たちが悪い(――愛しているから)












てっ、と力強く地面を蹴り、手近な街路樹に飛び付き前脚の爪を引っ掛ける。がりがりと木の 表皮を登り、枝が分かれた箇所へ尻を落ち着けた。そこでそっと、息をひそめる。青い瞳がじっと 見据えるのは、通りから路地裏へと続く一本の小路だ。





「あれ? どこ行っちまったんだ……?」

ぼやきながら、ダンテは光を弾く銀髪をがりがりと掻いた。兄がいれば、乱暴にするなと彼の手を 止めさせただろうが、生憎と言うべきか、ダンテは今一人であって小言を言う人間はいない。
辺りをきょろきょろと見回すが、捜しものを見つけることができない。しばらく通りをうろうろ するが、判ったことといえば、捜しものを完全に見失ったということのみ。何の収獲もないまま、 ダンテは「ちぇっ」と舌を打った。

「逃げることねぇじゃん……」

唇を尖らせ恨みがましく呟いて、ダンテは再度舌打ちをする。悪態、というよりも拗ねた感が 強くなっていることに、ダンテ自身は気が付いていなかった。





目立つ銀色の青年が、路地の奥へと姿を消した。ほっとため息を吐き、無意識に反っていたらしい 肩を下げる。彼は自分に害をなす人間ではけっしてないが、今だけは見つかるわけにはいかない のだ。捕まれば最後、何をされるか判ったものではない。
木の上で、黒い猫はやれやれと首を左右に振った。
判っていたことだが、自分の主人はどうにも困った性格をしている。それが嫌ではないからこそ、 たちが悪いのだということも判っているのだ。
彼はひどく拗ねた顔をしていた。少し下がった肩に乗り、その頬を舐めてやりたがったがそうも 出来ず、じっと堪えたせいか喉が変に渇いてしまった。水溜まりで喉を潤しても良いが、ここ 最近はミネラルウォーターを飲むことが多かったので多少の抵抗がないでもない。もう、元の 暮らしには戻れないであろう予感は、彼を選んだときからはっきりと感じていた。そしてそれを、 自分は享受したのだ。彼のそばで残る生を送ろうと。
どれほど生きられるのか、変化となった時点で猫として定められた寿命は使い果たしたことは 確実だ。それから、何年だろう。どんな生きものにも死は必ず訪れるものであるし、それはよく 知っている。だから自分も、時が来れば死ぬ。そのときが、彼とどちらが先であるかは判らない が。

黒猫は小さな頭をひょいと振り、詮ない思考を振り払った。死については、どれほど考えても 答えの出るものではないのだ。自分が本当に死ぬ、その瞬間でなければ。

「ふぅ……」

ため息を一つ、落として黒猫が身を隠していた街路樹からひらりと飛び下りた。音もなく地面に 降り立ち、尻尾をふわふわさせながら彼が消えた路地へと近付く。そこは、彼の家へ続く小路だ。 角を曲がり、薄暗い路地を歩いていると、不意にばさりと大きな音がして黒猫は足を止めた。 迷いなく頭上を仰ぐと、予想に違わず見知った影がそこに浮かんでおり、目を細める。人間ならば 眉を顰めるという表現になるだろう。
影は黒猫の鋭い睨みなどものともせず、ふわりと下降し猫の目の前で翼を折り畳んだ。表情の 判らぬ黒い闇色の双眸が、じっと黒猫を映している。

「……なんだ」

邪険に睨む黒猫に対し、それはくつくつと喉を鳴らすのみだ。この不敵な大鴉が言葉を操って いるところを、黒猫はまだ一度も見たことがなかった。もしかすれば、そもそも言葉を知らぬの かもしれなかったが、そんなことは黒猫にとってはどうでも良いことだ。問題は、この大鴉が ちょくちょく彼の周りをうろついているということである。
大鴉は何食わぬ顔つきで、翼の付け根を嘴でつついた。掻いているのだろう。ちろりとこちらへ 向けた黒い目が、何を言わんとしているか黒猫には判らない。しかし無性に腹が立つということ だけは確かだ。

「ちっ……」

どこかへ失せろとは言えない。大鴉は翼を広げるや、まっすぐに彼のもとへと羽ばたいて行くに 違いなかった。それは、させられない。彼の肩を陣取るのは自分だけだ。大鴉の目的が何であれ、 彼に触れることはもちろん、彼のそばへ近寄ることもさせたくない。
彼は自分のものではないけれども、彼は自分の主人であるから。他の異形が彼と契約を結ぶなど、 許容できるほど自分は温厚ではない。

「おれに、何か用なんじゃないのか」

大鴉が言葉を操れぬとは判っているが、あえて問うた。この、自分と同じ黒いものをこの場に 引き止めておこうと、無駄かもしれぬが労力を費やそうというのだ。彼のため、などとおため ごかしを言うつもりはない。これは、黒猫自身のためにすることなのだから。

「おまえ、本当に言葉を知らないのか?」

くつくつ、大鴉は喉を鳴らす。それは笑っているようでもあり、嘆いているようでもある。要は、 何を言いたいのかまるで判らないということだ。

(その程度、判っちゃいるが……)

判りたいとも思っていないのだ。しかし自分でも馬鹿だと思うほど拗ねたようにしてしまうのは、 主人である彼は大鴉のことをよく判っているふうだからだ。黒猫の言葉を理解していながら自覚が ないのと同じように、おそらく大鴉の声なき声を彼は聞いているのだ。そんなふうに意思疎通を 計るのは自分だけで充分だというのに、この鴉は。(いけ好かない。なんて今さらだが)

くつくつ、時折喉を鳴らす大鴉を、どれほど睨み付けていただろう。黒猫は突然、「にぅっ」と 悲鳴を上げた。躰が一人でに宙に浮いた――ということは有り得ないが、それに近い驚きを 味わった。黒猫の躰を、誰かがひょいと抱き上げたのだ。その手の主は、彼をおいて他には いない。彼が忍び寄ったのでなければ、いかに大鴉に意識を集中させていたといえども、絶対に 気付く。そして彼が好きなこの毛皮に触れさせるなど、有り得るわけがなかった。

「にゅう……」

窮鼠よろしく弱い声をもらす黒猫を、彼は手の中でくるりと反転させ、顔を見合わせた。彼は 悪戯を成功させた子どものように、瞳をきらきらと輝かせている。

「捕まえた!」

言わなくても判る、と黒猫は唇を尖らせる。こちらはもう観念しているので、今さら再び逃げ 出そうとじたばたする気はさらさらない。諦めが肝心なのだ。それも無論、時と場合によるが。
ぴんと立った耳がわずかに垂れたことに、彼は気付いたかどうか。嬉しそうに弾んだ声音が黒猫の 頭上に降り注ぐ。

「お前のお蔭で助かったぜ」

それは、黒猫を飛び越えてまだ爪をアスファルトに噛ませている大鴉に向けたものであるらしい。 大鴉はかちかちと嘴を数度開閉させ、彼の労いに応えた。気にするな、とでも言っているのだろう か。
一人と一羽が共謀していたという事実に、黒猫は彼の手の中で半ば愕然とした。自分が逃げ回って いる間に、この大鴉はうまうまと彼に接近していたのだ。不用意に彼のそばを離れたことが、 ひどく悔やまれた。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

「……くそ……」

行儀悪く悪態を吐けば、聞き付けた彼が黒猫の腹を親指でぐりぐりとする。無論、痛みなど ない。

「何拗ねてんだよ? かくれんぼは終わりだろ。観念しろよ」

もうしてる。ぼそりとぼやく黒猫の、小さな豆のような鼻先に、彼が軽くキスをした。黒猫を 捕まえたことが、よほど嬉しかったに違いない。

「よしよし、そんじゃ、帰るか」

上機嫌に言って、自宅へと足を向ける彼を見上げた大鴉が、やおら翼を広げて舞い上がり、 ふわりと彼の肩へ脚を乗せた。その当たり前のような仕種に、腹立ちを覚えたのは当然ながら 黒猫である。彼はまったく気にする素振りもなく、お前も来るか、などと呑気に言って笑って いる。冗談ではない。

「ダンテ、何度も言うけどこいつは駄目だ! 追い払え!」

喚く黒猫へ、何も判っていない彼はことりと首をかしげる。

「良いじゃねぇか、べつに。もしかして、取って喰われるとか思ってるのか?」

怖いのかと、とんでもないことを言う彼の手を、ぺちぺちと怒りを込めて叩いた。ただし猫の 脚にはもれなくふっくらとした肉球があるので、大した打撃にはなっていないだろうが。

「大丈夫、大丈夫」

わけの判らないことを言いながらも、彼の足はまっすぐ自宅兼事務所へと進んでいく。黒猫は その間ずっと、肉球でダンテの手をぺちぺちやっていた。







にへらとした笑みが止まらない。
ダンテは至極満足だった。リビングのローテーブルには豪勢な料理が盛り付けられた皿がいくつも 並び、それに加えてワインやシャンパンのボトルが計三本。そして何より、ダンテの一番の 楽しみが冷蔵庫にて己の出番を今か今かと待っている。仕合わせ、まさにその一言に尽きる。

「……満足そうだな」

静かな声が左斜め後ろから耳を撫でた。ダンテはそちらを振り仰ぎ、にかっと笑う。

「当然!」

常に眉間に皺を寄せた男――双子の兄が、苦笑を浮かべてダンテの頭をくしゃくしゃとした。 ぴょこぴょこと跳ねた髪は兄の手によって、すぐに元どおりに梳かれていく。目を細めて、兄の 指の感触を堪能する。そんな自分が少しだけ恥ずかしくて、ダンテは口をもそもそさせて兄の 膝に額を押しつけた。兄はソファーに、ダンテは床に座っている。
蛇足だが、ダンテの尻の下には兄が購入したふかふかの敷物が挟まっており、冷えというもの からは遠い。

「……おい、」

どこか不貞腐れた声がして、ダンテはひょいと顔を上げた。声は、ダンテの足許、膝の辺りからだ。 そこに何がいるのか、ダンテは知らぬわけもなく。

「なんだよ、まだ怒ってんのか、ユタ?」

違う、という棘のある声。見れば、黒い毛玉の塊がもそりとダンテの膝を暖めながら、きらりと した双眸でこちらを睨んでいる。これのどこが怒っていないというのか、ダンテは内心で首を ひねった。

「そんなに気に入らなかったか、それ? かわいいのに……」

ぼそりと呟いたのが悪かったのか、黒猫は「可愛くない!」と珍しく喚いてそっぽを向いた。 それでもダンテの膝から退こうとしないのは、あの大鴉のことをまだ引きずっているから だろうか。

「悪かったよ。な? 機嫌直せって」

猫撫で声で言い、黒猫のつやつやとした毛皮をふんわり撫でる。相変わらず気持ちが良い。 もふもふ毛皮を堪能していると、今度は左から、

「冷める前に食べろ、ダンテ。何のための料理か判らんだろう」

こちらも棘を含んだ声だ。間に挟まれた形になったダンテは、しかし拗ねることも不機嫌になる こともなく、黒猫から右手を話してフォークを手に取った。代わりに左手で、黒猫の喉を くすぐっている。
嫌がっているのかじゃれているのか、ダンテがユタと名付けた黒猫は、前脚でてしてしとダンテの 手を蹴ってくる。が、そこには肉球の感触はない。異常があるのではなく、黒猫が手足に着けた ものがその原因だ。

真っ黒な猫は、四本の脚にそれぞれ真っ白な靴下を履いている。赤ん坊用の、本当に小さな 靴下だ。それからこれまた小さなとんがり帽子を、頭の上にちょこんと乗せている。いかにも 可愛らしい姿に出来上がっているのだが、黒猫自身はどうにも不本意であるらしい。

兄が手ずからこしらえた料理に舌鼓を打ちながら、シャンパンを飲んだり兄に話しかけたりと、 ダンテは忙しく口と手を動かしている。その間にもしっかり黒猫の毛皮を撫でているのだから、 本当に忙しないことだ。
黒猫が不満げに喉を鳴らした。ダンテはにこりとして、愛猫の脚の付け根を擦るようにする。 にゅう、と黒猫がいつもの奇妙な鳴き声を上げた。こちらの気も知らないで、とかどうとか、 ぶつぶつとくさしているようだ。

「たまには良いじゃねぇか。今日はせっかくのハロウィンなんだから」

あっけらかんとのたまうダンテの膝に、猫ががじりと齧り付いたが、飛び上がるほどの痛みは なかった。この猫も、兄も、ダンテを甘やかすことにはよく長けている。それが、ダンテには とても嬉しいことで。

「旨いか、ダンテ」

双子の兄の低い声音に、ダンテは大きく首肯した。





明くる日から、しばらく。街中で翼の内側に何やらオレンジ色を基調とした絵柄を浮き上がら せた、大きな鴉の姿を見たという証言があったとか、なかったとか。



















戻。


リクエスト第4弾、黒猫シリーズでした。
ハロウィンなのか何なのかわからなくなってしまいました…!
こんなでよろしければ、リクくださった方のみお納めくださいませ。

靴下の元ネタは、最近お気に入りのキャラクターでした。

[08/10/30]