじたと足掻くダンテにくすりと笑い、尻尾を親指の腹で撫でてやった。
あっ。思いがけず甘い声が上がり、ダンテは恥ずかしそうに腕に顔を押し付ける。
良い反応だ、とバージルは喉の奥で笑った。
「……、おい、」
一瞬忘れていたが、エンツォがいたのだった。
ダンテもすっかり失念していたらしく、がばっと顔を上げてバージルの手をぺちぺち叩いた。
いい加減にしろ、と言うダンテに、バージルはしかし全く聞く耳を持たない。
猫の肉球は思いの外気持ちの良いものだと、バージルはダンテのお蔭で知ったのだ。
と、それは今は置く。
バージルはあくまでダンテの尻尾を掴んだまま、エンツォに視線を向けた。
「悪いが、その話は断る」
「は?」
「これが嫌だと言うのでな、仕方あるまい」
乱暴と言える仕種で尻尾を引っ張り、ダンテをこちらへ引き寄せる。
痛い、と訴える声は聞かぬふりだ。
「本気かよ、バージル! あんな払いの良いカモ…いや、客を袖にするなんざ、
イカれてるぜ!」
喚くエンツォにバージルはやはり淡々として言い放った。
「次はこれの気に入る話でも持ってくることだな」
そりゃないぜ、と肩を落としながら、しかしそれ以上粘ることもなく事務所を後にした
エンツォを、バージルは見送ることもせず。
ダンテを膝の上に乗せ、その掌に馴染む毛並みをたっぷりと楽しむバージルの表情は、
エンツォが見れば唖然としそうな程に綻んでいた。
水銀、参
どうしてこんなことになったのか。
考えても答えが出ないことは、もうとっくに知っているのだけれど。
ふわふわの毛に覆われた全身を、ダンテはひたすらに呪うばかりだ。
猫。誰に会っても、ダンテは自身を猫以外のものには見てもらえない。
それもその筈で、ダンテは今現在、どこからどう見ても猫にしか見えないのだ。
もう二年以上、ダンテはこの姿を恨めしく呪い続けている。
しかし何が一番呪わしいかといえば、いつからか、
この猫の姿に慣れを感じてしまっていた自分自身だった。
猫としては珍しい、艶やかな毛並みを撫でる、慣れた手つき。
長い尻尾を根元から先端までするするとさすり、先端まで辿り着けばまた根元まで。
飽きもせずそればかりを繰り返すのは左手で、もう一方の手はと言えば、
首から腹にかけての毛並みがつんと尖ったところを、やはりひたすら撫で続けている。
普通の猫ならば、それはただ心地の良いのもでしかないのだろう。
しかしダンテはただの猫ではない。
「んっ……ふ、ぅん……あ……や、だ……っ」
声を堪えようとしても、所詮始めの少しだけしか続かないことは知っている。
あえかな声を漏らし、ダンテは躰をよじって手から逃れようとするが、
それも無駄であることは判っているのだ。
それでも抵抗せずにおれぬダンテの心情を、この男はまるで判ってくれない。
「大人しくしていろ」
などと、冷淡と言って良い声音で言い放つ男――――名はバージル。
ダンテの、双子の兄だ。
バージルは何があっても変化を見せない冷たいおもてに、
ダンテにしか判らない程度の(しかしはっきりとした)笑みを浮かべている。
愉しいのだ。ダンテの毛並みを愛撫することが、バージルにとって。
自分の愉しみの為ならば、ダンテの意思などは問題にならないのである。
つまり、完全に無視だ。
「やっ、だって、バージル……ッ」
尻尾の根元をくすぐるように撫でられると、ぞくりとする。
上ずった声が出てしまって、ダンテは蒼い双眸に涙を溜めた。
頭上から、くつりと笑う声が降ってくる。
「泣くことはあるまい」
ダンテは俯いているというのに、何故判ってしまうのか。
双子故の奇妙な同調の為かどうか、ダンテに判るわけもない。
泣くなと言いながら、バージルは手の動きを止めることはない。
ひたすらに、自己中心的。そして鬼だとダンテは思う。
ダンテが嫌がると知っていて、バージルはダンテの毛並みを堪能するまで離してくれない。
それが毎日欠かさず、しかも時と場所を選ばないというのだから泣きたくもなる。
先刻、エンツォがいるにも関わらず、バージルのこの悪癖が顔を出した。
ダンテは猫の姿をしており、声もバージル以外の人間には猫のそれにしか聞こえない。
それは確かなことで、ダンテもよく知っているわけなのだが、しかしだ。
生々しい声を聞かさずに済むからといって、良いものでは断じてない。
むしろ嫌がらせとしか思えなかった。
(くそっ……)
悪態をつくが、声にはならない。
バージルはまだ満足がいかないらしく、ダンテを離してはくれないからだ。
どうしてバージルはこんなにも、猫の自分を気に入ってしまったのか。
二年半。そう、もう二年以上も、ダンテは猫の姿で暮らすことを余儀なくされている。
元は、バージルとほとんど同じ見目であった。それが何故こんな猫の姿になったのか、
話せば長い……こともないのだけれども、その話はもう少し後回しにしたい。
この二年半、ダンテは猫のまま、元の姿には戻れていない。
つまり、その間ずっと、彼らは躰の関係を断っているということだ。
双子だが、彼らは肉体の関係を持っていた。そのことに疑問を抱いたことはないし、
言ってしまえばダンテはバージルとのセックスが好きなのだ。
バージルもまた、ダンテを抱くことに疑問を持っていないことは明らかで、
ダンテ以外の人間を相手にすることもない。その筈だ。
それが、二年以上も関係を断って、しかしバージルは何の不満も抱いてはいない様子で……
毎日、ダンテの毛並みにご執心となれば、不安になるのはダンテだ。
(猫の俺のほうが、良いってのかよ……)
涙の理由は、実を言えばこちらのほうが強いのだと、バージルはきっと知らない。
ダンテは前脚で乱暴に目許を拭った。ここの短い毛並みも兄の気に入りだと思い出して、
また涙がじわりと滲むけれど、零れ落ちる前に拭ってしまう。
「っ、ぅ、う……」
恨めしい。呪わしい。どうしてこんな姿になってしまったのか。
ダンテはバージルに気付かれないよう、前脚で何度も涙を拭わねばならなかった。
夜、バージルの右肩に頭を乗せ、バージルに躰をすり寄せて眠ること――――
それだけが、猫になってからのダンテのささやかな楽しみである。
水銀、四
ひらりと音もなく地面に舞い降りる。
そんなことを苦もなく出来ることに、驚かなくなってもう久しい。
銀色の猫はどこにいてもよく目立つ。
それはとぼとぼ歩いているからであって、颯爽と駆け抜ければ人の視線など気にもならない。
ダンテは流れていく景色を眺めるでもなく、たったと走った。
つい今し方まで、ダンテはバージルとともにいた。バージルの蒼いコートの内ポケットに躰を
納め、ひょこりと顔だけを外に出してきょろきょろしていたのだ。
仕事で出るというバージルに、当然のように同行を申し出たのはダンテである。
バージルもダンテを連れて行くことに異存はなかったようで、軽く頷いて了承してくれた。
猫になったからか生来の気性からか、
ダンテには家でひとりバージルの帰りを待つなど出来るものではないのだ。
バージルはダンテのことを、ダンテ以上によく判っているところがある。
先日、つい涙をこぼしてしまったように、本当に判って欲しいことには鈍いというのに、だ。
ともあれ、バージルはどこへ出掛けるにも、ダンテをともに連れてくれる。
それがダンテの気晴らしにもなることを、やはりバージルはよく知っているのだろう。
その、バージルにくっついていたダンテが何故、今はひとりきりで駆けているのか。
言わずもがなのことではあろうが、原因はバージル以外には有り得ない。
バージルの仕事はたいがい夜のことだ。
ダンテも人間の姿のときには、バージルとともに便利屋をしていたから、それは判っている。
昼間では目立ちすぎるバージルのコートが、宵闇の中にしっくりと溶けることも。
だからダンテはこの姿になってから、いつもバージルのコートに潜り込んでいるのだ。
今日も何の問題もなく、ダンテはバージルの懐から顔を出し、
ときには躍り出ることもありつつ、仕事は無事に終わる筈であった。
が、しかし。
(バージルの馬鹿野郎……ッ!)
憎々しげに毒づき、ダンテはたっと地面を蹴った。
軽やかに跳躍し、爪を引っ掛け、街路樹の枝に登ったところでようやく足を止める。
すっかり小さくなってしまったダンテが目線を高くしようと思えば、
こうして木の枝や家屋の屋根に登るか、もしくは兄の懐か肩に乗るよりない。
いちいち面倒臭い、と膨れっ面になって文句を言うダンテの額を撫でた、兄の指をふと
思い出す。
ダンテはぶんぶんと小さな頭を振った。
ちょっと勢いがありすぎて、足許がふらついてしまったのを踏ん張って耐える。
バージルについては、日々の鬱憤が溜まりすぎているダンテだ。
しかしダンテには、兄を本当に憎むことなど出来はしない。
結局のところ、兄から離れて過ごすことがダンテには出来ないのだ。
それが少し悔しくもあり、同時にくすぐったくもある。
気が逸れていた。ダンテははっとして、前脚で顔を擦った。その仕種を見ているものがいれば、
おそらく「可愛い」と相好を崩したに違いない。が、今はそんな声もかかることはない。
木の上に陣取り身を低くしたダンテに気付くものは、一人もなかった。
(さて、と……)
きょろきょろと、辺りを見回す。とにかく駆けて来たものの、目指していたものは既に視界には
ない。見失ったと見て木に登り、広く見渡すが、どうしたものか。
(確かにあいつがいたんだ。まだ近くにいるかもしれねぇし……)
バージルの懐から顔を出していたダンテは、思い掛けないものを見つけたのだ。
あっと声を上げ、飛び出そうとしたダンテを片手で止めたのは、バージルだ。
どこへ行く、と何故か不機嫌そうに問われ、ダンテはじたじたと暴れながら、
“あいつ”がいた、追いかけないと、とバージルに訴えた。
しかし。バージルはひょいと首を巡らせ、何もいない、とこともなげに言ったのだ。
何を追いかけるのか。鼻で嗤いすらしたバージル。ダンテはかっとなって、バージルの指に
噛み付いた。思わぬ攻撃に怯んだ(こんな珍しいことはない)バージルの手が開いたのを幸い、
ダンテはひょっと飛び上がってバージルの顔を前脚で蹴り付けた。
そしてあとは、知ってのとおりだ。
思い出せば腹が立つ。ダンテはふつふつと込み上げるものを、懸命に抑えた。
今はそれどころではない。ここで諦めてしまったら、ダンテはいつまでもこの姿のままだ。
腕利きの便利屋――――かつてそう呼ばれた自身を思い、ダンテはもう一度、
前脚で顔を拭う。
ダンテが思いがけず見つけたもの。それは二年と半年前、ダンテを猫の姿に変えて消えた、
憎んでも憎みきれない因縁の相手に間違いなかった。
水銀、伍
「どうでも良いからどうにかしろー!!」
そんな絶叫が響き渡るのはもう何度目のことか、数えるのも面倒だ。
バージルは全身の毛を逆立てていきり立つダンテを眺め、またか、とため息を吐いた。
ダンテが絶叫をぶつけている先は、バージルではない。
黒い大きな犬――――しかし尋常の犬でないことは、頭が三つあることで明らかだ。
ケルベロス。地獄の番犬の名を持つ、氷を司る魔界の犬だ。
三つの頭は瞳の色がそれぞれ違っており、性格も少しずつだか違いがあるのだとか。
もっともバージルにとっては、犬の首がそれぞれ違う性質を持っていようがどうでも良いことだ。
問題は、ダンテが猫の姿になった原因が、この犬であるということなのだが……。
「お前の所為でこんなになっちまったんだぞ!? お前がどうにか出来なくて、
誰が俺を元に戻せるっていうんだよ!!」
「知らぬと言うている。我は貴様がそのような成りになっていることも知らなんだのだぞ」
何度同じやりとりを繰り返せば気が済むのか、この会話を聞くのももう五度目だ。
バージルも始めこそ、落ち着けと言ってダンテをなだめ、逆立った毛並みを撫ぜていたものだが、
ここまでくるともはやこちらのほうが飽き飽きしてこようと言うものだ。
今はもう一通り言い合うまで待ち、その後、憤懣やるかたなしといったふうのダンテを、
膝に抱き上げてするすると背を撫でてやるようにしている。
「良いではないか。その姿も、それはそれで似おうておるのだから」
しれっと、犬が言ってはならないことを口走った。
バージルが「あ、」と声を上げるより早く、ダンテが床を蹴り、
物凄い勢いで三つ首の黒い犬に噛み付いていた。
ぎゃん、とそこだけは犬らしい叫びが上がる。
ダンテは犬の、喉笛にがぶりと食らいついたのだ。
本能でそこを選んだのか、それともそこが一番狙いやすかったのか、バージルには判らない。
さすがの魔犬も、急所に思い切り噛みつかれては堪らなかったらしい。
ダンテは仔猫に近い小ささである為、致命的な傷にはなっていない様子だが。
バージルは肩を竦め、ソファーに背中を預けて天井を見上げた。
ダンテが猫の姿になったのは、この魔犬に首許を噛まれたのが原因であった。
犬がそんなことは知らなかったと言ったのは嘘ではなく、
ダンテは噛まれた次の日に、突然猫の姿になってしまっていたのである。
その頃には、犬は最早どこぞへ姿をくらましており、ダンテは茫然とするよりなかった。
犬を探すこと、二年。黒い犬の噂を元に辿り着いたのが、この街だった。
そして先日、ダンテは街のど真ん中で黒犬と散々格闘した結果、捕獲するに到ったのである。
実際に犬の捕獲を遂行したのはバージルではあるが。
犬を見つけたのはダンテだったが、この小ささでは、さすがに捕まえるまで
いかなかったのだ。
しかし。
犬はダンテの姿を見て目を瞠り、戻せと言われても出来ないと言い出したものだから、
ダンテの動揺は見ているこちらが哀れに思う程激しいものだった。
「もーどーせー!」
「噛むな、このちびが」
また言ってはならないことを犬が口走る。ダンテが今度は犬の脚に噛み付いた。
いつの間に噛み癖がついたのか、バージルはまたため息を吐く。
「全く、始末に負えぬわ」
深々と嘆息した犬の、青い目をした首が、口を開けてダンテの首根っこをばくりと銜えた。
その途端、今の今まで犬の脚に噛み付いていたダンテが、身を竦めるように大人しくなる。
「ひゃ……」
そんな、か細い悲鳴のような声を上げて、手足をきゅっとすぼめたダンテを、
黒犬はバージルのいるソファーへと放り投げた。
銀色の毛玉が、バージルの膝にぽすんと着地する。なんとも見事なコントロールだ。
「何度も言うが、我は何もしてやれぬ。悪いが、諦めよ」
きっぱりとした冷たい言い草に、ダンテがうっと顔を歪めた。
泣く。バージルは素早く察して、ダンテの躰を抱き上げて自分の肩口に押し付ける。
ふかりとしたダンテの頭から首にかけての毛並みが、首筋にぐりぐりと擦り付けられた。
「……どうにかなる」
信憑性に欠いた言葉を囁いたバージルに、ダンテが一つ、小さく頷いた。
まだまだ、ダンテが元の姿に戻るのは先の話になりそうである。
[08/2/1]