身がもたない(――勘弁してくれ)
十月、某日。
ネロは自宅アパートメントの玄関口で、ドアを開けた恰好のまましばし茫然とした。目の前に、
よく知っているもののこんなところにはいないはずの人物が、どこか人を食ったような笑みを
浮かべて立っている。絶句するネロをからかいたくて仕方がないのだろう。この男は、そういう
人間だ。
「よう、坊や。元気にしてたか?」
何を間抜けな顔をしているのかとは、彼は言わなかった。ただにやにや笑う顔が内心をありありと
語っている。
ネロは唇を尖らせ、ようようの体で言った。
「なんで、あんたが……」
顔だけでなく言葉すら間抜けなことを紡いだネロに、彼はにやりとしてのたまった。
「悪戯されるか、お菓子をくれるか、どっちが良いよ、坊や?」
「…………は?」
まさかなぁ、とダンテは笑いながらネロの淹れたコーヒーで唇を湿らせた。ネロはあまり飲む
ことのないアメリカンだが、以前もらった分があったことを思い出したのだ。それをネロに分け
与えたのは、件の騒動の際この世を去った兄のような人である。その人を看取ったのがダンテだと、
ネロは後になって知った。
ちなみにネロはエスプレッソを好んで飲む。そのことをダンテに言うと、ちょっと妙な顔を
されたのはなぜだったのか、ネロに判るはずもない。右腕がみしりと嫌な軋み方をした気がする。
ダンテが近くにいるとき、この右腕は必ず何かしらの反応をネロに伝えるのだ。
「ハロウィンを知らねぇとは想像もしなかったな」
ダンテが「まさか」と言ったのはそのことだ。ネロは今の今までハロウィンなる言葉すら
知らなかった。なのでダンテが言った、悪戯かお菓子かという言葉にもまったくぴんと来なかった
わけだ。
「あんたも知ってるとおり、ここはこういうところだからな。さすがに元日は祝うけど……」
「知ってるが、まさかと思うだろ。こっちじゃ常識……と言っても、まぁ、地域差ってのは
どうしようもねぇか」
肩を竦め、ダンテはアップルパイの切れ端を口に放り込んだ。ピザを食べているときの仕種に
似ていると、ネロは思った。旨そうに咀嚼するダンテに、やはり甘いものが好きらしいと
再認識する。ネロが前に一度だけダンテの事務所を訪ねたときは、バケツ並の入れ物にみっしりと
詰まったアイスを嬉しそうに食べていた。似合わないと言ったネロに、似合う似合わないで
食べるものじゃないとの正論を吐かれたものだ。
「しかし、ボロいな、坊やのねぐらは」
ぼそっと呟かれた言葉に、ネロは眉を寄せた。
「何度目だよ。べつに良いだろ。家なんて、寝れればそれで」
肩を竦めるネロをよそに、ダンテは首を巡らせて部屋の中をぐるりと見渡した。と言って、
さほどの広さもないのだけれども。
「それはそうだが……もちっと片付けるとかしねぇのか?」
「面倒臭い」
あっさり言い切ってやると、ダンテは白っぽい銀髪をがりがりとやって苦笑した。
「そういうとこは似てねぇんだな」
聞かせるつもりではないのだろう独り言を、ネロの耳は幸か不幸か一音残らず拾ってしまう。
けれども「誰に」とは訊かなかった。ネロとて馬鹿ではない。訊いて良いことと悪いことくらい
わきまえているし、何より訊かぬほうが自身のためだということも判っている。
人間のそれではない右腕が、ずくりと疼く。悪魔に対し有効に働くこの右腕が、ダンテが傍らに
いるときに最も反応するのはなぜなのか。ネロは考えぬようにしている。
おそらくそういうことなのだろう、と。予想は、つく。
「あのお嬢さんとは暮らさないのか?」
不意にダンテが話題を変えた。お嬢さんというのはキリエのことだろう。ネロはため息を吐いた。
ダンテは自分と彼女が恋人同士であると思っているのに違いない。確かに自分たちの関係は、
端から見ればそのように見えるのだろう。が、実際は違う。キスはしたことはあっても、ネロと
キリエは厳密にはそういった関係ではない。
「良いだろ、べつに。……あんたのとことは違うんだよ」
思わず拗ねたような声になってしまって、ネロは内心焦った。ダンテは気付いていないのか、
ちらほら不精髭の生えた顎に手をあて首をかしげた。
「俺んち……ねぇ。トリッシュのことか?」
「……そう」
ネロの脳裏に、見事なブロンドの髪が映る。顔立ちも良く、肢体に到ってはけちのつけようもない
ほどだ。そんな女性と、ダンテは組んで仕事をしている。
「あいつはそんな、甘い言葉の似合う女じゃねぇよ。むしろ……」
何を思い出したのか、ダンテがぶるりと躰を震わせた。大袈裟に肩を抱いて見せるものだから、
ネロは不審に思わずにはおれない。あんな絶世の美女を相棒に持っていながら、この男は何か
文句があるというのだろうか。しかしネロが羨んでならないのは、ダンテではなくその美女の
ほうときているのだから笑えない。
ちなみにネロは、トリッシュを一度ちらりと見ただけで話をしたこともない。それもトリッシュが
ダンテの事務所から出て行くところを、路地の角でふと見掛けたというだけなのだ。
「うちの話はいいんだよ。で、べつに住んでる彼女からはこうして差し入れが届く、と」
愛されてるな、とからかうダンテにネロは眉間の皺を深くした。そんなんじゃない、と。
「子どもの頃から、ちょくちょく何か作っては持って来るんだよ。キリエの趣味。最初は不味くて
喰えたもんじゃなかった」
あの味は今でも忘れることができない。クレドが生きていれば、大いに賛同したことだろう。
かの“兄”も、キリエの初めての作品をネロとともに味わった一人なのだ。代わりにこの場に
キリエがいたとしたら、口が裂けても不味かったなどとは言えない。キリエはたいていにおいて
優しいが、怒ると相当怖い。キリエの怒りを買うくらいなら、ネロは悪魔の大群に丸腰で突っ込む
ほうがましだと本気で思っている。
そんなことは無論知るわけもないダンテは、呑気にアップルパイに舌鼓を打っている。
「かなり旨いぜ、これ。坊やが羨ましいな」
「まだあるけど、喰う? どうせ、俺はあんま喰わないし……」
ダンテが判りやすく目を輝かせる。ネロは肩を竦め、子どもみだいだなという感想は口にせず腰を
上げた。冷蔵庫までは五歩もない。本当に狭いアパートメントなのだ。
「坊やは、甘いもん嫌いなのか?」
きちんと箱に入ったアップルパイの残りを、皿にも移さずそのままダンテの前に置く。ますます
目を輝かせるダンテに、ネロは肩を竦めて見せた。
「嫌いじゃないけど、あんたほど好きでもないかな。量は要らないっていうか」
「へぇ……」
よく判らない反応を示して、ダンテはアップルパイの欠片を口へ運ぶ。キリエの手によって、
初めから食べやすい大きさに切られているのだ。
「じゃあ俺が来てなきゃ、これはどうするつもりだったんだ?」
ダンテが問うたのも無理はない。キリエのアップルパイは直径が7インチを越す上、リンゴを
これでもかとばかりにふんだんに使用しているので厚みがすごい。甘いものは嫌いではないが、
量は要らぬと言い切ったネロがこれを一人で食べるとは思わなかったのだろう。確かにかなりの
量だが、いつものことなので気にしていなかったネロは苦笑した。
「喰うよ、全部。もちろん分けてだけど、いつもそうしてるし……残すとキリエが」
怖いから、とはネロは言わなかった。ダンテは勝手に、悲しませたくないからか、などと解釈して
頷いている。
以前はこれよりもはるかに直径が大きくて、さすがに食べ切れず残したのだが、そのときの
キリエの怒りは凄まじかった。クレドが間に入って、せめてもう少し小さく作ってやれと言って
くれたから、今の形になったのである。あのときは本当に怖かった。始終無愛想で、騎士団の
仲間からも敬遠されていた変わり者ネロを、本気で泣かせたのはキリエただ一人だ。
「あんたが喰ってくれるなら、キリエも喜ぶよ」
ダンテはもそもそとパイを咀嚼し、ちょっと思案げに指を舐めた。油がついたのだろうか。ちらと
覗いた舌は思いのほか赤くて、ネロはどきりとしてしまう。
「喜びついでに、コツでも教えてくれねぇかな……」
「は?」
「いや、アップルパイのな……俺が作るとどうも、甘すぎて気持ち悪いって言うんだよ」
トリッシュが、と。あいつ自分じゃ作りもしねぇくせに文句ばっかり……ぶつぶつ愚痴をこぼす
ダンテの表情は、冗談や洒落を言っているふうには見えない。つまりはこの男が。
アップルパイを。
「あんた、お菓子なんか作るのか……?」
茫然と呟いたネロに、ダンテはぱちぱちと瞬きをして。
「作るさ。たいていのもんは自分でな。トリッシュのやつはからっきしだが、俺はこのとおり、
万能なんだぜ、坊や」
悪戯っぽく片目を瞑って見せるダンテに、ネロは思い切り疑い深げに眉をしかめる。正直、
信じられない。一人住まいが長いネロも少しくらいなら料理もするが、キッチンに立って
菓子作りに励むダンテの姿など想像もできない。有り得ない。
「おいおい、坊や。何か随分失礼なこと考えてないか?」
「……べつに」
ついと目を逸したネロに、ダンテが大仰にため息を吐いた。
「ま、良いけどな。俺も昔はからっきしだったし」
「……今はなんで、」
人間、そうすぐに料理ができるようにはならぬものだし、元々料理をせぬ者が突然しようという
気にもなかなかなれない。ネロの素朴な疑問に、ダンテはすぐには答えなかった。旨いと絶賛する
アップルパイを頬張り、コーヒーで流し込んでようよう口を開く。
「……必要に迫られりゃ、何でもできちまうもんだ」
そうだろうかと、ネロは疑問に思ったが口には出さなかった。触れてはいけないものに指先を
かすめたような気が、する。
「じゃあ、コツ教わる代わりに料理教えてやれば良いんじゃないか?」
「あ? 誰に」
「キリエだよ。彼女、お菓子作りは上達したんだけど、料理は全然で」
まさか料理下手とは思わなかったらしく、ダンテが目を丸くした。あまり見ることのないダンテの
驚き顔を、ネロは何気ないふうを装ってしっかり瞼に焼き付ける。
ネロの知っている彼の表情は、人を食ったように口の端を持ち上げたそればかりだ。違う表情を
見てみたいと、いつも思っている。だから以前、ダンテの事務所を訪ねたのだ。けれどもその
ときは、ネロが知っている表情しか見せてはくれなかった。機を見つけてまた行ってみようか、
そう考えていた際の突然のダンテの訪問だったため、ネロは驚いたが同時に嬉しくもある。
キリエとは違った意味で想う相手が、自ら合いに来てくれたのだから嬉しくないわけがない。
ネロの心情など知らぬダンテは、まだ驚きの抜けきらぬふうに顎を撫ぜている。
「まぁ、それでコツを教えてもらえるんなら、安いもんだが」
「じゃあ、キリエにそう言っとくよ。アップルパイの感想言うついでもあるし。……あんた、
すぐ帰るってわけじゃないんだろ?」
まぁな、とダンテはよほど気に入ったらしいアップルパイをどんどん胃に納めながら言った。
少なくとも、次の定期便までは帰ろうにも帰れない、と。ネロは「あぁ」と思い出した。島には
出るも入るも船以外に交通手段がない。住人のほとんどは自給自足によって生計を立てているが、
いちおう、最も近い町からの船が定期的に島を往復しているのだ。住人の中には、その定期便が
運ぶ島では手に入ることのない品物を楽しみにしている者も多い。ただ、船は二日か三日に
一度しか島へやって来ない。ネロがダンテを訪ねたときも、定期便に合わせるよりなかったため
ダンテの家に泊めてもらったという経緯がある。
「だから、今晩は坊やん家に泊めてくれよ」
聞けばてっきり同棲していると思っていたので、他で宿を探そうとしていたのだそうだ。余計な
気遣いをする。ネロはしかめっ面をしてダンテを睨んだ。
「でも違った。坊やは一人だ。野暮な気遣いする必要はねぇ」
良いだろ、泊めてくれよ。ねだるダンテにネロはちょっと唇を噛んだ。こちらの気持ちも知らず、
よくも。いや、知らぬからこそ、か。まぁそんなことはどうでも良い。
「どうせ、出てく気ないんだろ」
言えばダンテはにんまりと笑い。
「晩飯は期待して良いぜ」
なんて。
今ここでキスでもしたら、彼はどんな顔をするだろう。思い、衝動にかられるが、結局何も
できないのだということは自分が一番よく判っている。
意気地がないのだ。
もしもダンテが自分を嫌悪したり、軽蔑したりなどということになったら。そう考えるとこわくて
ならず、結果、ダンテに触れることすらできないという情けない有様となる。
「ベッドは一つしかないから、ソファーでも良ければ」
ため息混じりに言うネロに、ダンテはあろうことか。
「あん? べつに、一緒に寝りゃ良いんじゃねぇの?」
「…………」
ネロが絶句した意味も判っていない、この鈍すぎる彼を。いったいどうしてくれたものか、
ゆっくり講じねばならないとネロは心に決めた。
(俺の身にもなれっての、このオヤジ……)
リクエスト第1弾、ネロダンでした。
なにやら続きそうな雰囲気のまま終了となりましたが…
しかも勝手にハロウィン要素入れてしまいまして…;
こんなものでよろしければ、リク下さった方のみお納めくださいませ。
もしも要望があれば、続きを書くのも良いかなぁ、と。
[08/10/22]