白緋
濃いエスプレッソを注いだカップを手に、自室にこもる。
やることは一つ。いつもの読書だ。
バージルが二階に引っ込んだ。予定通りだ。ダンテはバージルの部屋のドアが閉まるのを耳で
確認して、ほっと胸を撫で下ろした。
(これで、しばらくは出て来ねぇよな……)
おそらく、バージルは本を読む為に自室に戻ったのだろう。リビングのソファーに陣取って
読んでいることもあるが、集中して読み耽る際には必ず自室にこもる。そういった場合は
一冊読み切ってしまうまで部屋から出てこないことが多いので、その間ダンテは事実上
放ったらかしになる。
それを、狙っていたのだ。
バージルがにいては、準備が出来ない。もしバージルがリビングに居座るようなら、どうにか
言いくるめて部屋に押し込めねばならなかったところだ。そんな、バージルを言いくるめられる
自信などダンテにはない。
めったにないことだが、ダンテはバージルに感謝した。
(さて、まずは買い出しかな……?)
慣れないことをしようとしているだけに、総て手探りだ。ハードルは目一杯低くしてあるけれど、
それでもダンテには越えられるかどうか判らないのだから。
あらかじめズボンのポケットに突っ込んでおいた紙幣を取り出し、確認してからもう一度
ポケットにねじ込む。一ドル紙幣で十ドルもあれば、足りる筈だ。……たぶん。
買い物などめったにしないダンテには、ものの値段というものが判らない。一から十まで、
本当に手探りだ。
ダンテは意を決して事務所兼自宅の玄関ドアを開けた。トレードマークになっている赤い
コートを羽織り、少し曇った空を見上げて肩を竦めた。
溜息が、出る。
慣れないスーパーマーケットでの買い物は、ダンテにとってやはり難関だった。何がどこに
あるのか、まるで判らない。しかし以前のように何も買わずに、というわけにはいかぬのが
つらいところだ。
以前も、今と同じものを作ろうとしてこのスーパーマーケットに来ていた。いや、自ら率先して
ではなかったので、今と状況などは違うけれども。
あの時は、バージルに家から締め出されたようなものだった。
食べたいと言い出したのが失敗だったのか、バージルは自分で作れと言ってダンテを家から
放り出した。訳も判らずスーパーマーケットには足を運んだダンテだったが、結局何も買わずに
帰路に着いたのだ。バージルの怒りを食らうのは覚悟の上で、しかしダンテを待っていたのは
バージルの怒りではなかった。
バージルは何故か、ダンテが食べたいと言い出したものを用意してくれていたのだ。
驚きながら、どうしてバージルが作ってくれたのか判らぬままそれを食べ、ダンテは不覚にも
泣きそうになってしまった。
それが、先月のことだ。
ようやく見つけた目当てのものを、三つばかりカゴにそっと入れる。カゴには既に、先客が
鎮座している。あとは肝心のものを探せば終わりだ。
ダンテは一つ溜息をもらした。
バージルとは、たまに連れ立って買い物に行く。というより、来なくて良いと言うバージルに、
ダンテが無理矢理くっついて行くのだ。さすがに店の中であまりべったり張り付いているわけにも
いかず、バージルの後ろをほてほてとついて回るばかりだが。
何度と訪れた筈のスーパーマーケットが、一人で入るとどうしてか別の場所に思えてならない。
以前もそうだった。どの商品がどこにあるのかも判らず、堪えられなくなって店を出た。家に
帰ってバージルの顔を見た時の安堵感といったらなく、その所為もあって涙がこぼれそうに
なってしまったのだ。
情けないと思う。今時の子供の方が、或いはしっかりしているかもしれない。しかし
こればかりは、ダンテ自身にもどうしようもないことなのだ。
店内をぐるぐると歩き回り、何故気付かないのか不思議になる場所にそれを見つけ、ダンテは
自身を呆れるよりもほっとした。これで金を払ってしまえば、こんな迷子のような状況から
脱出出来る。
レジに急ぐダンテの後ろ姿は、初めてお遣いに来た子供のようだった。
いそいそとリビングと続きになったキッチンに行き、今し方買い込んだものをせっせと広げる。
空になったスーパーマーケットの紙袋をくしゃくしゃにしてごみ箱に投げ入れ、居並ぶ材料を
腕組みして見下ろした。
どうしよう。
ここへ来て、やはり躓いてしまった。
料理などまずすることのないダンテには、何から手を付ければ良いかがさっぱり判らない。
さほど順序を問わないものを作ろうとしているのだが、普段全く料理をしない人間にとっては、
何もかもが意味不明になってしまうのである。
(……パンでも切ろうかな……?)
手探りの調理が、始まった。
バージルはいつもどうやっていたか。今から自分が作ろうとしているものは、どんなふう
だったか。思い出しては悩み、悩んでは手が止まり。遅々として進まない作業は長時間に
及んだ。
まだ、バージルは部屋にこもったまま。それがダンテのせめてもの救いだった。
リビングの床に脱ぎ散らかしたコートに始まり、キッチンはもはや惨状と言っても過言ではない
有様だ。あちこちに白いものが散り、ところどころは赤く染まっている。パンの屑は床に
ぱらぱらと積もっているし、はっきり言って目も当てられない。が、ダンテはあくまで真剣だ。
バージルの為。それだけが、ダンテをこうも盲目につき動かしている。
去年は駄目だった。しかしその前までの毎年、ダンテはこうして悪戦苦闘を自らに強いていた。
いや、強いてやっているのではない。確かに料理などしないし、勝手も判らない。けれど
バージルの為にやっているのだから、ダンテはこうも真摯になれるのだ。
バージルが望んだわけではない。ダンテがやりたくて、好きでしていることだ。
むしろバージルにすれば、迷惑、になってしまう可能性は高い。今年などは特にだ。
バージルは甘い物が好きではないと、ダンテも知っているというのに、あえてその甘い物を
食べさせようとしているのだから。
嫌がらせだと思われない保証は一切ない。それが、ダンテのただでさえ進まぬ手をいっそう
鈍らせる。
(一口……うん、一口でも喰ってくれりゃ良いんだよ)
ぐじぐじと悩んでいた所為ばかりではなく、誰から見ても見た目の悪いものが出来上がって
しまって、ダンテは更に落ち込んだ。パンからはみ出した白くふわふわとしたものは、味こそ
悪くないけれど。こんなものを差し出されて、一口でも食べたいと思う人間――――バージルと
ダンテは半魔だが――――がいるだろうか。いや、きっといない。
じわ、と潤んだ目頭を手の甲で擦り、ダンテは唇を噛んだ。当たって砕けろ。砕けたくはないが、
可能性の高さがダンテの希望を低くする。
(砕けてもともとだ。あのバージル相手じゃあ)
意を決したダンテは出来るだけ見目のましなものを選んで皿に乗せ、、キッチンを後にした。
リビングから廊下に出、階段を一段一段踏み締めるように上る。動悸が激しいのは気のせいだと
自身に言い聞かせるが、バージルの部屋へ一歩近付くごとに、鼓動は警鐘のごとく早まって
いく。
バージルの部屋からは、物音一つない。まだ本を読んでいる最中なのだろう。
いざ。
震える手で、したことのないノックをし。ダンテは冷たいドアノブを捻った。
[08/1/5、再掲載]